第3話歩いた
ここで岡本未練について軽く紹介をさせて頂きたい。
岡本未練の元いた世界での経歴である。
岡本未練は二〇〇〇年二月二十日、
小中高と軽骨市で過ごした後、
特にトラブルを起こす事もなく、真面目に勉学に励む目立たない学生であった。
サークル活動、部活動にも参加はしていない。
只、県立軽骨高校時代は軟式野球部に所属していた。
甲子園でお馴染みの硬式ではなく軟式。ポジションはピッチャー。
ここは軟式だからといってみくびらないでいただきたい所。
軟式からプロに進んだ偉大な投手だっているし、彼はエースピッチャーとして西中国大会準決勝までチームを導いた、まあまあそこそこ、よく頑張ったほうの選手なのだ。
何故軟式なのか?
表向きの理由は、坊主が嫌だったからだ。
軽骨高校硬式野球部員は、入部と同時に坊主頭にするのが暗黙の了解になっている。
只、実際それは理由の一つに過ぎない。
彼の性格が硬式野球部の体育会系風土とは、徹底的に合わなかったのである。
ちなみに元いた世界では恋人がいた。
名前は
後々登場する予定だが、どんな女性かはその時のお楽しみ。
と言いたい所だが、無駄にハードルを上げても期待に応えられそうもないので先に言っておく。
決して美少女ではない。
少なくとも未練はそう思っている。
妥協に妥協を重ね、付き合っているつもりでいる。
それはお互い様だからと、悪びれる様子もない。
全くひどい男である。
女性に対して失礼とは思わないのだろうか?
女性の敵!卑劣!最低!許せない!!
この物語の語り手は岡本未練の女性に対するこのような態度に、断固抗議する立場である。
安心していただきたい。
異世界迷子センターに連行された岡本未練は何重にも施錠された地下実験施設に手足を拘束された状態で隔離され、一日中身体のあちこちを調べられ、会話も許されず、食事は口に固定されたホースから直接流し込まれ……
という事はなく普通にその辺をぶらついている。
未練のいる異世界迷子センター関東本部は、
JR
四階建ての建物で一階が受付と事務所、二階が多目的教室や面談室等、三階に簡易宿泊施設、四階に資料室がある。
異世界に迷い込んで右も左も分からぬ迷子達を保護し、この世界に順応する為の支援を行う施設である。
未練には三階にある一室が与えられ、午前七時から午後十時までなら出入り自由、一日三食栄養を考えられた食事まで用意してもらえる。
部屋にはテレビパソコンネット環境完備。携帯も支給され、職員にちょくちょく連絡をいれねばならないが好きに使ってもいい。
所持金一五七二円は没収されたが、代わりにこの世界の紙幣が一日二千円支給される。
一日二時間程度の授業があり、この世界で生きていく為の基本的な常識知識を教えてくれるが、受講は任意で別に出席しなくてもよい。
正に至れり尽くせり。未練は支給された二千円を握りしめ街をブラブラするのであった。
いいご身分に見えるが実際の所はそうでもない。
未練の名誉の為に言うが、別に呑気に街ブラを楽しんでいる訳ではないのだ。
部屋に籠っていては気が滅入って仕方がない為、気晴らしに外をフラフラするのが日課になっている。
気晴らしの為の街歩きだが未練の表情は冴えない。
迷子センターに滞在出来るのは二ヶ月が限度だ。
それ以降は否応なしに社会に放り出される。
実際は住居や就職を斡旋してもらえたり、生活支援金が支給されたり、職業訓練が受けられたりと完全に見捨てられる訳ではないが。
只、一度異世界に放り出され不安な思いを味わった未練にとって、もう一度この世界に放り出される事は言い様もなく心細いのだ。
――働きたくねえ
……まあ一言で表現すればそういう事である。
元の世界ではまだ大学二年生だった訳であるし、未練にはバイト経験すらなかった。
そしてこちらの世界では大学高校はおろか義務教育すら修了していない事になっている。
希望の職に就けるとは限らないのだ。
将来の展望が見えないこんな環境では、未練でなくとも就業意欲は湧きにくいのではないか。
しかし未練はこの世界において、もう一つの選択肢を持っていた。
未練にとっては現実味のない様に感じるその選択肢。
その一方で、途轍もなく魅惑的な選択肢。
岡本未練にはプロ野球選手という選択肢があった。
未練は異世界迷子センターに連れて行かれる車中で、異沼から簡単な説明を受けた。
ここは異世界であると。
未練が元いた世界と重なる様に存在する世界。
両者はよく似ているがお互いに交わる事はない、基本的には。
何事にも例外はあり年に三十人程度、未練の様に迷い込む人間がいて迷子センターが回収している。
これはこの世界では常識であり、別に国家機密とかそういった類の話ではない。
故にその辺の女子大生でも、異世界人に対して慌てる事なく対処出来るのである。
迷子センターに収容された人間は簡単な健康チェックを受けた後、大量のアンケートを書かされる。
迷子達の元いた世界の情報を得るとともに、アンケートを元に職業適正を見て仕事を斡旋する為である。
その後二ヶ月の間に職員が何度も面談をして、迷子達の今後の生活方針を決めていくのだ。
未練には特に将来の夢などなかった。
就業経験もなく、何かの専門知識を持っている訳でもない。
未練の担当職員となった異沼は、まずは職業訓練を進めてみた。
飛切りに明るい猫撫で声で充実のサポート体制について説明する。
未練は煮え切らない様子で曖昧な返事である。
頬杖をついて長机の木目を見詰めている。
異沼も予想はしていた。未就業の若い迷子にはよくある反応だ。
見たところ覇気の無い若者である。あまり期待は出来ないだろうと思った。
自分の担当した迷子が実績を残せば、それは自らの実績にもなる。
逆に自立できなかったり、問題を起こせばマイナス査定だ。
辛抱強く説得して、何とか不良債権化は避けたい。
若干のイラつきを抑えつつ異沼はアンケートをパラパラめくった。
ある項目が目に留まる。
高校在籍時の部活動、軟式野球部。
異沼の胸は少し高鳴った。
軟式なのが少し気になるが確認しておく必要がある。
「野球やってたんだね。ポジションはどこ?」
もちろん猫撫で声。
未練はピッチャーです、と答えた。
異沼が一番期待していた答である。
胸の高鳴りを抑えつつ質問を続ける。
「へえ……ピッチャーね。何キロ位出せるの?」
MAX一三〇キロです、と未練。
いいじゃん、と異沼は思った。
こいつが成功すれば儲け物だ。
さっきまで頼りない若造に見えていた目の前の男が、急に不敵なオーラを放つ才傑に見えてくる。
「プロ野球選手に興味ないか?」
声を作るのを忘れ、低音の地声で聞いてしまった。
未練は初めつまらない冗談だと思った。
未練の思うプロ野球とは、一五〇キロ、一六〇キロの世界である。自分の手の届く領域ではないと自覚している。
未練も少年期はプロ野球選手に憧れ夢を見たものだが、野球を始めて一ヶ月後には無理だと悟った。
目の前のいかついおじさんは不釣り合いな猫撫で声を出し、眉を下げ口角を上げ甘い顔をして厳しい社会の荒波に未練を勧誘してくる。
軟式野球の取るにに足らない投手であった未練を、ヨッ!プロ野球選手!などとヨイショしてくるのである。
未練は心底、面白くないと思った。
こんな面白くないおじさんに騙されてはいけない。
信用したら最後、職業訓練所にぶち込まれてしまうのだ。
だが、冗談にしては異沼はしつこかった。
プロ野球選手になる利点をいくつも挙げて説得してくる。
どうやらこの世界でも野球は人気スポーツらしい。
そして未練の実力で通用するとも。
異沼も実はこの時、確信は持っていなかった。
未練をノセる為に通用すると断言してしまったと、後々飲み会の席で語っている。
無責任な男である。
この世界で生まれた男性はとある事情で弱肩、肩が弱い。
速い球を投げる事が出来ない為、未練の様な助っ人異世界人は貴重であった。
異沼は迷子センターの裏庭に未練を連れていき、キャッチボールをしてみせた。
異沼は身長一八六、体重九九の大柄な男である。
その男の力強いフォームから放たれたボールは信じられない位に弱々しかった。
山なりのボールは十メートル先の未練まで届かず足元に落ちた。
逆に未練のボールを異沼は捕る事が出来なかった。
異沼にとっては初体験の速さだった為だ。
「ハハッ、速えええ!ハハハハッ」
後ろに逸らしたボールを追いながら、異沼は楽しそうである。
未練はあっさりその気になっていた。
一度はその気になったものの、人の気持ちは変わるものである、未練は迷っていた。
プロ野球界挑戦に反対する者もいる。
異世界人組合関東支部職員、
異世界人組合とは異世界から迷い込んだ人間が集まり作った組合で、異世界人の地位の向上、権利の保護を目的としたものである。
この国に異世界人は約千人おり、ほとんどが組合に加入している。。
新しく迷い込んだ人間が現れると相談アドバイス面談と称して介入し、組合に勧誘する。
江藤はプロ野球入りを勧める異沼に怒りを隠さなかった。
実はプロ野球に挑戦した助っ人異世界人は過去に何人もいる。
ある程度速い球を投げられる人間は、この世界では貴重なのだから当然と言えば当然。
しかし、その多くは早々に挫折している。
一試合程の出場で退団してしまうのがほとんどである。
異沼は自分の出世の為に未練を利用しようとしている、と江藤は考えた。
無責任に若者を焚き付けるが、その将来の事は真剣には考えていないと。
間違ってはいない。異沼は未練を宝くじ程度に考えている。
当たればラッキー、潰れても査定にほんの少し響くだけってな物である。
江藤は未練に職業訓練を勧めた。
支援金を受けながら訓練所に通い、なるべく好条件の就職を目指す。
無事就職が決まれば働きながら高卒認定を取得し夜間大学に通う事も出来るし、資格の勉強をするのもいい。
「とにかく今はなるべく早く生活基盤を整える事。制度は揃ってるんだから後はお前の努力次第で道は拓ける。野球なんて夢みたいな事言ってる時間はないよ」
ぐっと目に力を込め未練を見据え訴えた。
実の所、異世界人が働かずにこの世界で生活するのは可能である。
支援金を受けられるのは新生活を始める為の支度金として、職業訓練中の生活費としての二パターンだ。
本来職業訓練が終われば支援金は打ち切られる訳だが、実はこの制度何度も利用出来る。
複数の訓練所を渡り歩き引っ越しを繰り返して支援金を受け取り続ける事が可能な、ぬるっぬるの制度だ。
または生活保護制度である。
異世界人である事で申請が通り易くなる。
特に制度に明記されてはいないが、慣例でそうなっている。
最近は制度を悪用し働かない異世界人が増えた。
異世界人組合としては無視出来ない所である。
いつ問題視されて制度見直しの方向に進むか分からない。
自分達にとって美味しい制度を維持する為には、ある程度の成果を残す必要がある。
江藤から見て未練は無気力な若者だ。
口数少なく表情乏しく、優柔不断人見知り。
ここまでは異沼と全く同じ感想である。
おおよそプロ野球でやっていける強い人間には思えなかった。
むしろ就職し、仕事を継続していけるかも怪しい。
ニート予備軍の匂いがプンプンする。
下手に野球で挫折を経験させるより最初から堅実な道を歩ませたい。
江藤なりの愛情のつもりである。
未練は江藤が苦手であった。
圧の強い目、圧の強い鼻、圧の強い口。
特に目玉はギョロッとしてエネルギッシュ、顔を逸らしても強引に目を合わせてくる。
デカイ声、日焼けした肌、白い歯、リーゼントヘアー。
爽やかに笑い、馴れ馴れしく話し掛けてくる。
プロ野球挑戦にも、あれやこれやと厳しい指摘をして未練の気持ちを萎えさせる。
江藤を信じるならばこちらのプロ野球も甘くはないようだ。
が、江藤の推す堅実な道も未練には辛く重苦しく感じられた。
果たして江藤を信じていいものか。
未練はプロ野球入りを強く推す異沼の顔を思い浮かべた。
細く鋭い目、目の下のクマ、黄色い歯、後退し始めている短髪。
――あっちもなあ……
二人のおじさんの間で未練は揺れた。
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