第5話 バスルーム


「私の名前は、フローミラ・リタットロ。幅広く美術品を取り扱う美術商です」


 少女――フローミラ・リタットロは、男の目を真っ直ぐに見据えている。その場に釘付けにするような強さを持った視線に男はたじろぎ、慌てて彼女から目をそらした。自己肯定感の高い人間のありさまは、少なからず卑屈に生きる男にとって直視しがたいものだった。

 それでも、何か言わなければと思った男は足元に目をやりながら、その場をやり過ごすための言葉を探した。


「リタットロさん、は……えっと、その歳で美術商なんですね」

「はい。まあ、若いからと甘く見られることもありますけれどね」


 そう言うとフローミラは再び前を向いた。貫くような視線を免れた男は胸を撫で下ろし、目的の部屋まで歩いていく彼女の後ろをそろそろとついていった。隣の部屋ということもあり、彼らはすぐに部屋に辿り着いた。


 フローミラがドアを開けて入り、促された男も続けて部屋に入った。

 先程までいた部屋に比べるとやや狭い部屋だ。入って右手にバスルームのドアがあり、左手にはコート掛けとデスクがある。寝室というのは確からしく、奥には大きなベッドが綺麗に整えてあるのが見えた。


 「ここがバスルームです」


 とフローミラは右手のドアを開けて男に中をのぞかせた。トイレ、洗面台、バスタブの無いシャワーブースのある一般的なバスルームだ。変わったところがあるとすれば、男が今までに見たことのあるどのビジネスホテルよりも設備に高級感があるところだろう。屋敷そのものも庶民には想像できないほど豪華だが、設備一つ見ても一般向けのそれとは桁違いに格調高い。


「使い方はわかりますか」

「…………あっ、はい。大丈夫、だと思います」


 身体的にも余裕が出てきた今になって、男はだんだんと状況をみ込み始めていた。男にとっては、事務所のデスクと物が無いワンルームをすし詰め電車で往復する日々が最近の生活のすべてだった。それがいきなり異世界に転送され、訳も分からぬまま行き倒れ、画面越しでしか見たことのないような豪邸で暮らすことになったのだ。男はやっと理解が追い付いてきて、自分が場違いなところにいると思った。現実逃避の思考とも取れた。

 フローミラは心ここに在らずという様子の男を見ながらも、一応話は聞いているようだと判断したらしい。バスルームに一見して分かる不備が無いことを確認して彼女は男に言った。


「タオルは備え付けのものがあります。バスローブもあるので、着替えを持ってくるまでそれでお願いします」

「わかりました」

「じゃあ、私はドア前で待っていますね。ごゆっくりどうぞ」

「えっ」


 思わず、といった様子で発せられた声にフローミラは答えた。


「数刻前まで声も出せない状態だったんですよ?」

「いや……ただちょっと抵抗があるというか」

「いきなり倒れてそのまま、なんてこともあり得るんですから。我慢してください」

「……そう、ですね」

「困ったことがあったら声を掛けてくださいね」


 フローミラはそう言ってドアを閉めた。バスルームには男だけが取り残された。人感センサーがあるのか、バスルームは自動的に照明がつき、ドアを閉めた今もなお明るいままだ。

 洗面台の鏡に映った男の姿が彼の目に入った。彼の記憶にあるよりも髪が長く、無精髭ぶしょうひげが生え、目の下には濃いくまができていた。白いはずのシャツは汚れて清潔感の欠片も無い。男はもともと己の容姿にネガティブな評価を下していたが、それをさらに下回る有様を見て少々ショックを受けた。そして、そんな見た目の男を家に招いた少女の善性に感服した。

 思っていたよりも体調は悪くない。この調子なら明日からでも働けると思った男は、バスルームを出たら自分にできる仕事をフローミラに尋ねることを決めた。



 滞りなく体を洗い終えた男は言われたとおりにバスローブを着用し、拭っても髪から滴り続ける水をタオルで拭っていた。そのままドアノブに手を掛けて出ようとしたところで、声をかけてから出るべきか、出てから何と言うべきかををしばらく考えた後、ゆっくりドアを開けながら「シャワー終わりました」と小さな声で言った。


 フローミラはデスクチェアに腰かけてタブレットを見ていた。男の声を聞いて目線を上げると、彼はほとんど顔だけを見せて彼女の様子をうかがっていた。おずおずとした男の態度は幼女と重なるところがあった。

 男の髪からはポタポタと水が滴っていた。フローミラは髪を乾かさなかったのだろうかと思いながら男に話しかけた。


「気分は悪くないですか」

「大丈夫です」

「それは良かった」


 男はそろそろとバスルームから出てきた。目に見える汚れが落ちただけでもかなり印象が良くなったとフローミラは思った。薄汚い放浪者ほうろうしゃからなので良くならざるを得ないわけである。


「ところで髪を乾かしていないようですが、もしかしてドライヤーが無かったですか?」

「ドライヤー? 無かった……と、思います」

「鏡の裏にあるんですけれど……」

「あ、そうなんですね。確認してませんでした」


 フローミラは「ちょっと失礼しますね」と言って男の後ろにあったバスルームのドアを開けた。そして、洗面台の前に行き鏡の端を撫でるように手を振ると、一面鏡のように見えたそれが観音開かんのんびらきになった。内部には棚のようなものがあり、彼女はドライヤーを取ると男を呼んだ。


「これです。どうぞ」


 男はフローミラから手渡されたドライヤーを見て困惑した。持ち手部分の先にドーナツのような円が付いており、コードやボタンは見当たらない。彼女はそれをドライヤーとして男に手渡した。しかし、それは彼にとっては見慣れない形をした何かでしかなく、ドライヤーだという前提がなければ用途さえわからなかっただろう代物だった。


 ドライヤーを知っているのに使い方がわからないと言うのはおかしいだろうか、と男は考えた。タブレットがあるのを見て文明レベルは地球と同じ程度だろうと彼は推測していた。しかし、手渡されたドライヤーとそれを取りだす一連の動作によって、この世界の技術が地球よりも発達している可能性が提示された。

 これからも彼の知らない技術について尋ねる機会がまたあるかもしれない。それならばここで無知を恥じても仕方がない。さらに、フローミラの立場で考えれば、当たり前に知っているはずのことを「知らないのか」と人に尋ねるのは気が引けるだろう。


 そうして男が色々なことを考えているうちに、やりとりとしては少々不自然な時間が流れた。

 フローミラは男がドライヤーの使い方を知らないのだろうという確信に近い推測をしていた。そして、男がそれを言うべきか迷っていることも察した。

 彼女は男のコミュニケーション能力の低さを何とかしたくなった。彼女の周囲の大人は当然のように話が上手く、彼のような不器用さを持ち合わせていなかった。そのため、彼女は往々にして教えられ、導かれる側の人間だったのだ。そんな少女が教え導く側にあこがれるのも不思議ではなかったのかもしれない。男にとって幸運なことに、フローミラは不器用な人間に甘いタイプだった。


「もしかして、オニイサンの知るドライヤーと違いますか」


 フローミラはできる限り男の尊厳をおとしめない言葉を選んだ。男ははっとして彼女を見て、その気遣いにたまれなくなった。彼女はドライヤーを差し出した手を不自然でないように自分の元に戻した。


「んー。その辺りの擦り合わせもしないといけませんね」

「……はい。その、すみません。色々」

「いえいえ。お互い様ですよ。お互いわからないことだらけです」


 彼女はそう言ってからドライヤーの使い方を説明した。特別難しいものではなく、持ち手部分を親指でトントンとたたくとスイッチが入り、ドーナツ状の円から風が吹いてくるという仕組みのようだった。

 男は言われたとおりにドライヤーを使って髪を乾かした。彼の知るドライヤーと比べて驚くほど静かで、風が強すぎるということもないのにすぐに髪は乾いた。


 男は使い終わったドライヤーを棚に戻した。そして、「これは……」と男が鏡を指して言うと、「勝手に閉まるのでそのままでいいですよ」とフローミラは答えた。




「今日は安静にしていてください。この部屋は好きなように使ってもらって大丈夫です」


 男をベッドに座らせてフローミラは言った。長らく敷布団で寝ていた彼はその柔らかさに感動した。触り心地もとろりとした不思議な感覚で、寝具に詳しくなくとも高級な品だとわかるほどのものだった。


「ありがとうございます」

「それじゃあ私は別の部屋に行きますけれど、困ったことがあったら遠慮なく呼んでくださいね。『すみません』と言えばお手伝いシステムが反応しますから。簡単なことならシステムが対応してくれます。あとは……そう、夕食だ。夕食が出来たらメッセージが流れます。音声の後にまた私が持ってきますね」

「わかりました」

「体調が悪くなってきたらすぐに連絡してくださいね」


 「それじゃ、失礼します」と言ってフローミラは部屋を出て行った。ドアが閉まると、がちゃり、とわかりやすくロックの音が鳴った。


 男は部屋に一人きりになった。

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彼らの日常、ときどき戦争 ~異世界出身オジサン家政夫&美術商ガールの不可思議な日々~ カネヨシ @kaneyoshi_book

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