橋木研介 1

 水を飲んで、また吐いた。指を喉に突っ込み、さらに胃液を掻き出す。私の中で何かが暴れ、這いずり回っているのがわかる。背中に当てられた細い指が、私を後ろから抱きしめていた。


「もっと吐いて。あなたの中にある汚いものを、全部出して。そう、全部。綺麗にしましょーうね、さあ」


 穏やかで、透き通るような声が、耳元で囁く。低くもなく、高くもないその声は、私の頭の中に不思議と染み込んだ。

 さらに奥へ、奥へと、指を突っ込む。もう声も出ないほどに、私の体の中に手が埋まってしまっていた。


「うーん。こんなもんかな。まだ残っているような気もするけど、今度出せばいいしね。うん。今日のところはここまで。よく頑張りました」


 急にぐいっ、と私の手が口から引き出される。げほげほっ、と途端に思い出したかのように私は咳き込んだ。揺らぐ視界の中、後ろを振り返ると、金色の人間が私に微笑みかけているのがわかった。


「はぃああああくいぇえぇうでぁあっほぇぉえ」

「はははっ、何言ってるかわかんないや」


 吐き気と胃液にやられた喉のせいで、声が上手く出なくなっている私を、その人間はそっと抱き寄せる。何か柔らかなものが、私の鼻先に触れた。


「まあいいや。じゃあ、御褒美」


 唇に鋭い痛みが走り、青い瞳と目が合う。吸い込まれそうなほどに、綺麗な瞳だ。ぷっつりと糸の切れたマリオネットのように、私はそれに手を伸ばす。湖の中で溺れているような、そんな感覚が私を襲い、私はその中へと呑み込まれていった。



 

 

『君、合格』


 と言われたのは、いつのことだったか。道端で座り込んでいたその子──ここでは少年、と呼ぼうか──を家に上げ、ご飯を食べさせたところ、いきなり押し倒されたところまではしっかりと覚えているのだが、その後、視界が、記憶がブラックアウトしてしまっていて、本当に何も思い出せないのだ。


『もっともっと綺麗になって、僕を助けて』


 わかっているのは、私はもう少年に囚われてしまった、ということだけだ。

 それから私は1日に1度、吐かされるようになった。

 吐く、という行為に何の意味があるのかは知らないが、それにしたって、辛い。本来ならば吸収されるべきものを、無理矢理に吐き出すなどどいうことは、神に背く行為だ。


「もう大分、綺麗になってきたんじゃないかな。明日からは、もう吐かなくていいよ。君も辛いだろうから」


 少年がベッドの横で、ジーパンを履きながら呟く。私はベッドから身を起こし、煙草を吸っていた。


「それにしても、何で吐かなきゃならなかったんだろうね、君も僕も。あいつらがやれって言って、僕もやらされてたから君にもやってみたけど、正直、綺麗になったのかそれともそうじゃないのか、よくわかんないよね」

「俺に、よくわからないことをずっとさせてきたのか」

「仕返しだよ仕返し。目には目を歯には歯を。僕がやられたことを、誰かにやり返すの。人には人をってね。それよりも君、また『俺』になってるよ」


 嗚呼そうだった、と俺は一人称を「私」に戻した。これも少年からの命令で、元々私は自分のことを「俺」と呼んでいたのだが、今は「私」になっている。それでも、長年の癖はなかなか治らないもので、時々私は「俺」に戻ってしまっていた。


「しっかりしてよね。僕だって、一人称を変えるの、地獄みたいだったんだから」


 まったくもう、と少年は近くにあったジャージのパーカーを拾い上げ、無造作に羽織った。細い体だ。これじゃあ、騙されるのも仕方のないことだろう。

 これからまた少年は、人間を誘惑しにいく。俺のときと、同じように。


「じゃあ、行ってくるね」

「ああ。気をつけて」


 最後にもう1度だけ口づけを交わすと、少年は帽子を被り、部屋から出ていく。少年のいなくなった部屋で、私は渇いた喉を潤すために、ペットボトルのお茶を手に取った。

 渇き、傷ついた喉が軽々と水分を通す筈もなく、ごくりごくり、と飲み込むたびに鋭く痛みが走った。少年もまた昔、こんな痛みを味わっていたのだとしたら、それはとても可哀想なことだと思う。今でさえ未成年で、その当時はほんの幼い子どもだっただろうに。

 ベッドから立ち上がり、年代ものの引き出しを開け、通帳を取り出す。ぱらり、と捲りながら数字を辿っていくと、最後は「0」に行き着いた。


「折角の貯金が台無しだよ」


 そう呟いてみるも、後悔はない。少年に不用意に通帳を見せてしまったのは間違ってはいなかったと心から思っているのだ。どうせ、私には大した趣味もなく、大きな家を買っても広いだけで掃除が面倒だ。それならば少年に全てを捧げてしまってもいいと思った。かつて共に暮らしていた妻や子どもたちにさえも、そんな風に感じなかったのに。必要なものは、必要な人のために。お金など、私が持っていても無駄なのだから。


「さあ、仕事に行きますか」


 煙草を灰皿に押し付け、その上にお茶をかけた。

 そうして、私とかみさまの日々がまた始まる。




 しわだらけの手、抜け落ちた歯、窪んだ目。それらを眺めるのが、私の仕事。


「風邪ですね。お薬をお出ししておきます」

「いつもありがとうございます、橋木先生」


 細い目をさらに細めて、患者さんが微笑む。白髪に所々黒髪が混じった、典型的なお婆ちゃんだ。体調を崩すと、いつも私の病院にやって来る。


「どうも最近、調子が悪くてねぇ」

「お婆さんくらいのお歳になると、あちこちガタが来ますからね。そういえば、お孫さん、お元気ですか?」

「ええ。最近はお友だちもできたようで。毎日楽しそうに学校に通っております」

「それはいい」


 ふふふ、と嬉しそうに笑うお婆さんを見て、私はふむ、と顎に手を当てた。お孫さんが元気なことは、それはそれは、とてもいいことだ。


「食も細くって、初めはどうなることやら、と思いましたが、最近は少しずつ、ご飯も食べられるようになって。自分のことのように嬉しいです」

「食べ盛りのお年頃ですしね」

「ええ。もっと頑張らないと」


 お婆さんはごほごほっ、と咳をした。私は顎に手を当てて、その姿を見る。嫌な咳だ。私にはわかる。彼女はもう長くはないだろう。


「それじゃあ、お大事に」

「ありがとうございます」


 ぺこり、とお辞儀をすると、彼女の黒髪交じりの白髪が揺れた。


「……さて、次の患者さんはどちら様かな?」


 看護師から手渡されたカルテを見ながら、相変わらず私は少年のことばかり考えているようだ。だってもう、痛みも何も無い。患者と対峙するときにいつも感じていたあの痛みはどこにもない。

 思わず写真立てを見ると、かつての妻と娘、そして息子。それを手に取った瞬間、胸の奥がつうう、と痛んで、嗚呼、俺はまだ、彼女たちのことを忘れてなどはいないのだ、とやっぱり思い出させるのだ。



「ただいま」

「おかえり」


 返事が返ってくると思わなかったので、私は急いでドアを閉め、少年の元へと駆け寄る。少年はソファに座り、机に向かっていた。こと、と色鉛筆を置く。


「今日は上手くいったよ。あとはあいつをおびき寄せるだけかな」

「できるのか」

「やってみせるよ」


 にいぃ、と笑うと、少年は先程まで何か書いていたらしい絵を掴み、俺に見せる。全体的に青で色づけされたその絵は、酷く美しい。


「と、いうわけで、これ印刷お願い」

「ビラか」

「そう」


 こくり、と頷くと、また色鉛筆を手に取り、さらさらとまた何かを付け加えてゆく。どうやらまだ満足のいく仕上がりではなかったらしい。印刷しろ、と言ったくせに一向に絵を手放さない少年にため息をつき、私は夕食の準備を始めることにした。今夜は赤飯でも炊こうか。

 洗面所へと向かう私の耳に、少年の独り言が響く。


「青い花は枯れない。神様がいる限り、何度だって蘇るんだよ」

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