〈8〉
「ここは中々の優良物件でして」
一年前に遡る。僕は就職をきっかけに、一人暮らしをすることになった。
これといってこだわりはなかったし、住めればとこでも良かった。
不動産屋の中年の男が媚びるように部屋の説明をしている。
「優良」と聞いても、どこが優れているのか分からなかった。
というのも、最寄りの駅には車で四十分。近くにコンビニはあるが、どこが活気がなく寂れているし、ここからそう遠くないスーパーもなんだか胡散臭い。
なら何故ここへ下見に来ているのかといえば、予算の問題と、会社からそこそこ近いという理由からだった。本当は下見すらもめんどくさい。
「こちらがバスルームですねー」
「へえ…………!!」
なんの変哲もない風呂場。そこに佇んでいたのはどこにでもありそうなシャワーヘッド。けれども僕はなぜか目が離せなくなった。
「あの、これは……?」
「ああ、こちらはトイレと繋がってるタイプですねー」
そういう意味ではない。「これは本当にシャワーヘッドなのですか?」と聞きたかったのである。
自分でもこれはシャワーヘッドだと頭では分かっているのだが、どこかそうであってほしくなかった。
いつの間にか僕は、彼女が同じ人間であってほしいと願っていたのだ。
不動産会社のマシンガントークは止まらない。さっきまで「へえ」と「特にないです」を使い分けて会話していた僕が、突然興味を示した上に、質問してきたのだから無理もない。
「ウォッシュクローゼットの起源はご存知ですか? あれは西洋の発明家、ベンジョベン・ソンが」
「確かに優良物件ですね! ここにします!」
不動産の話はついに本当かも分からない雑学にまで発展していた。
これ以上余計なことを聞いたところで何も変わらない。僕はここに住む。
今考えてみればこれは一目惚れだったのだと思う。こんな気持ちは中学二年以来で、初恋は2次元に住んでいるマイナーな乙女ゲームの女の子だった。
しかし遠距離恋愛というものは難しい。
住む場所が果てしなく遠いから会えないし、会話だって噛み合わない。
応用力にかける彼女が話すことといえば、マニュアル化された言葉のみで、クリア特典も期待できるものじゃなかった。一方通行の会話がいつも虚しい。
そしてどんなに頑張っても決して目が合うことのない彼女に、感情は次第に薄れていった。
それからはそういった誰かを好きになるという感情を持つこともなく、ぱっとしない日々を過ごしていた。
そもそもそんなものは僕に必要ないのだ。恋愛をしていないからといって死ぬわけでもない。
恋愛が人生のプラスになるとしても、それは必要性に欠ける機能をアプリに更新させるみたいなものだ。僕には平凡な毎日だけでいい。それが数年前の持論だった。
しかし今は違う。先ほど目にした彼女は、同じ次元に存在している。
しかも僕が住むことになるこの部屋に備えつけられているもので、もはや同棲状態。遠距離と違って、いつも傍にいるし、手に取れる。
そして最大のメリットは、彼女が自分だけのものだということだ。過去の恋愛よりもスキルアップしたように思える。
僕の生活は一転した。これといって仕事が上手くいくようになったわけではないのだが、気持ち的に何かが変わったような気がしていた。彼女のためなら、どんなことも頑張れると思った。
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