98.一方その頃、水は最後の時を迎えた
連れてこられた捕虜たちの前には、淡い光に包まれた広々とした空間が広がっていた。
石造りの、水を貯めるためとおぼしき空間。その中央に、翼を持つ獅子をかたどった彫像が飾られている。彫像の足元にはほんの僅か、水が溜まっていた。
獅子の口元からはぽたり、ぽたりと僅かな水の雫がかなりの時間を置いて落ちていたが……やがて、ひとつの雫を落としたあとにそれは終わった。
「これで、『神なる水』はおしまいね」
捕虜たちを連れてきた者、アシュディ・ランダートは小さくため息をついてそう、言い放った。
「長きに渡り、この都であった地をお守りいただきありがとうございました」
同じくマイガス・シーヤは両手を組み、祈りを捧げた。それから、声を上げる。
「ジェイク・ガンドル殿、ヨーシャ・ガンドル殿。両名、ご苦労であったと国王陛下よりお言葉がございます。これにて、結界維持のお役御免となります」
「やっとかあ……」
「く、くそっ」
その声に応じて、一つはホッとした、もう一つは苦み走った返答がある。ほぼ同時にどさり、どさりと倒れ込む音。
そして時を同じくして、淡い光がふっと消え失せた。
「はあい、あのお二人運び出しちゃってね。魔力切れと体力消耗でまともに動けないでしょうし」
『はっ!』
アシュディのお気楽そうな声による指示に従い、多くの兵士たちがマイガスに名を呼ばれた二人を担ぎ上げ、運び出していく。捕虜たちの目に触れた彼らは髪の色が薄くなり、顔や手にシワが寄り、知らない者には老人と見えなくもない存在であった。
「……さて」
兵士とジェイク、ヨーシャが外に出てしまってからアシュディとマイガスは、自分たちが連れてきた捕虜たちに視線を向けた。彼らは全員が先だっての旧王都防衛戦時に生き延び、ゴルドーリア軍に囚われたベンドル王帝国の兵士たちである。
「ちゃんとご覧になりました? 『ベンドル王帝国からの使者』の皆様」
「これが、あなた方が望んだ『神なる水』だ。そして、今終わった。まあ、もう二度と溢れんばかりの水量には戻らないな」
二人の説明に、捕虜たちは顔をひきつらせる。
翼を持つ獅子が『神なる水』を守りし神獣システムであることを、彼らは薄々感じ取っていた。戦場において実際にその姿を見た者も、この中には複数存在している。
その獅子をかたどった彫像がもたらしていた水が『神なる水』、ベンドル王帝国の民が長年に渡り望んでいたそれであることを彼らには否定しようがなかった。
だが。
「ばかな! 『神なる水』が、尽きるわけがない!」
「さすがは『偽王国』だな! 俺たちを騙せるとでも思っているのか!」
「本物の『神なる水』はどこだ! このような偽物、見せられたとて心も動かぬわ!」
かつて神がもたらした水が、こうもあっさりと失われることに彼らは納得していない。故に、ゴルドーリア『偽王国』の民が自分たちを騙し通すために何がしかの陰謀を行った、とでも考えたのだろう。
「お黙り」
しかし、彼らの声はアシュディの一言によってぴたりと切断された。丁寧な装飾が施された長い爪の先を一人の額に軽く当て、王都の魔術師の頂点に立つ彼は赤い色には似合わぬ冷たい視線を捕虜たちに投げかける。
「見たものが事実よ。この都にはもう、水はない。だから、民はそれぞれ縁のある街に、行きたい街に、次々と移動している」
「ここに残っているのは、俺たちだけだ。最後の任務を終えたら、俺たちは新しい王都に移ることになっている。水がなきゃ、生き物は生きていけないからな」
呆れたようにため息をつきながら、マイガスが言葉を紡ぐ。そのために彼らは、刻一刻と限界が近づくかつての王都に残っていたのだ。
無論、近くの街などから水や食料は運び込まれてくる。だが、それにも限度がある。
近衛騎士や魔術師たちだけでなく、ベンドル軍の捕虜を抱えた今、運搬の頻度は跳ね上がっていた。『神なる水』が失われた今、これはもう終わらせなければならない。
「ああ、あなたたちはきちんとお国にお返しして差し上げるわね。まあアタシって親切」
「お前だけじゃないだろ、アシュディ」
「そうなんだけどねえ、マイちゃん」
「だから、マイちゃん言うな。キャスバートは君付けなのに、何で俺はちゃんなんだ」
「気分よ、気分」
しかし、目の前で軽口を叩く彼らの言葉にベンドル兵たちは、一様に顔をしかめた。自分たちが『偽王国』と呼ぶ集団を構成する一員である彼らが、本気で自分たちを解放するとは思えないのかもしれない。
「ま、それはそれとして」
ただ、能天気に近衛騎士と言葉をかわしていたこの魔術師が自分たちに視線を向けた途端、その温度が氷のように冷えたことは理解できるだろう。ガタガタ、と彼らの身体が震えだしたのだから。
「アタシたちがこの都を捨てた理由、分かったでしょ? あなたたちの欲しがる『神なる水』はもう、ないの。あなたたちをここに置いておいたら、干からびて死んじゃうのよね」
その冷たい視線と同じ、それ以上に冷え切った彼の声が、ベンドル兵たちに事実を伝える。押し付ける。
「もちろん、ベンドルの王帝陛下が信じてくださるなんて思ってないけどね? でも、正確な情報はちゃんと伝えておかないといけないわ。一国の長が何も聞いていなかった、じゃ済まされないでしょ?」
捕虜がこの場に連れてこられた理由は、ベンドル本国へこの事実を伝えるため。そして、水すら枯渇したこの地に彼らを置いておくことができなくなったため。
勝者のわがままとしてであろう、そういった理由を伝えきってアシュディは、ゆったりと目を細めた。
「ああ、もしかしてベンドルのお国は一度つかまって帰ってきた者を許さない、なんてしょうもないお国柄? それだったら、ご愁傷さまねえ」
「国境までは運んでやるから、そこからは自力でがんばれよ」
あーあ、と髪をガリガリと書きつつ重要な部分を補足して、マイガスは残った部下たちに捕虜の移送を命じた。
ここ旧王都からベンドルの国境までは四日以上。すぐに戻ってこられないよう、ドヴェン辺境伯領から放り出す予定である。
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