第16話:村正、一瞬だけドキドキする

 日中空を覆っていた鉛色の雲もすっかりと晴れて、綺麗な満月がぽっかりと浮かんでいる。

 それを肴とばかりに、村正は縁側にて酒をちびちびと飲んでいた。ふと視線をずらせば、警戒心を剥き出した兵の姿がちらほらと映り込んでいく。

 これが単なる賊であったならば、彼らもここまで警戒することもなかっただろう。あの場にいなかった兵らも、先行した彼らから口伝えには耳にしている。

 相対していない兵が頼れるのは、喧伝と自身の想像力のみ。

 酒吞童子という未知との遭遇を恐れているから、余裕がないことが彼らの表情かおからは痛々しいほど伝わってきた。


(まぁ、しゃーないわな)


 空になったお猪口に酒を注ぐ。

 不意に、右横から気配がした。付け加えて、梅の甘い香りに鼻腔を優しくくすぐられる。


「隣、よろしいか?」

「…………」

「村正殿?」

「あ、いや、その……なんでもない」

「では、失礼して……」

「…………」


 一瞬だけ、思考が停止した。

 隣に腰を下ろしたのは真加部杏二郎である。女へと姿を変えてしまった彼女に、村正は不意にも美しいと見惚れてしまっていた。

 あの際どい甲冑も、大千鳥村正も、手元にない。色鮮やかな紅色の着物に身を包む姿から仕草、そして香り……心身共に女性として振る舞う杏二郎にときめいてしまった己を、村正は強く否定する。


(何をドキドキしてるんだ俺は! 元男だぞ男! そっちの気はいくらなんでもないからな!)

「あの、村正殿」

「お、おう! なな、なんだ?」

「その、憶えておられますか?」

「……何を?」

「あの時……酒吞童子を討伐する日、某に想い人がいるのかどうかと尋ねてきたことでござる」

「あ~……いやもういいぞあの話は。俺は一切気にしていないし」

「いや! 村正殿には是非とも聞いてもらいたいでござる! ……これも違うでござるな。村正殿だからこそ、我が想いを聞いてほしい」

「な、なんだよ……」


 嫌な予感を憶えずにはいられないほどに、杏二郎の瞳はきらきらと輝いている。頬もほんのりと赤い。


「……某は生まれた時から奇妙な感覚に捕らわれていた。身体は男であるという自覚があるのに、心はその……女としての自分がいた。だから槍の稽古も、戦場に出ることも、幼少期の頃は本当に嫌で嫌で仕方がなかった」

「お、おう……」

「されど男として生まれてきてしまった以上、某は武士としてあらねばならなかった。精神と肉体が完全に不釣り合いの中、今後どのようにして生きていけばよいのか悩んでいたその時、ある男と出会ったでござる」

「よしっ! わかった、わかったからもう言わなくていいぞ。うん、辛い過去があったんだな大変だったんだな、じゃあもうこの話は終わりってことで――」

「ま、待って下され村正殿!」

「ぐえっ!」


 その場から逃げようとしたところ、首根っこを掴まれる。

 振り払おうとした村正であったが、そこは杏二郎の膂力りょりょくが勝った。

 がっしりと襟を掴んでいる手は、絶対に離さないという強い意志がひしひしと伝わってくる。

 どう足掻いても離してくれそうな気配は皆無である。

 村正は溜息を一つした後、ゆっくりと手を挙げた。降参の意である。


「わかったわかった、聞けばいいんだろ聞けば……!」

「……某がはじめてこの心にときめきを憶えたのは、村正殿。貴殿にござった」

「その話の流れからして俺なんだろうなって気はしてたよちくしょうめ」

「はじめて貴殿を見た時、それまで今までにないものを某は感じた。あぁ、これが恋というものなのだろうと、すぐに理解できた――けれども某と貴殿は共に男、結ばれることは決してない」

「うんそうだな……」

「だが! 女となった今、その障害も取り払われた! 改めて村正殿、某は貴殿を心よりお慕いしておりまする! どうか某のこの熱く燃え滾る想い……受け止めていただけぬか⁉」

「いやそんなこと言われてもだな……」


 ずずいと身を寄せてくる杏二郎に村正はたじろぐ。

 杏二郎は見た目だけならばとても美しい女だ。想いを告げられることに関しては、村正も悪い気はしていない。

 だが、脳裏から男としての真加部杏二郎が消えぬ限りは受け入れられなかった。言葉選ばずにして言えば、吐き気が込みあがってくる。

 どれだけ可愛い声をしていようと、女性らしい仕草を見せられようと、そのすべてが男としての姿に自動的に脳内で変換されてしまう。


(……やっぱり無理だわ)


 かつての付き合いは、もう望めそうにない。

 杏二郎の諦めの悪さを村正はよく知っている。


「村正殿……」

「やめろ、そんな目で俺を見てくるな……うっ」

「……今すぐ返事をしてほしい、とは某も申さぬ。だが、貴殿の口から了承が出てくるまで某は諦める気は毛頭ござらん。故にお覚悟を」

「いや御免被りたいんだが⁉」

「――貴様何者だ⁉」


 不意に、外で動きがあった。

 門の守衛を任されている兵の声から緊迫した空気が一瞬にして屋敷内に流れる。


「おのれ酒吞童子! やはり現れたか!」

「とりあえず様子を見に行くか」

「某もすぐに向かうでござる!」


 村正は一足先に童子切村正を手に玄関へと向かう。

 そっと開けた門の隙間より外を窺えば、兵と一人の女エルフのやり取りが視界に飛び込んでくる。


「夜分遅くにすいません。ですがどうか、どうか一晩だけどうか置いていただけないでしょうか……?」

「駄目だ。今はさる理由により厳重体制が敷かれている。気の毒だがお引き取り願おう」

「そんな後生じゃ……」

「どうかしたのか?」

「あ、ムラマサ殿!」

「……ふむ」

「な、なんでございましょうか……?」


 怯える女エルフに村正は沈思する。

 まず、その怯えに嘘偽りはない。これは確実である。見定めるは何に対して女エルフは怯えているのか。

 突然やってきた自分に対するものか。

 あるいは別のことに対してか。

 既に取るべき行動は村正の中では決まっていた。

 怯えている女エルフに村正は腰の太刀を――即ち、童子切村正を抜き放ったのだ。そしてそのまま彼女へと斬り掛かったのである。


「……避けたな」

「ななな、いきなりこんなか弱いおばあさんに刀振るうとか……アンタってアチより鬼ッスね!」

「安心しろ。この欠陥品じゃ人間はおろか草木だって斬れやしないからな」


 童子切村正は鬼以外には鈍刀ナマクラと化す。

 村正はこの特質を利用した。もしも女エルフが鬼であったのならばそれまでのこと。鬼以外であれば、少々痛い目はするかもだが死ぬことはない。

 結果は黒――正体を現した酒吞童子に、村正は静かに切先を向けた。


(羅生門の鬼……読んでおいてよかったな)


 京にある羅生門にて頼光四天王が一人、渡辺綱わたなべのつなが鬼の腕を斬ったが七日の晩に取り返されてしまった話は、あまりにも有名である。

 いつか鬼をも斬れる刀を作りたい。切っ掛けはそんなことだったと、村正は朧気に残る記憶に懐古した。

 それはさておき。


「やはり現れたか!」

「おのれ酒吞童子! 今日こそその息の根を止めてくれる! 某の槍、今一度受けてみよ!」


 兵の警笛に次々と門にトウカや兵が集まってくる。

 完全に包囲された酒吞童子はぐるりと彼らを見回した後――ぼろぼろと泣きながら土下座をした。


「堪忍してほしいッス~! 今日はそういうのやりにきたんじゃないッスよ~!」


 額を地面にこすり付けるようにして、ぎゃんぎゃんと泣き喚く酒吞童子に、近場にいる誰しもが動揺の感情いろを隠しきれていない。

 当然である。あの最強と謳われる鬼がぴぃぴぃと泣きながら土下座をしているのだから。その姿に村正の心中では、だんだんと申し訳なさが込み上がってくる。

 これではまるで私刑ではないか。兵の誰かが、そうぽつりと口にした。少なからずこの状況に、村正と同じことを思う者がいたのである。

 やがてどよめきが起き、どうすればよいか兵らも困惑しているところを、トウカが代表として酒吞童子に対話を持ち掛けた。


「腕を取り返しに来たのだろう?」

「も、もちろんそうッスよ~! 片腕がなかったらめっちゃ生活が不便になるじゃないッスかぁ……!」

「言っていることは正しいが、それで素直に返してもらえると思っていたのか⁉」

「だ、だからそれなりに誠意は見せるッス! まずさらってきた鍛冶師の家族はちゃんと返したッス……」

「何?」

「先に言うッスけど手荒なことはしてないッスからね! 怪我はもちろん、それ相応の待遇はしたつもりッスーーまぁ、ちょこっとアチの家の掃除とか炊事とかやってもらったッスけども」

「……誰か、今すぐ鍛冶師へ行って確認してきてほしい」


 トウカの命令に、数名の兵が鍛冶師へと向かう。

 尋問はまだ続けられる。


「何故貴様はあの鍛冶師の家族を狙ったのだ」

「それは、その……じ、実は――」


 ぽしょぽしょと、それはもう蚊の鳴くような小さな声で酒吞童子は語り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る