27話「わたしの戦争」



 朝起きた瞬間、これはダメだと悟った。

 間違いなく熱がある。関節が痛む上、頭痛が襲ってきている。悪寒もするし、完全に発熱している。

 のそのそと起きて、体温を測る。

 しばらくして体温計に表示されたのは39.7という数字。

 なかなかの高熱だ。

 そう判断した僕は、薬を入れている箱からあらかじめ処方されていた解熱剤を取り出す。

 水道水でそれを流し込むと、何かしら他にも腹に入れなくてはと思ってあたりを見回すが……ふと、色々と面倒になった。


 食べるの面倒くさい。


 そういえば昨日の夜何か食べたか?

 思い出せない。食べた気もするし食べてない気もする。


 ……思ったよりも僕はくるみと話す生活に馴染んでしまっていたようだ。くるみと一日話さなかっただけでこんなふうになるとは思っていなかった。


 ……何も考えたくない。何もかも面倒だ。

 そもそも面倒くさがりでろくでもない僕は、心も体も不調となれば本当に何もする気がなくなる。生命維持に必要な食事すらも面倒になってしまった。


 ――ああ、熱のせいで思考が変な方向にしか行かなくなっている。ベッドに戻って、もう一度寝ることにしよう。



◆ ◇ ◆



 綾人の欠席の原因が発熱によるものだと判明したのは、昼休みを過ぎてからだった。

 本人から発熱で休むと電話があったらしい。

 その情報が担任からわたしにもたらされたのは、おそらく綾人の家庭事情をある程度担任が把握しているからか、普段からよく話すのを知っているからかはわからない。


 そして放課後。少し悩んだものの、わたしは綾人の家に行くことにした。

 綾人に言いたいことの整理もできたし、これからどうするのかも決めたから、なるべく早く話をしたかった。時間をかけると余計話しにくくなりそうだったし。


 看病に必要なものを買ったわたしは、合鍵を使って綾人の家に入る。


 綾人は風邪の時にも安静にしない。家事をしたり、テレビを見ていたりする。

 今日もそうなのだろうと思ってリビングに行ったが、珍しく綾人はそこにいなかった。

 わたしはキッチンに買い物袋を置くと、綾人の部屋に向かう。



「綾人、入るよ?」


 入る前にそう声をかけて、すぐ中に入る。

 本当は返事を待つべきなのかもしれないが、その時間がもどかしかった。

 綾人の自室はいつも通り物が少なくて、整理されていた。

 そんな空間の中、ベッドでもぞもぞ動く一つの塊を見つけて、わたしはほっと息を吐く。


「調子はどう?」

「……普通」


 ちらりとこちらを見た綾人にそう話しかけると、帰ってきたのはいつもよりもぶっきらぼうな声。

 布団にくるまって鼻まで隠している綾人の顔色がよく見えず、どれくらい熱がありそうかも判断できない。


「熱は何度あるの?」

「……朝は39度半ばくらいだった」

「馬鹿じゃないの!? そんなにあるなら人呼びなよ!! 何かあったらどうするの!」


 想像以上の高熱に、わたしは思わず大きな声を出してしまった。


「……誰呼べばいいのさ。くるみとは話せる感じじゃないし、それなのにくるみの親に頼むのも頼みづらいし」


 しばらく間があってから帰ってきたのはそんなか細い声。

 それになんと答えたらいいのか分からず、しばらくしてからわたしの口から出たのは「ご飯は食べたの?」という当たり障りのない言葉だった。


「食べてない」

「飲むゼリーとか買ってきたけどいる?」

「いらない。気分じゃない」

「……病院行かなくていいの?」

「大丈夫。解熱剤あるし。効果切れてるからそろそろ飲まなきゃ」

「その前に熱測って」


 体を起こして枕元に置いてあったペットボトルと薬の袋に手を伸ばした綾人を制して、体温計を渡す。

 綾人はゆっくりとそれを受け取ると、自分の脇に挟み込んだ。

 計測が終わるまでの間、二人の間を沈黙が包み込む。


「……38.8度」

「高熱じゃん。やっぱり病院……」

「行かない」


 綾人はそう言うと、解熱剤を口に含んでペットボトルの水で流し込む。

 その作業を終えた綾人は、わたしに背を向けて布団に包まってしまった。そのせいで、綾人の顔はわたしから見えなくなる。


「ねぇ綾人。今日なんか変だよ」

「……くるみも昨日変だったよ」


 純粋な心配の言葉を投げかけた結果、返ってきたのはどこか責めるような色を孕んだ声。


「……一昨日」


 しばらくの沈黙の後、綾人がぽつりとそう溢す。


「一昨日は、言い過ぎた。ごめん。あんな言い方するほどのことじゃなかった」


 ――きっと、綾人はわたしが本当は何に傷ついたのか知らない。

 でも、この場でそれを言うほどわたしは子供ではないし、度胸もない。


「うん。わたしも、昨日はごめん。綾人のこと露骨に避けてた」


 わたしの謝罪に対して、綾人は少し体を動かした後、こっちを見て口を開く。


「……くるみ。手」

「手?」

「うん」


 綾人にそう要求されて、わたしは大人しく手を差し出す。すると、布団から出てきた手がわたしの右手をぎゅっと掴んだ。


「……綾人?」

「…………」


 意図が分からずそう尋ねるが、綾人からの答えはなく、その代わりゆっくりと目を閉じてふぅ、と深く息を吐いた。

 どこか落ち着いたようなそれに、わたしはピンとくる。


「もしかして、寂しかった?」

「…………」


 その返事だとばかりに、綾人は手をぐいって引っ張って、わたしの手を布団の中に引き摺り込む。

 その仕草がどうもおかしくって、思わず口角が上がってしまう。


「綾人って意外と寂しがり屋だよね」

「……風邪ひいてるから弱気になってるだけ」


 もちろん、それも理由の一つなのだろう。

 けれど、わたしにはそれだけじゃないという確信があった。


「昨日わたしと話さなかったのもあるでしょ?」

「……くるみは昨日一日なんとも思ってなかったの?」

「思ってたよ。話したいなって」


 もちろん、綾人の言葉に対して心はぐちゃぐちゃになっていたし、話す気分でもなかった。

 でも、綾人と話さないと物足りない気分だったのも事実。


「そう思ったからこそ、わたし決めたの」

「……何を?」

「ねぇ綾人。わたし本気だから」

「だから、なに――」

「綾人がわたしを抱いてくれるまで諦めないから。

 遊びじゃないよ。ふざけてもいない。本気で、わたしは綾人にそういうことをしてほしい」


 目を見開く綾人。

 理解が追いつかないのだろうか。口は何の意味もなく開いている。

 普段の綾人とは違うその様子を面白いと思いつつ、わたしは綾人に近づいて、布団越しに抱きしめる。



 「……だから、覚悟しててね」



 綾人は絶対離さない。離したくない。


 綾人がこの宣言を信じてくれるかはわからない。仮に信じたとしても、綾人は手を出してくれない可能性が高いだろう。「結婚もしてないのに責任取れない事はしない」と素で言いかねないのが綾人だ。そんな綾人をその気にさせなきゃいけないなんて、気が遠くなる。


 敵は手強い。


 今までは「いつかどうにかなるだろう」と、綾人ならわかってくれていると、どこか楽観視していた部分もあったが、これからはそうではない。


 これは、文字通りの戦争だ。

 綾人の理性を溶かせるかどうか、綾人と、自分の羞恥心と、戦うのだ。

 敵は手強い。すぐには勝てないかもしれない。

 でも――



 わたしは、改めて覚悟を決めた。


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