第二章
第3話
村の近くにはお金持ちが居る。お金持ちは偉い人だ。だから住民は、特に村のために何かをしてもらっているわけでもないが、その猫のことを『王様』と呼ぶようになった。
×
「よう、セオドア。久しぶりじゃないか」
「ああ、よう、ヴァレリア」
王様の屋敷の更衣室から出て、ヴァレリアという女とセオドアという男はちょうど出会し手を振る。
赤いエプロンと赤いバンダナは、王様の屋敷に仕える者の決められた装いだ。
「今日の仕事は?」
ヴァレリアが尋ねる。
「一階と地下の掃除だ」
「おお、私と同じだ。本当に久しぶり」
並んで階段を降り、一階の掃除用具室に入り、箒やモップなどを取る…それらを運ぶ分担はセオドアの方が多めだ。
「私だってもっと持てるぞ」
「お前は女だろ、一応」
「一応って何さ…」
「どんなに勇ましく振る舞ったって、その細身じゃ俺には勝てないさ」
「勝てるだぁ? 何に対しての───」
…セオドアはヴァレリアに顔を近づけ、その唇に己の唇を重ねる。呆然と目を見開き硬直するヴァレリアは、そのままガタンとモップをその場に落とし床に叩きつけた。
ふ、と笑い、セオドアは唇を離す。
「…医学書通りだな。砂糖猫の身体は甘い」
「…てめえ、不意打ちだっての」
「はは、お前、顔が蕩けてるぞ。はちみつのようだ」
「キモいこと言うなって!」
「ほら」
セオドアが落ちたモップを拾い、ヴァレリアに手渡す。
「あまり妙なことをしていると、王様に見つかったら何を言われるかな…」
「てめえからやったくせに!」
ヴァレリアは引ったくり、駆け足で用具室を出て行った。
××
王様の屋敷で働く村猫は少なくない。むしろ屋敷の大きさに対しては多い方だ。
砂糖猫たちが働き、金銭を得るには、この近くでは数少ない「職」に就かなければならない。
パティシエ、食料品店などは至る所にある。
衣料品店や雑貨屋、書店…大きく稼ぐには村から離れた街に行かなければならない。
建築や教員、菓子の材料づくりなども同様に、村から離れなければ、生活できるほどの収入も得られなければ、その知識を得るための学校へも通えないし土地もない。
村の近くで簡単に金銭を得るには、王様の屋敷にお手伝いに行くしかなかった。
だがその王様もなかなかの性悪だ。
「最近草むしりばっかでさ…報酬もお菓子の材料ばかりだったんだ。まあこの社会、菓子との交換で服も物も買えるから助かってるけど…でも、食料だけはスイートワーカー以外、菓子との交換はできないじゃん? だからここのところ、夕食がワンパターンで」
「だったら言ってくれよ。俺、親が街の工場務めだから、粉物とか、街でしか売ってない物とか送られてくるんだよ…余らせて困っていたんだ」
「でもてめ…あんた、弟居るじゃないか。余るくらいがちょうどいいだろ」
「そう言うなよ。お前だって妹が居るだろ。女の子は食生活を気をつけないと、体を壊してしまう」
「…王様が金銭を報酬にくれれば済む話なんだよ、まったく」
地下への階段を拭き掃除するセオドア…ヴァレリアは金の手すりを磨きつつ、その中腰に疲れ、一旦背伸びをする。
砂糖猫の社会は簡単なようで難しい。ほとんどのやりとりが菓子で成り立つように思えるが、一番生活に必要なことは、金銭という甘くないものを使用しなければ購入できない。
王様は甘くなかった。
ヴァレリアはため息をつく。
「…スイートワーカーってさ、稼げるの?」
「スイートワーカー?」
セオドアは手を止める。
「スイートワーカーって、仕事さえこなせばお礼で菓子は貰えるし、グループから金銭入るんだろ…甘い仕事じゃないか?」
「…甘くないよ。知ってるだろ。あいつらは毎日…シュガー感染者を殺さないといけない」
「知ってるって。あんたより遥かに、スイートワーカーとシュガーについては知っている…妹のおかげでね」
「スイートワーカーは貧しい猫や小さな村に菓子を届けると共に、シュガーに感染した砂糖猫を殺すのが仕事。でもそのシュガー感染者は…死んだ後、完成された菓子に姿を変える。私たちはそれを食べて生きている…そうだろ」
「…その話はやめてくれないか」
セオドアは顔を顰めた。
ヴァレリアは妹から聞き、スイートワーカーやシュガーについて知った。その彼女からセオドアはスイートワーカーについて聞き、シュガーの話を聞き、自分たちがスイートワーカーから貰って食った菓子についての真実を知った。
セオドアはそれを受け入れられず、スイートワーカーから菓子を貰うことをやめた。
「…俺は何も知りたくなかった」
「それは謝るけど…」
「ヴァレリア…お前は真実を知っても、スイートワーカーに成りたいのか」
「成りたいとは一言も言ってないよ。でも、稼げるならそれでもいいだろうなって、夢見てるだけさ」
「スイートワーカーは甘くない…お前に猫殺しができるのか」
「シュガーは害悪だよ。みんなに危害を加える動く屍なら、殺したって何とも、」
セオドアがヴァレリアの襟を掴む。
引き寄せ。
その先を言わせまいと唇を唇で塞ぐ。
甘い肉と唾液の味。
なのに、ヴァレリアが言いかけた残酷な科白でその甘さは掻き消され、吐き気を誘う無味が流れ込む。
…セオドアは咽せながら唇を離した。
「…何だよ、セオドア」
「…頼むからヴァレリア。お前は、俺とここで働け。この屋敷で働け。ここで働くことが、お前と俺の天職なんだよ」
「何で。王様は性悪だよ。いつ報酬をくれなくなるかもわからないし…」
「だったら街に行こう。街に行けば、」
「妹を置いて村を出られるかよ。それはてめえだって同じだろ!」
「とにかく、スイートワーカーの話はしないでくれ!」
セオドアが叫んだと同時…拭き掃除に使っていたバケツが傾き、階段に水がこぼれる。バシャッ、とぶちまけた水の音が大きく響き、暗い地下へ勢いよく流れていく。
ふたりは呆然とそれを見た。
ヴァレリアがため息をつく。
「…悪かったよ。てめ…あんたがスイートワーカーを嫌うのは知っているさ。私のせいだし…」
「それは、別にどうでもいいんだよ…」
「けど別に、私はスイートワーカーになりたいわけでもないし、実際、シュガー殺しなんてしたくもない。甘い夢じゃないことくらい、わかってるよ」
「…なら、いいんだ」
俯くセオドアを見…ヴァレリアはふっ、と笑う。そしてその肩を乱暴に叩いた。
「私の甘い夢は、あんたがくれるんだろ、セオドア。どさくさ紛れにえずくほど甘い科白言ってくれやがって!」
「それ…それはお前を引き止めるための、」
「私もあんたと居るの好きだぜ。あんたの甘ったるい肉の味も、舌の味も、どんな菓子より美味だ」
セオドアは頬を染め、階段上に置いていたモップを手に取り階段を降りる。
「片付けるぞ。要らん仕事が増えた!」
「あはは。てめえ、その顔…ルビーカカオみたいだな!」
ヴァレリアもモップを持ち、セオドアの後を追った。
×××
バケツからこぼれた水は地下の床に水溜りを作り、大きく広がっていた。
「あーあ…びっしゃびしゃだ」
「どうせ地下も掃除しなければならない…さっさと拭いて、奥まで行かないと」
セオドアは素早く水をモップで拭き取る。濡れたモップはヴァレリアに渡し、濡れていない方を受け取る。
ヴァレリアは受け取ったモップを回転式乾燥のついたバケツへ突っ込み、スイッチを足で踏む。モップが回転し水滴が吹き飛び、また乾いたそれをセオドアへ持っていく。
それを二、三度繰り返し、地下の床の水溜りは掃除完了。
さて、とふたりは暗い地下の廊下を見る。
「地下掃除って初めてだ。何があるんだっけ」
「王様が大切にしている高価な物とか、古い物とかが置いてあると言っていた者がいた」
「へえ…唆るな」
「もしくは死体を置いてある部屋がある」
「それはないわ。あの王様、態度でかいけど絶対臆病者だし」
「幽霊を見たという話も聞くが」
「セオドア、地下、怖いのか?」
「…暗いところは苦手だ」
顔を顰めるセオドアを見、ヴァレリアはにまりと笑い、モップを持っていない方の手を掴んだ。
「大丈夫だ。私が居る。ちゃちゃっと終わらせて、報酬貰って、今日は終わりだ!」
「…そうだな」
セオドアはヴァレリアの手を握り返し、暗い地下廊下をモップをかけながら歩き出した。
薄灯の灯るランプの埃を拭き取り、床をモップがけし、壁をタオルで擦る。地下の汚れは上階よりもひどく、度々バケツで濯がなければモップもタオルも真っ黒になってしまう。
「地下掃除、足りてないんじゃないか。私らの前にやったのっていつだろう」
「或いはその猫がズボラだったか」
「地下が怖くて? あんたじゃないんだから」
「俺はちゃんとやっているぞ」
律儀に、隅々まで清掃する。
ふたりで行えば、薄暗くとも恐怖はない。
他愛もない会話をしながら廊下を進む。
…所々に扉がある。
それが、セオドアが話に聞いた、高価な物や古い物が置いてある部屋だと思ったヴァレリアは、扉の前で足を止め…にまにまとセオドアへ振り返る。
「ねえ、入ってみないか。何が置いてあるか気になる」
「…盗むつもりじゃないだろうな」
「猫聞きの悪い、部屋の中も掃除しないとって思ってるだけだよ!」
ヴァレリアはドアノブを捻る。
だが開かない。鍵がかかっている。
「セオドア、鍵とか借りてないの?」
「ない」
「えー…何だよ、もう。すげえ気になる」
ヴァレリアが肩を落とす。
…と、廊下の奥から、何かが聞こえた。
「…ん?」
「どうした、セオドア」
「…歌が聞こえた。女の子の声だ」
「歌? 女の子?」
ヴァレリアも耳を澄ます。
…確かに聞こえる。幼い少女の声が、楽しそうに歌っている。砂糖のように甘い歌声だった。
ふたりは惹かれる。
「…幽霊?」
「やめろ」
「でも気にならないか」
「ああ…聞いているだけで、口の中が甘くなる」
不思議な歌声に導かれ、ふたりは掃除道具を持ったまま、廊下の奥の闇の中へ歩みを進める。
幼い歌声を求める。メロディは甘く響き、脳が溶かされるような感覚でくらくらと酔い、大好きな菓子をもっと食べたいと求めるように、歯止めが効かなるなるほど狂っていく。
甘い。
甘い。
その扉を前にすれば、甘い音色は、鼻腔に届く確かな甘い香りとなって漂っていた。あまりの強さにヴァレリアは咽せた。
「…ケーキの香り」
「ああ、すごく甘い」
最奥の扉は、今まで見てきたものとはまったく違う、可愛らしい見た目だった。砂糖猫が夢に見るお菓子の家の、ビスケットでできた扉…それを模したデザインの大きな扉だった。
暗い地下には似つかわしくない扉に、ふたりは疑問に唸り…同時に、漂う甘い香りに生唾を飲み込む。
何よりも、より間近に聞こえる甘い歌声の正体が気になり…ヴァレリアはメレンゲ菓子のようなドアノブに手を伸ばす。
「待て、ヴァレリア」
「で、でも気にならないか。王様の屋敷の地下に、お菓子の家の扉…そして女の子の歌が聞こえる…絶対中に何かあるって!」
「だが鍵は持っていない。鍵を渡されなかったということは、どの部屋に立ち入ることも許さないということだ…だから」
「だったら中の子に開けてもらおうよ。おーい、誰か居ますか?」
ヴァレリアがビスケットデザインのドアを叩く。
すると、ぴたりと歌声が止んだ。
セオドアは身を固くする。
しばらくの静けさの間に…だんだんと甘いケーキの香りが強くなっていく。生唾を飲み込むのは、食欲を誘われる香りのせいでもあり、そのあまりの甘さに、吐き気さえ覚えるからだ。
砂糖猫の神経を狂わせる香り。
胃袋が空気だけで満たされる。
尋常ではない。
地下の無音に、コツンと小さな音が響いた。
…ドアの向こうからノックが聞こえた。
続いたのは。
「…ねえ。開けて」
「…え?」
幼い少女のか細い声。
ヴァレリアが問い返そうとした時…───
「てめえら、そこで何やってんだ‼︎」
背後から荒々しい声がかけられた。
ヴァレリアとセオドアが振り返れば、王様、キートンが早足でこちらに向かって来る。明らかに怒っている。
慌てるセオドアは言い訳を考え吃り…対してヴァレリアは堂々と立ち、背の高いキートンを強い眼差しで見上げる。
「王様、この部屋は、」
「黙れ! さっさと上に戻れ、ガキどもが‼︎」
言い返す間も与えない。キートンはヴァレリアの襟首を掴み、そのまま廊下を引き返していく…それからぎらりとセオドアに振り返り、無言で「お前も戻れ」と睨みつけた。
宙吊りのまま連れて行かれるヴァレリアに慌てながら、セオドアも早足で追いかけた。
甘い香りが漂う。
ドアの向こうから小さな声が聞こえた。だがもう誰にも届かない。
××××
その日の報酬は半減された。
少しの金銭と菓子作りの材料…一階と地下という2フロアの清掃にしては、あまりにも足りなすぎる。
ヴァレリアがそのことを妹…フレデリカに話せば、あははと納得された。
「それは姉さんが悪いわ。勝手に色々探ろうとしたんだもの…王様の機嫌を損ねるのも当たり前よ」
「でもきっと、あんたがその部屋の前に行っても同じだったはずだ。絶対に気になるに決まっている。あんな甘い香りのする部屋…」
「そうね…」
てきぱきと夕食を作るフレデリカは、粉砂糖を用意しながら考える。姉、ヴァレリアから聞いた王様の屋敷の話…自分は一度も行ったことのない場所。王様の秘密。
「…女の子の声が聞こえたのよね」
「ああ。すごく甘い声だった」
「…姉さんから聞くに、王様はすごく態度が大きいけど、臆病な猫に見えるのよね」
「弱い猫はよく怒鳴ると言うだろ」
「だったら…幼い猫を誘拐して監禁する、なんてことはないはず。そうでなければ…」
「やっぱり幽霊だったのか?」
「それもあり得るけれど…」
粉砂糖を振りかけ、夕食は完成した。
フレデリカはそれを数個に切り分け、小皿に乗せ…ホットミルクと一緒にテーブルへ持っていく。ヴァレリアは目を輝かせた。
「どうぞ」
「おぉ、ガトーショコラだ!」
「昨日、スイートワーカーから貰ったのと、デューイからチョコレートを分けてもらったの。材料が揃ったから、久しぶりに」
「いただきます!」
ヴァレリアはフォークで切り分け、それを口に入れる…濃いチョコレートの甘みと苦みに、粉砂糖のふわりとした甘さ。ほろりと蕩けるのにぎっしりと食べ応えもある。ヴァレリアの大好物だ。
嬉しそうに頬張る姉の姿にフレデリカは微笑み、自分も一口食べる。上手く作れた。とても美味しい。
…ああ、そうだ、とヴァレリアがもごもごと話し出す。
「そのさ、次の仕事なんだけど」
「えぇ?」
「菓子を作ってこいって言われたんだ」
「お菓子…何を?」
「何でもいいんだって、美味しく作れば。王様も変な仕事言い出すなあ…」
「そうね。お菓子作りなんて、初めての依頼ね」
「私、料理苦手なのに…」
ぼやきながらヴァレリアは、もう一口ガトーショコラを食べる。
料理が苦手…姉の言葉にフレデリカは苦笑いをする。過去に姉が作った菓子は壊滅的な出来栄えだった。どんなお菓子を作ろうと、焦げる、生地は水分が多すぎ、膨らまない、味はほぼ砂糖のみ…とても食べられたものではなかった。
それは今も変わらない。だからフレデリカが日々の料理当番だ。
「姉さん…料理以外なら、大体のことはひとりで出来るのに」
「料理以外ならな…申告したのに。料理だけは無理ですって」
「セオドアはどうなの?」
「あいつも壊滅的。てか、そのセオドアも菓子作りを頼まれたんだ」
「あらら…」
残り少なくなったガトーショコラを惜しむようにフォークで突つくヴァレリア…フレデリカはホットミルクを少し飲み、考える。
「なあ、フレデリカ…何か簡単に作れる菓子ってないのか?」
「んー…簡単か」
「というか、フレデリカ。あんたが私らに教えてよ、簡単な菓子!」
「えぇっ?」
フレデリカはホットミルクを少しこぼす。
「私、王様に食べさせられるようなお菓子は作れないわ! ちょっとしたものしか、」
「大丈夫だよ。あんたの菓子はじゅうぶん美味しいって。大体王様だって、美味しければ何でもいいって言ってるんだし、簡単なものでいいじゃん!」
ヴァレリアは突ついていた残りのガトーショコラを一気に口に含み…口周りに粉砂糖を付けながら、無邪気ににまりと笑った。
「決まりだ、フレデリカ。明日、学習館のキッチンを借りて、適当な菓子の作り方を教えてくれよ。セオドアも呼ぶからさ!」
「もう…簡単に言ってくれちゃって」
フレデリカは困惑するが、お菓子作りのことを考えれば楽しみになり、やはり自然と笑みが溢れるのだった。
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