8 ~品評会・輝ける黄金の林檎~(2)

 オーリィの持つその果実。近くでみれば、その貧相さは明らか。黄色の果皮は熟す前に落ちたうらなりの果実にも似ている。しかも表面の半分以上は皺だらけに干からび、茶色く変色している。本来なら、到底この会で披露出来る代物ではない。

(大樹の値打ちはその実りではないわ。あくまで、園をあの虫の群れから守ること。それに大樹は長い間あの虫たちに苦しめられていた、それが癒えたばかりの今、あの樹体によい実をつける体力など期待出来ない。わかっていたことです。

 私の狙いはただ、オーリィさん、あなたをこの会に、この大勢の人達の前に立たせること。ショウの得意なあなたに、もう一度舞台を用意すること……)

 その思惑を胸に秘めつつ、シモーヌもオーリィの差し出す林檎を手にとった。

 その瞬間。

 シモーヌの表情が俄かに驚愕に染まる。手のひらを上に返して小さく上下、どうやら重さを測っているらしいが、その実を見つめる険しい凝視は如何なることか。そして慌てた様子で果皮の匂いを嗅ぐと。

「婆ァ様!これを!」

 シモーヌは弾かれたように傍らのよだか婆ァにそれを突き出した。婆ァもシモーヌの異様な様子に気づき顔を突き出していたので、シモーヌは婆ァを殴ってしまいかねなかったのだが、2人ともまるで意に介さない。

 婆ァはりんごをひったくると、これまたその瞬間に驚きの顔に変わる。喉の奥でヒィと一声、声にならない叫びを上げ、両の眼をグリグリと剥いて手の上の実を睨みつけた。

「シモーヌ!こりゃあ……早く、早く切っておくれ!!」

 そう言って婆ァはシモーヌにりんごを突き返すと、椅子にかけているのがもどかしくなったのか、子供の様に小さなその体ごとテーブルの上に乗ってしまった。そうして愛弟子の手元に戻ったりんごにナイフの刃が入るのを、四つ這いになって凝視する。

 師弟が感じとったもの、それは大樹の実の異様な重さだった。共に長年りんごを扱い続けた2人には、手に取らずとも見ただけで大概のりんごの実の重さは計りしれる。それがこの時、大きく外れたのだ。

 重い。小さなその実が、重さだけならまるで二回りも大きく感じられるではないか。そして、果皮に鼻を近づけてさらに驚く。息を吸わずとも鼻粘膜に直に染み入る、馥郁たる甘い香り!

 シモーヌは震える手でその実に刃を立てた。僅かに入った切れ目から、果皮の干からびからは思いもよらない透明な汁気がしたたる。一瞬の怯み、だがそれを振り払い、シモーヌは一気に刃をまな板に落とした。

 蜜のびっしり詰まった、透明な黄金色の果肉。まな板に溢れんばかりの果汁。その場に匂い立つ爽やかでありながら圧倒的な香気。

 薄切りの一片、渡すシモーヌも受け取るよだか婆ァも震える手つき。取り落としてなるものかとばかり、一口に放り込んだ婆ァは、2度3度と咀嚼した途端に!

 何としたことか、壇の上に立ち上がり、大声でオイオイと子供のように泣きじゃくりはじめたではないか。その場の全ての村人がその姿に息を呑む。村の最古老、齢140歳あまり。長老をも圧する威厳を持って村中に知られたこの人物の、まさかの姿。そして婆ァは大きく手を広げて、背後の大樹に振り返ると、泣きじゃくりながら呼びかけた。

「サーラ様!サーラ様!やりました、あたしの弟子が!お約束を果たしました!あたしの代わりに!あの日のお約束が……果たせた……やっと……!」

 ひとしきりそう叫んだ後、婆ァはそのまま壇上に座り込んで泣き続けた。子供に返ってしまった様なその背中を、シモーヌはそっと抱き抱える。そしてあやすように優しくなでると、幼児を導くように壇から降りるよう促し、再び椅子に掛けさせた。婆ァは嗚咽を続けながらも弟子に素直に従う。歓喜の激しい発露の反動で放心しているようだ。

「シモーヌ君、これは一体……?」

 その場の師弟の様には、余人が近づくのを躊躇われる雰囲気があった。侵し難い師弟愛。しばしの間、その場におとずれた沈黙。だが長老はついに好奇心に堪え兼ねて口を切った。

 シモーヌはそれに対して、無言のまま静かに薄片を切り分け、長老に、バルクスに手渡し自分も一片を手にした。

「これは……!」「何という!」

 途端、来賓の2人は顔を見合わせる。

 この世界の「りんご」。確かにそれは、他の作物に比べて遥かに食べ易く美味。だからこそ珍重されてはいるが、彼らの元いた世界の果物と比べればせいぜい並程度。だが。

 大樹のその実は次元が違った。甘さ、みずみずしさ、風味、香り。彼らの想像の及ぶどんな高級なフルーツパーラーでもレストランでも、否、例えどんな王宮の食膳といえども、簡単には提供できないであろうと思われる、その例えようもない味!

 役場の来賓2人が言葉を失っている間に、シモーヌも自らその実を味わった。ゆっくりとした咀嚼ののち、貴重なものを体内に収めるかのように飲み下して、しばし余韻に浸ったかと思うと。

 シモーヌは一転、決然とした顔色で聴衆に語りかけた。

「皆様!今から、私の話にしばし、耳をお貸し下さい!」

 シモーヌの声が会場を圧する。それは、この姿なよやかな人物からは想像もつかないような大音声であった。そしてシモーヌは、壇の背後遥かに会場を見下ろして立つ、あの大樹を指して語り始めた。

【この樹をけして絶やすな】と、りんご園園長代々に語り継がれたあの伝承を。そしてその伝承が、如何に命懸けの覚悟をもって、当代のよだか婆ァまで受け継がれて来たのかを。

 オーリィのあのショウを見た者にはその一端は知らされてはいた。が、これほどそのまつわる事情を詳しく、尚且つ伝承に関わった者たちの情熱をそのまま伝えられたのはこれが初めてのこと。ことに、りんご農婦達にはその物語は驚きであった。自分達のりんご園と敬して仰ぐ園長達に、そんな秘密があったとは。

「こうして。大樹の蘇ることのないまま、よだか婆ァ様までこの伝承は受け継がれました。そして婆ァ様も……大樹の復活にあらゆる手段を尽くされながら、一度は断念せざるを得ませんでした。そして伝承を、この私に授けるおつもりだったのです。ですが……」

 淀みなく語り続けていたシモーヌの口調が、ここで少し沈んだ。

「私は……伝承をお受け出来ませんでした。自信が無かったのです。この偉大なよだか婆ァ様にも果たせないこと、それが私ごときに叶えられることなのでしょうか?私は、婆ァ様のそれこそ血を吐くような懇願を、これまで無情に拒み続けました……

 何という、不甲斐ない弟子、恩知らずな弟子なのでしょうね……」

 シモーヌの頬を涙が伝う。そして傍らのよだか婆ァを見れば、そんな愛弟子の顔を見つめながら首を横に振り続けているのだ。

「違うよ、違うよ」と。

 会場につめかけた農婦達の間から聞こえてくる、すすり泣きの声。そしてある者たちは慚愧のあまり顔も上げられない。よだか婆ァとシモーヌの師弟の睦まじい絆、それを邪推で貶めた自分達の浅はかさが恥に堪えないのだろう。

 シモーヌは一息、呼吸を継いだ。そして一際語気を強めた。

「そこで婆ァ様は、頼むに足りない私のために、大樹を救うための新たな人物をお求めになった。そしてついにその白羽の矢の立つ人物が現れました……

 それが!ここにいるオーリィさんなのです!!彼女は!」

 聴衆がざわめき立つのを素早く制して、シモーヌは言葉を継ぐ。

「鋭い感受性と直感力、大胆な発想力と行動力の持ち主。婆ァ様はそこを見込まれたのです。そして、りんご園の積年の悲願、大樹の再生を彼女に託された。

 さぁ、もう一度!ご覧ください、あの大樹の緑豊かに繁る姿を!およそひと月前は枯れ木同然だったあの樹……彼女が!オーリィさんがそれを蘇らせたのです!」

「違うわ!!」

 遮った者がいる。他ならぬオーリィ自身だった。

「おいおい、コイツは予想外だぜ!あのオーリィちゃんがよ、押されて浮き足立ってるとは。代行さんめ、あれも大した役者だぞ!なぁベン?」

 ゾルグの言葉にベンの返事は無い。彼もまたその光景に釘付けだったから。

 そう、落ち着き払っていたオーリィの態度は、シモーヌの弁舌が自分の話になるにつれ、急に崩れてきたのだった。そわそわと落ち着きなく会場を見回す、その眉間に焦りの色が浮かぶ。居心地の悪さに堪りかねたような、その叫び。

「あなたも知っているはずだわ、大樹を生き返らせたのは、木樵のベンさんでしょう?!わたしはあの人を見つけただけ。わたしは何もしてないわ!!」

 途端。シモーヌは壇の中央からよだか婆ァの後ろを回り込んで、壇を降りた。そしてそのままつかつかとオーリィに詰め寄った。

「そう。あの方の知識がなければ、確かに出来なかったことです。

 けれど!あなたがあの方を見つけ出さなかったら、あの方に大樹のことを伝えなかったら、やはり大樹は救えなかった、違いますか?!

 そして私は見ていました。あなたがあの虫達の女王と戦う様を、女王にとどめを指す瞬間を。大樹に巣食っていた虫達の群れを滅ぼしたのは、オーリィさんあなたです。違いますか?!

 オーリィさん、何故あなたは逃げるのですか?!」

 詰め寄り続けるシモーヌに、オーリィは一歩も引かない。その間合いは、最早鼻と鼻がぶつかる程。

 すわ、とばかり、壇の脇からメネフとコナマが、やや後ろからケイミーとアグネスが飛び出す。

 突きの右手、締めの左腕、オーリィの武器はどちらも既に必殺の間合いだ。一方、シモーヌには一瞬で相手の体の自由を奪うあの悪魔の囁きがある。まさに一触即発の事態。メネフとアグネスが目を見かわす。力づくで二人を分けるしか無い、だが、飛び掛かろうとした二人をコナマが止めた。

「何でだ婆さん!」 

「よだか婆ァ様が……!」

 彼らから見た、オーリィとシモーヌの背後で。すっかり放心状態から立ち返ったよだか婆ァが、今度はうって変わった厳格な眼差しで、広げた掌を突き出して、頭を左右にふっているのだ。この場は手出し無用というジェスチャー。顎をくいと突いて視線で指し示す。

「シモーヌに任せろって……婆ァ様はそう言ってるのよ……」

 ひるむメネフ、尚も一人いきりたつアグネスを、今度はケイミーが抑えた。

「お願い、待って!シモーヌさんなら、きっと大丈夫だから……!」

 あの嵐の過ぎ去った朝、オーリィはシモーヌに対する発作的な憎しみから一度は解放されたかのようだった。だが今、それは再びオーリィを捕らえている。体内から吹き出しているあの妖気。

 この際不可思議なのは、先にそれで殺されかけたシモーヌが、自らオーリィを挑発し焚きつけている様に見えること。「大丈夫」といったケイミーにもそれは感じていたのだろう、言葉とは裏腹に不安で肩を小さく震わせていた。

「逃げる?ククク……誰が?わたしが?何から逃げると言うの?!」

 オーリィの歪んだ嘲笑、ふたたび。だがこの時は、明らかに彼女はシモーヌに気圧されていた。シモーヌの顔が、鋼鉄の壁の様な意志と決意をもって立ちはだかっていたからだ。

「卑屈なのです、あなたは。あなたはまた逃げようとしている。

 賞賛から。承認から。好意から!

 逃げて、あなたが悪く慣れ親しんだ屈辱と後悔の中に隠れ家を求めようとしている、違いますか?!

 あなたが大樹から採ったこのりんご。私は最初から問題にしていませんでした。今の大樹からよい実が採れるはずはないと。大樹の実はこの会にあなたを参加させるための形式的な飾り。私は、あなたが大樹に緑をもたらしたこと、それだけを労うつもりでした。

 それがどうです?この、神が喫するものの如き黄金の果実……私の浅はかな見込みを遥かに超えていた……これがあなたです!見窄らしくひねこびた、いじけた姿の中に!黄金に輝く魂を眠らせている!

 目を覚ましなさいオーリィさん!

 堂々とこの栄誉を受けたらどうです!あなたに相応しく!

 これ以上!怠惰な卑屈に眠り続けることは、この私が許しません!!」

「許さない……?何様のつもり?

 シモーヌ!あなたがわたしの何だって言うの?!」

 ガッキリと視線をぶつけ合う二人。しばし、会場の全てが固唾を飲む。

 均衡を破ったのはシモーヌだった。

 見開いた目をそっととじる。頬に寂しげな微笑みを浮かべて。

「そうですね……私はあなたにとって何なのでしょうね?私はいつもあなたとこんな風にしか話せない。あなたがずっと憎んでいたという、あなたの前の世界の母のように……そっくりなのでしょう?わたしは、その人に。聞いていましたよ……」

 一転。シモーヌの声はえもいわれぬ穏やかな響きに変わった。そしてその奥に、深い哀愁が漂っている。

 怒りと警戒心で噛み付かんばかりだったオーリィの顔色からも緊張が解けた。シモーヌの態度の様変わりに、怪訝に小首を傾げて次の言葉を待つ。

「そうですね、では私にとってあなたは何なのでしょう?あなたは……

 あなたはね、とっても似ているのです。姿、顔立ち、仕草、そして何よりその声……似ているの。

 私が、私の前の世界に残してきた、私の娘に……私の娘、クロエに……

 似ているのよ……!」

 クロエ。その名を聞いて、オーリィの口から声にならない悲鳴が漏れた。驚愕に目を見開き、額には冷たい汗。たたらを踏んで、二歩そして三歩と後退る。

 クロエ。かつてオーリィが、かりそめの自由と引き換えに捨てた、彼女自身のかつての名。この村でその名を知る者は、他はケイミーあるのみ。ケイミーもまた、真っ青な顔で肩を震わせていた。

「オーリィさん、どうか聞いて……

 皆様も!今しばらく、私の話に耳をお貸し下さい!

 私がどうしてこの村にやって来たのか。死の直前に受けた傷、致命傷になった傷は、この村に生まれ変わっても残される……私の傷痕。頭の後ろに大きな裂け傷、そして背中に刃物の刺し傷が、9つ!!

 おわかりになりますか?私は、人に殺されてここに来たのです……」

 会場から一瞬ざわめきが漏れ、そしてすぐさま凍りついたように静まりかえる。

「シモーヌ君!!」

 満場固唾を飲む中、長老が叫ぶ。あの裁判の日、彼がたどりついた、しかし余りの残酷さゆえに考えを止めたあの推論。まさか?と。

 シモーヌは彼に小さく頷くと、しずかに、しかしきっぱりと言い放った。

「私は、殺されたのです。私の実の娘に。私の娘、クロエに……!」

(続) 

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