第03話(後)
声が近づき、背後に立つアキラの姿が再び鏡に映った。
どうやら別室に行っていたようだ。その手には、何やらポーチを持っていた。
「お前、化粧したことは――当然無いよな?」
アキラはテーブルの上にポーチを広げた。中には姫奈の知らない道具がぎっしり詰まっていた。
「逆に、高校生ってお化粧するものですか?」
「たぶん、お前ぐらいの歳だと皆やってると思うぞ。スッピンで外に出るなんて、どんだけ顔に自信あるんだよって感じだな」
「……」
姫奈は、何歳頃から化粧を始めるのか分からなかったが、まさかそれを過ぎていたとは思わなかった。
驚くよりも、自分の無知に呆れた。
「私のコスメで一回だけやってやるから、見ておけ」
「は、はい!」
気を取り直し、強く頷いた。
アキラは姫奈の前髪を上げ、ヘアピンで留めた。
チューブのベースクリームを手の甲に出すと、姫奈の額や頬に乗せ、両手で伸ばした。
「まずは下地作りだ。季節に合わせてスキンケアもやっておけ」
さらにリキッドファンデーションも同様に塗った。これは手で広げた後、パフで軽く叩いた。
「くそっ、乗りが全然違う。若いっていいなぁ。……なんか腹立ってきたから、もう止めてもいいか?」
「ええっ! そんなこと言わないでくださいよ」
アキラはウェットティッシュで手を拭きながら愚痴を漏らした。
本当に切り上げるのかと姫奈は焦るが、ポーチをガサガサと漁っているアキラの姿が鏡に映り、安心した。
「アキラさんだってまだ全然若く見えますけど……。おいくつなんですか? 二十歳過ぎたあたりですか?」
「惜しいな、二十五だ。もう四捨五入でアラサーだな」
「そんな。まだまだ二十代じゃないですか」
わたしと十も離れているんだと姫奈は一瞬思ったが、とても口には出来なかった。
アキラは再びこの場を離れ、別室から何かを持ってきた。
「下地が出来たらまずはチークからだ。お前の肌は黄色寄りだから、落ち着いた感じにするには――暖色系というかオレンジが合ってると思う。私は滅多に使わない色だけどな」
そう言い、新品のパウダーチークの封を切った。
どうして持っているんだろうと姫奈は思ったが、訊ねるのは止めておいた。
「慣れない内は本当にちょっとだけでいいぞ」
ブラシにたっぷり付けたパウダーを一度手の甲に落とした後、姫奈の頬をなぞった。
「頬は顔の面積を広く占める。肌を綺麗に見せたり色を付けたりすると、意外と印象は変わる」
「なるほど」
アキラの説明に姫奈は納得こそするものの、鏡に映った自分の顔がどう変化したのかは今ひとつ分からなかった。携帯電話で前後の写真を撮っておくべきだったと、今になった後悔した。
「印象を一番変えるのは目だ。とりあえず目の周りを化粧すれば別人みたいになる」
「それじゃあ、ガッツリ目を化粧すれば私も別人に――」
別人という言葉に姫奈は食いついた。コンプレックスだらけの自分を少しでも変えてみたい身としては、願ってもないことだった。
「アホか。あからさまだと学校でたぶん怒られる。あまりメイク感を出さずに、違和感の無い色で誤魔化してメリハリや立体感を出す――これが課題だな」
「なんだか、めちゃめちゃ難しそうなんですが……」
「試行錯誤というか、慣れの問題だよ。――アイシャドウ塗るから目を瞑ってみろ」
言われた通り、両目を固く閉じた。
アキラは筆の太さを変えながら、パウダーアイシャドウのパレットを順に塗っていた。
しかし、姫奈にはその様子が見えないため、上瞼をなぞる筆の感触がただくすぐったかった。
姫奈には黙っていたが、アキラは続けてリキッドタイプのアイライナーを睫毛の生え際に引いた。
アイシャドウと同じく筆のような感触のため、姫奈には大きな違いが分からなかった。
「お前、睫毛が長いからマスカラはいらないな。立たせるだけでいいし、自然な仕上がりにもなる」
ビューラーをあてられ、その冷たい感触に驚いた。初めて味わうビューラーでの睫毛を引っ張られる感覚に、さらに驚いた。
「あー……。もし美容室でやって貰えるなら、眉毛も整えて貰っておけ。これも大分印象が変わる。最近は太眉が流行ってるみたいだから、それでいいと思う」
アキラは姫奈の眉を軽く撫でると、前髪を留めていたヘアピンを外した。
「眉とリップは触ってないが、ひとまず完成だ。目開けてみろ」
姫奈は恐る恐る目を開けると、鏡には本当に別人のような自分が映っていた。
本当にこれが自分の姿なのか、なんだか信じられなかった。
「たぶん、お前の言うお姉さんっぽい顔ってこんな感じだろ?」
「は、はい。ドンピシャです。……ここまで変わるんですね。信じられません」
童顔をどう変えればいいんだろうと悩み続けていたが――化粧をするだけで、身長相応の大人びた雰囲気になれた。
まるで、魔法にかけられたかのようだった。漠然とだが思い描いていた理想の姿を、こうしてあっさり手に入れたのだ。
姫奈は椅子から立ち上がり、ビニール袋のケープを脱いだ。
制服姿で姿見鏡に立つと、通勤のモノレールや学校で全く違和感が無く溶け込めると思った。
年齢や入学だけではなく、本当の意味でようやく歳相応の『女子高生』になれたような気がした。
「化粧は別人になるための手段じゃない。あくまでも、素材を良く見せるための手段だ。お前はこれに『なれる』んだから、もっと自信を持て」
アキラは手を伸ばし、姫奈の背後からポンと肩に手を置いた。
鏡越しに見えたアキラの隻眼は、いつもの気だるさは無く、心なしか力強かった。
「髪を整えて化粧もちゃんとすれば、もっと良くなる」
「ありがとうございます、アキラさん! 明日にでも美容室に行ってきます!」
あれだけ抵抗のあった美容室だが、今はむしろ行きたいとさえ思えた。今の自分なら笑われないという確信があった。
「化粧のやり方はネットで調べるなりしておけ。厳密には要所要所で変える必要はあるが――頬はオレンジ系、目はブラウン系、リップはブラウンピンク――大雑把に言うと、これが今のお前に合う大体の色だと思う。まだ全然若いんだから、自然な感じを意識しろ」
「わかりました」
アキラから言われた色をイメージした。どれも人体からかけ離れた色だが、唇を除いて現にこうしてマッチしているのだから不思議だった。
「明日は美容室と――眼鏡屋さんにも行こうと思うんで、明後日からバイトに来ますね」
「なんだ。まだ眼鏡は外さないのか?」
「はい。なんというか……あともう少しだと思います。コンプレックスが綺麗さっぱり無くなったら外そうかな、と」
いくら外観で自信が持てても、現在の姫奈は内面がまだそれに追いついていなかった。
容姿だけではなく、何か根拠や経験が必要だった。
「今日は本当にありがとうございました」
切った髪が散乱した床のビニール袋を片付け、改めてお礼を述べた。
「なあ、姫奈。お前は気づいてないだろうが、凄く良い表情してるぞ」
帰り際、玄関でアキラがふと漏らした。
「ちゃんと笑えるようでよかったよ。笑顔で接客できないならクビだったな」
「ええっ!? が、頑張ります」
姫奈は驚くが、アキラの言う事は確かに接客業として最低限の条件だった。
笑えている自覚は無いが、普段から笑顔で明るく見せる練習をしようと思った。
すっかり陽の暮れた帰路では、まるで学校の試験で高得点を取れたような高揚感があった。
自宅までは一駅だが、その間に携帯電話で近場の美容室を調べ、予約をした。
今までインターネットもろくに触ったことがなかったが、ヘアカタログや化粧のやり方、そして服装も、調べる事は山のようにあると思った。
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