第03話(中)
「こっちだ。付いてこい」
どこか上品な残り香――アキラの小さな背中の後ろを、姫奈は歩いた。
アキラが歩く度、ショートボブヘアーの内巻きの毛先が揺れていた。
「ちょっと待て。一本だけ吸わせてくれ」
そう言い、アキラは客船ターミナルの広場へと向かった。
まだ陽の出ている夕方時。広場にはオブジェの長い影が伸びているだけで、あの時と同様、人影は無くガランとしていた。
そう、あの時――ここでひとり踞っていたんだと姫奈は思い出した。
「ここにはよく来るんですか?」
「ああ。帰りにここで一服するのが日課だ」
広場の隅まで行き、アキラは煙草に火をつけた。
海に面して煙を吹かしているアキラを、姫奈は隣でぼんやり眺めていた。アキラはおそらく毎日ここに立ち寄るが、あの時自分がここに居たのは――出会ったのは偶然なのだと思った。
「タバコって美味しいんですか?」
「まだ手を出して日が浅いのもあるが、正直わからん。プラシーボ効果みたいなもんかもな。ただの気分で吸ってる。――言っておくが、せがまれても未成年にはやらないからな」
「別に、欲しいわけじゃないですけど……なんとなく、気になって」
姫奈にとって喫煙は体を害するイメージが大きかった。そうまでして気分という理由で吸うのは、きっと自分がまだ子供だから理解し難いんだと思った。
「よし。今度こそ行くぞ」
アキラは携帯用灰皿で煙草の火を消した。
客船ターミナルから電車の駅側ではなく、埠頭側に向かって歩き出した。
このあたりに人の住めるような所があるのか姫奈は疑問だったが、すぐに解決した。
「ここだ」
客船ターミナルの広場から、ほんの数分。海沿いに、タワーマンションがぽつんと立っていた。
――もしかしたら、芸能人の隠れ家だったりして。
親友の空閑八雲が冗談のように言っていた台詞を、姫奈は思い出す。人気が無く立地も悪い場所に、明らかに不似合いな建物だった。
姫奈は今までタワーマンション自体に無縁だったので、単純に緊張した。姫奈にとって、ここに入るのは美容室に入るのと同じぐらいの難易度だった。しかし、手慣れた様子でエントランスの装置にカードキーをかざしているアキラのお陰で、少し和らいだ。
「アキラさん、こんな所に住んでるんですか?」
「そうだよ。悪いか?」
「悪いわけじゃないですけど……おひとりですか?」
「当たり前だろ」
どこか適当にカフェを経営し、タワーマンションにひとりで暮らしている――ただ者ではないと思っていたが、姫奈はアキラのことがますます分からなくなった。
広いエントランスはまるでホテルのロビーのように内装が豪華で、受付でコンシェルジュらしき女性が頭を下げた。姫奈は思わず会釈したが、アキラは一瞥することなく通り過ぎた。
エレベーターのボタンは扉を開閉するものしか無かった。アキラがカードキーをかざすと、エレベーターは動き出した。
約一分後――姫奈はとても長く感じたが――エレベーターはようやく停止した。
扉が開くと、従来のマンションの外廊下と違い内廊下だったので、やはりホテルのようだと姫奈は思った。
しかし、一般的なホテルと違い扉の数は圧倒的に少なかった。おそらく正方形のフロアだが、一辺に扉は二つしか無かった。
廊下の角を曲がり、扉にアキラはカードキーをかざした。結局、ここまでにカードキーを計三回使用した。セキュリティの厳重さもさる事ながら、住人と誰ひとりすれ違う事もなかった。アキラの他に住人がいるのか、姫奈は少し疑問だった。
「ほら、入れ。散らかってるけどな」
マンションとは思えないほど広い玄関を通されると――その先は姫奈の想像と少し違った。
確かにリビングダイニングキッチンはただならぬ広さだが、物がほとんど無かった。
テレビの乗っていないテレビ台、充電ケーブルが刺さった携帯電話と灰皿だけが置かれているだけのテーブル、そしてベッド。姫奈の目についたのは主にこの三つだった。決してワンルームではなく寝室は別にあるはずだから、リビングに置かれたベッドは異様な光景だった。
そう。インテリアなど無視した、最低限の生活機能だけを備えただけの空間。タワーマンションの豪華さとは裏腹に、ひどく殺風景だった。広く――アキラの匂いに混じり煙草の匂いもするからこそ、姫奈はなおそう感じた。
アキラはキッチンの棚からビニールのゴミ袋を二枚持ってくると、一枚を床に敷いた。もう一枚をハサミで円状に切り抜き、姫奈に手渡した。
「これ被れ」
即席の毛除けケープだと姫奈は理解し、言われた通り頭から被った。
アキラは別室から椅子と姿見鏡を持ってくると、床に敷いたビニール袋の上に椅子を置き、正面に姿見鏡を立てた。
姫奈が椅子に座ると、アキラは背後に立ち、ケープの首元を調整しピンで留めた。そして、姫奈の髪を掬い、ハサミの刃を入れていった。
「片目だとさ、微妙に距離感が掴みにくいんだよな」
「アキラさん……何言ってるんですか……」
「冗談だよ。八割ぐらいは」
残り二割は本当なのかと思いながら、姫奈は鏡越しに背後のアキラを見た。何の躊躇なくハサミを動かしている様は手慣れているようで、特に不安は感じなかった。
むしろ隻眼の影響を全く受けてないように見えたが、姫奈はアキラの言葉で医療用眼帯が改めて気になった。
「その目、いつ頃治るんですか?」
「これか? 治るというか――もう眼が無い」
アキラは一度手を止め、眼帯を外してみせた。しかし、言葉とは裏腹に眼球がしっかり瞼に入っていた。
「無いって……あるじゃないですか」
「
アキラは姿見鏡に向かって眼球を指で軽く弾くと、コツコツと小さな音がした。
確かに、本物の眼球ではない。全く違和感の無いぐらい精巧に作られた義眼だった。
「最近のはよく出来てるんだけどな……。でも、私は他人に見せたくないからこうやって隠してる」
「すいません……」
「悪く思わなくていいぞ。一年ぐらい前に交通事故に遭ってな――もう片目に慣れたから心配するな」
アキラは眼帯を付けると、再びハサミを動かした。淡々と語る事情説明は、まるで他人事のようだった。
「……」
知らなかったとはいえ、アキラに失礼な事を訊ねてしまったと姫奈は後悔した。なんだか居心地が悪くなったが、拘束されているのでどこにも逃げ出せない。
「前髪切るから眼鏡外すぞ」
アキラはそう言い、姫奈の背後から眼鏡を取り上げた。
「そんな気がしていたが――やっぱり伊達か」
眼鏡のレンズを内側から覗きながら、度が全く入っていないことを確かめた。
「ブルーライトカットの眼鏡です……」
「つまり伊達だな?」
「……伊達ですね」
姫奈はようやく観念して認めた。
視力は決して悪くなく、裸眼でも日常生活に全く支障はない。ブルーライトカット眼鏡なのは本当だが、パソコンに向かうこ事はほとんど無ければ、携帯電話を触る時間も同年代と比べて圧倒的に少ない。
そう。姫奈は機能を欲して眼鏡を掛けているのではなく――
「童顔なのが嫌なんですよ。誤魔化すためです」
「まだ子供なんだから別にいいじゃないか。可愛い顔してると思うけどな」
アキラは背後から姫奈の前髪を掻き上げ、鏡に顔を映して見せた。
可愛いと言われる事は滅多に無いので、姫奈は照れて恥ずかしがっている自分の表情を見せられた。
「ありがとうございます……。確かに、歳相応だと自分でも思いますよ。でも、無駄に背が高いからお姉さんっぽい顔つきになりたいです」
百七十五センチの高身長に対し童顔なのが不釣り合いであるため、それを誤魔化す目的で姫奈は伊達眼鏡を掛けていた。
子供のような小柄な身体なのに大人びた顔つきのアキラとは、まるで正反対だった。
しかし、アキラは自分と同じような悩みを持っている様子も無く、堂々としている。それが、姫奈がアキラに惹かれた大きな理由だった。
「顔に身長に名前に――全部わたしのコンプレックスですよ」
「多い奴だな」
アキラは呆れながら姫奈の前髪を切った。
姫奈は、自身の抱えている悩みが多いとは自覚していた。高校受験に失敗したことにより大きく自信を失い、それらがさらに膨らんだような気がした。
身長こそ高いが、姫奈は自分自身をちっぽけな人間だと評価していた。そんな人間が外の世界を歩くには――姫奈にとって眼鏡は、自身の弱いところを隠す仮面のようなものだった。
「まあ、お前の言いたい事はなんとなく分かる。でもな……とても言い難いんだが、この眼鏡だと余計に幼く見えるぞ」
アキラはハサミを止め、姫奈の眼鏡を取り出した。
「え……どういうことですか?」
「たぶん、童顔を誤魔化す意味でデカいやつにしたんだろうが――こんなに真ん丸な眼鏡だと、物柔らかというかバカっぽいイメージになって逆効果だ。ほら」
アキラは姫奈の眼鏡を掛けて見せた。
片目に医療用眼帯を付けていても、無愛想で気だるいアキラの雰囲気が少し和らいだような、年齢が少し若くなったような、そう姫奈には見えた。確かに、アキラの言う通りだった。
「そういう事はもっと早く言ってくださいよ!」
「知るかよ。てっきり、芸人でも目指してるんだと思ってた」
「そんなわけないじゃないですか!」
姫奈はケープから両手を伸ばし、顔を覆って俯いた。
ただでさえボサボサの頭で入学したのに、この眼鏡で今日まで高校生活を送っていたとなると、恥ずかしくて死んでしまいたい気持ちになった。
「うう……もう学校に行けません」
どちらかというと内気な方だから未だに友達がひとりも出来ないと思っていたが、これが主な理由だったんだと納得した。
「そう落ち込むな……。痛みきった毛先を切って全体的にすいてみたぞ。どうだ、軽くなっただろ?」
姫奈は両手を開けると、床に敷いたビニール袋に散らばった髪が目に映り、その量に驚いた。
顔を上げて、姿見鏡を見る。ロングヘアーこそ変わらないものの、ボサボサではなくなり、すっきりとしたシルエットになっていた。アキラの言う通り、確かに肩が軽くなったような気がした。
姫奈はさっきまでと別人のように変わったように思ったので、既に充分すぎる出来だった。
「もうこれでよくないですか?」
「アホか。ばっさりショートにするか、ロングのままなら癖っ毛だからストパーあててこい」
「中学は校則でショートだったんで……せっかくなんでロングがいいです」
ストパーって何だろうと首を傾げながらも、姫奈は希望を口にした。
「そうか――私には理解し難いが、前髪をシースルーとういか空かした感じにするのが流行りらしいぞ」
「あー。言われてみれば、最近よく見るような気がします」
通学のモノレールや学校のクラスメイトが頭に浮かんだ。
流行に乗るのもいいが、それだと無個性になるような――いやいや、こういう考えだからこそ失敗するのでは? などと姫奈は悩み、すぐには決まらなかった。
「美容室に行けばヘアカタログあるだろうが、あらかじめケータイで希望の写真を用意しておいてもいいぞ。それと、シャンプー諸々はどれを使えばいいのかも訊いておけ。相性あるからな」
アキラは姫奈の背後から離れたため、声が遠くから聞こえていた。
「ていうか、これで美容室行けるよな?」
「はい! お陰様で、なんとか勇気が持てそうです!」
「そうか。それはよかった」
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