第2話
一体どうして、砂糖猫たちはシュガーという奇病を発症したのだろう…古い書物を読み漁っても、その原因は一切突き止められなかった。
原因不明の病気…そんなものあるはずない。全ての事柄には何かしらの原因があるはずだ。
少女、フレデリカは少し苛立って本を閉じた。今日の本も役立たずだ。とりあえずシュガーについてのメモは取ったが、読み直せば、以前も書いたような気がする内容ばかり。
学習館の薄暗い図書室の狭い個室の中、フレデリカはため息をつく。
「…シュガー、か」
シュガー。
もしかしたら、砂糖猫はいずれそうなるのが生命の果てなのだろうか。糖果を食べて生きる砂糖猫の最期は、シュガーというゾンビになり、体内からお菓子を生み出して死ぬ…そういう決まりなのだろうか。
…だがそれでは矛盾が生じる。シュガーは突然現れたと書物に書いてあった。もし砂糖猫の最期がシュガーだとしたら、医学書にそう書いてあるはずだ。
そうではない。シュガーは病だ。それだけは決まりだ。その原因がわからない。
フレデリカはもう一度深くため息をつく。突き止められない疑問には苛々する。特にシュガーという病気を知ってからは、毎日苛々しっぱなしだ。
…と、そこへ。
「フレデリカ、入るよ」
「ええ、どうぞ」
フレデリカが答えると、部屋のドアがゆっくり開き、片目を包帯で覆った少年が入ってきた。
「どうだい、研究は」
「全然…まったくよ。役立たず。苛々してきちゃったわ」
「あはは…確かに、顔色が悪いね」
フレデリカは荒っぽい手付きで本やノートを片付け、ペンをペン立てに戻す…それから、スン、と少年から漂う香りを吸い込む。
「…デューイ、カラメルの香りがするわ」
「ああ、休憩しようって言いにきたんだよ」
少年、デューイは後ろ手に隠していた小さな箱をフレデリカに差し出した。
「妹が作ったんだ。よかったら食べて」
フレデリカは箱を開けると、パッと瞳を輝せた。中に入っていたのは、ちょこんと小さなプディングだ。
「やった。私の大好物!」
「ありがとう」
「でもここで食べるのは寂しいわね…場所を変えましょうよ。明るい場所で食べたいわ」
「そうだね。そう言うと思って、まだ僕たちも食べてないんだよ。行こう」
フレデリカはもう一度箱を畳み、机のスタンドライトを消して立ち上がる。
疲れた時は甘い物。とは言え砂糖猫たちにとっては、特別な甘い物は猫それぞれだ。
プディングは濃い卵の味。そこに甘くほろ苦いカラメルソースが良いアクセントだ。
フレデリカが好みなのは、苦味強めのカラメルソース。デューイの妹、テルシェが作ったプディングは、ちゃんとフレデリカ好みの味だった。
「美味しい〜。疲れが吹っ飛ぶわ」
「だって。よかったね、テルシェ」
デューイが隣の席のテルシェに微笑む。
テルシェはにこにこと笑い、ぱくぱくと口を動かした…それをデューイが伝える。
「ありがとう、だって。フレデリカ」
テルシェは喋ることができない。伝えたいことは兄越しに伝えることになるが、それでもなんとか自分でも感謝を伝えようと、フレデリカににこにこ笑って、身振り手振りをする。
くすりとフレデリカが微笑み返した。
「テルシェは幼いのに、お菓子作りが上手ね。スイートワーカーから貰うお菓子よりも美味しいわよ。ねえ、お店開いたら?」
「食べ物屋さんなら腐るほどあるよ。それに、テルシェはお話しが苦手だし…」
「貴方が居るじゃない、デューイ」
「うーん、僕は妹のお菓子が特別とは思えないけれど」
「冷たいお兄ちゃんね」
兄のデューイが唸る隣で、テルシェは無言で頬を膨らませ、デューイの前のプディングの皿を引ったくった。
呆れるフレデリカ。
「ほら怒らせた」
「あー、ごめんよテルシェ。でも事実じゃないか。特別売りになるような隠し味も何も…」
テルシェはますます怒り、デューイのプディングの残りを全て口の中に放り込んだ。
「わー、僕のプディング!」
「自業自得。素直にテルシェの才能を認めないから」
「うー…」
悲しく項垂れるデューイからトテトテと離れ、テルシェはフレデリカの隣へ座り、兄に舌を突き出し嫌な顔を向けた。
「そうだフレデリカ。今日は、お姉さんは?」
「王様のところよ。今日の仕事は庭の草むしりだけだから、あまり報酬は貰えないでしょうね」
「草むしりだと…バニラとか、チョコとか?」
「ここのところアイスクリームが夕食よ。身体を冷やすからあまり好きではないのに」
「ココアでも持っていくかい。この前、孤児院から届いたんだよ。まだ余りがあるし、持っていってよ」
「ええ、ありがとう。でも今日のところは大丈夫。何せ…」
───カラン、カラン、と外で鐘の音が響き渡る。フレデリカは窓の外を見遣り、にまりと笑みを浮かべた。
その鐘の音は、村への来客があった際に鳴るもの。そして村に訪れる来客は、大抵決まっている。
「スイートワーカーが来たわ」
×
特徴的な黒のローブに身を包み、鞄を持った砂糖猫は、村の入り口で立ち止まった。
猫たちが集まってくる。お菓子を待ち望みにしていた猫たちが、満面の笑みでスイートワーカーを迎える。
スイートワーカーはフードの下で顔を強張らせ、微かにふるえる。
「スイートワーカー、お疲れ様です!」
「今日はどんなお菓子を持ってきてくださったの?」
「ねえねえ、ブールドネージュはある?」
スイートワーカーは二、三歩後ずさる。
いっそこのまま、菓子が入った鞄をここに置いて逃げてしまいたい。スイートワーカーは怯えていた。満面の笑みで迫ってくる砂糖猫たちに。その鞄の中の食物に。
そしてこの後、この満面の笑みの砂糖猫たちが、何も知らないまま、心から幸福そうに、共食いをすることに。
スイートワーカーは生唾を飲み込む。呼吸を乱す。菓子をねだるキラキラとした眼差しに囲まれ、恐れ。
「ブルーノ!」
───澄んだ声が耳に届いた。
名前を呼ばれたスイートワーカー、ブルーノははっと我に返り、鞄の持ち手を強く握り直す。
集まった砂糖猫たちの間を縫い、姿を見せたのはフレデリカとデューイとテルシェ。にこりと微笑んだ。
「お疲れ様、ブルーノ。大丈夫?」
「…ああ」
「鞄、借りてもいい?」
「…ああ」
ブルーノはふるえる手で、フレデリカへ鞄を手渡す。彼女が受け取ったと同時、ブルーノはすぐに手を引っ込めた。
フレデリカは鞄を開ける。ふわっと強い甘い香りが溢れ出る。鞄の中にはたくさんのお菓子が詰まっていた。
キャンディー、マシュマロ、チョコレート、ゼリービーンズ…クッキー、マドレーヌ、カヌレ、マカロン…要望のあったブールドネージュもある。
それ以外にも、小麦粉やバニラ、砂糖、卵、ミルク、果物などのお菓子作りに必要な材料も入っている。
スイートワーカーの鞄は、特別な鞄だ。何でもいくらでも詰め込める。
村の砂糖猫たちはわあっと歓声を上げた。可愛らしい菓子たちに。美味しい菓子が作れる材料に。
フレデリカはデューイに開いた鞄を渡す。受け取ったデューイが声を上げた。
「さあ、並んで。みんな欲張らないで、必要な分だけ貰っていくんだよ。スイートワーカーへのお礼は、テルシェの前に置いていってね」
デューイとテルシェが菓子配りをしている間、フレデリカはブルーノを気遣う。
「…だいぶつらそうね」
「…大丈夫だ。貴方たちのように理解者が少しでも居るだけで救われる」
「それが余計に苦痛なのではないの?」
フレデリカが顔を覗こうとしたが、ブルーノは素早く逸らす…片目を隠すほど伸びた髪と黒いフードで、その顔は見えない。
ブルーノは呻く。
「…俺が苦痛だと言うのなら、貴方はどうなんだ。貴方は、あ…あの菓子を食べて、苦痛ではないのか。同じ砂糖猫だと知っておきながら食べるのは、気持ち悪くないのか」
「……」
フレデリカは博識だ。知識を得ることを楽しむ少女だ。
その彼女は、書物を読み漁っている間に知ってしまった。
スイートワーカーの仕事。
スイートワーカーは
フレデリカの友だちであるデューイやテルシェ、フレデリカの姉もまたその事実を知っている。スイートワーカーの菓子は、元は同じ砂糖猫。
「そうね」
フレデリカはため息をつく。
だが、嫌な顔はせず、ブルーノの見えない顔を覗き込む。
「でも、そういうものではなくて? あのお菓子が元々同じ砂糖猫だというのは、確かに衝撃的だったけれど…そうだとしたら、私たちが日々お菓子作りに使っている卵やミルクはどうなの。それもまた、別の命の欠片を頂いていることに変わりはないわ」
「…だが、死にはしないだろう」
「でも苦痛はあるはずよ。ブルーノ、大丈夫よ。みんながその事実を知る日なんて、遠い未来のお話よ」
ブルーノは低く呻く。胸に手を当て、乱れた呼吸を落ち着けようと必死になっている。
フレデリカは呆れた。
「…貴方が言ってくれたのよ。何も知らないことは幸せだって。村のみんなは幸せよ。貴方が来てくれることをいつも心待ちにしている。貴方が来てくれれば、心の底から喜んでいる。幸せなのよ」
ブルーノは呻く。
「…俺は、何も知りたくなかった」
「ブルーノ!」
デューイがふたりの元にやってくる。鞄は開いたまま。隣のテルシェは、たくさんのお菓子を抱えて笑っている。
「今日も完売。みんな喜んでいるよ」
「デューイ、私の分は?」
「マカロンとマドレーヌ…あとキャンディーと、薄力粉、ベーキングパウダー、ミルク…」
「カヌレ狙ってたんだけどなあ」
フレデリカが指を咥える。
デューイとテルシェが、ブルーノへ鞄とお礼の菓子を差し出した。
「みんなからのお礼のお菓子、入れるね」
「…そんなに要らない。少し持っていけ」
「これはお礼なんだよ」
「こっちも手伝ってもらった礼だ…持っていけ」
「…そう」
ブルーノに言われ、デューイとフレデリカは遠慮がちに、小さな菓子を数個手に取り…それでもたくさんあるお菓子を鞄の中に詰めて閉じる。
フレデリカに鞄を返される…ブルーノは恐る恐る鞄を手に取り、すぐに村へ背を向けた。
後ろから村の住民たちが声をかける。
「また来てくださいね!」
「もっとゆっくりしていっても」
「今度はリーフパイが欲しいなあ!」
「ブルーノ!」
フレデリカがその背に微笑む。
「みんな幸せよ」
××
森の中に薄灯りがひとつ。
小さな家からは甘い香りが漂う。
…小皿にドーナツを並べ、青年、キースは笑みを浮かべ、上手く出来たぞとひとり呟く。
それから湯を沸かし紅茶を作り、ミルクを注ぐ…ミルクティーとドーナツをテーブルに置き、その出来栄えを堪能していると。
ガチャリとドアが開く音がした。
キースは部屋をを出、帰ってきた男を迎える。
「お帰り、ブルーノ。ちょうどオールドファッションが出来たんだよ。今日は食べられそうかな?」
ガタン、と鞄を落とす音が響く。
帰宅したブルーノはキースに応えることなく、リビングではなくトイレに駆け込んだ。
…間も無くして吐き声が聞こえてくる。
キースは小さく息を吐き、ドアが開けっ放しのトイレを覗き、激しく嘔吐するブルーノの背を撫でる。
「…大丈夫かい?」
「ぐ、ゔぇっ…げぇっ」
「うん…大丈夫じゃないよね」
ブルーノは食事を取れない。重度の食物恐怖症だった。固形物を入れることの出来ない腹から、それでも甘ったるい味の胃液しか吐き出せない。
空の胃を絞って必死に吐き出すブルーノを宥めながら、キースは哀れむように笑む。
「何度も言うけどさ…そんなにつらければ、無理をすることないんだよ、ブルーノ。スイートワーカーは君だけじゃないんだから」
「…こ…この近くでは…お、俺だけ、なんだ」
口からどろりと甘い胃液を滴らせ、自らの吐物と向き合いながらブルーノは呻く。
「俺が…続けなければ…みんなが、飢えてしまう」
「そんな責任を負う必要なんてないよ。代わりなんてどうにでもなる」
水を流し、ブルーノへ肩を貸しキースは立ち上がり、トイレから出る。
「覚えてるよね。僕の父さんもスイートワーカーだっただろ…連絡を取れば、君の代わりのスイートワーカーを寄越してくれるかもしれない」
オールドファッションの香ばしい香りとミルクティーの甘い香りが漂う廊下から、階段を上り、二階の小さな部屋に入る。
菓子の香りに空えずきの止まらないブルーノをベッドへ寝かせ、キースはクローゼットを漁る。
「…それでも君が、どうしてもスイートワーカーであり続けたいのなら、父さんのように、材料作りのスイートワーカーに成るのもひとつの手だよ」
ガートル台を引っ張り出したキースは、その流れで引き出しへ向かい、中から糖液の入った輸液バッグを取り出す。
ガートル台に吊るし、チューブを繋ぎ…ブルーノの左腕に挿入する。
ブルーノはびくりと身体を強張らせ、点滴を引き千切ろうとする。
「やめろ…入れるな…! こんなもの…!」
「味わわないだけましだろう。暴れないで」
砂糖猫は糖果で生きている。
糖果を食べて生きる砂糖猫の肉は甘いという話も聞く。あらゆる体液までもが、濃厚な砂糖水のような甘さだという。
だから砂糖猫の輸液や栄養剤などは、濃く煮詰めた砂糖水で足りるのだった。
食物恐怖症のブルーノは固形物を入れられない。それでもその身体を生かすには、嫌でも砂糖水の輸液が必要だった。定期的な砂糖水の補給でブルーノは生きていた。
流し込まれる甘い液体に、ブルーノは再度吐き気に襲われ、ベッドで身体を縮こまらせ呻く。喉から流れ込む胃液も、口腔に溢れかえる唾液も、最悪な甘味だ。
キースはそんな様子に呆れ…よだれまみれになるブルーノの長い前髪を口元から退ける。
露わになったのは、カラフルな、どろどろに溶けた右目。
暴れて袖から曝け出された、虹色のマーブル模様に染まったいびつな右腕。
シュガー。
「ブルーノ…どうして君はスイートワーカーに拘るんだい。お菓子も嫌いで、猫殺しも嫌いで、しかもそんな身体でさ…何で?」
苦しみと嫌悪に感情が昂ぶれば、ブルーノの右腕はずるずると枝分かれし、触手となって伸びていく。
きしきしとガートル台がゆさぶられ軋み、ブルーノは空えずき混じりに喘ぐ…溶けた右目から溢れ出る粘つく液体がシーツに滲み、カラフルな染みを広げる。今まで何度もそうしてきた。シーツには昨日から数日前、それ以前までの体液が、パステルカラーとなって、洗い落とせない汚れになっている。
輸液されれば溢れ出る糖液。
ブルーノは左目で半ば白目を剥きかけながら、側で見守るキースへ、潰れた声で答えた。
「…そうしなければ…俺の、生きてる意味が…なくなってしまうんだよ…」
猫殺しが嫌でも。糖果が嫌でも。シュガーの末路を知り、菓子の正体を知っても。それを何も知らない者たちに食わせることになっても。どれだけそれが恐ろしくても。
生きていたいから。
どうにかして生きていたいから。
縋り付く理由を探していた。
キースはため息をつき、ずるずると伸びるブルーノの触手の一本を握る。
「…それって、僕のせい?」
「……ちがう」
日々彼らが食らう菓子が、元々は同じ砂糖猫だというように、命を食らって生きている猫たちが何万と居る。
ブルーノとて例外ではない。
ブルーノが死ねないのは、過去に食らった猫の命があるからだ。
死ねない。
どれだけ苦しくても、虚しくても。
その身体は自分だけのものではない。
だから───
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