第24話 野球殿堂

 それは少し未来の話。だけど未来過ぎるわけでもない時代。

 佐藤直史がMLBを引退してから、五年後の話である。

 引退して五年というのは、MLBにとって特別な意味を持つ。

 野球殿堂入りの資格を得られるのが、一般的に引退後五年が経過してからになるからだ。

 ただし原則として野球殿堂は、10年の選手生活と、それに加えて引退後の五年経過が条件となっている。

 なので選手生活の期間が全くそれに満たない直史は、この対象になどならないはずであった。

 しかし、これはあくまでも原則。

 過去には引退後にすぐ殿堂入りした者や、九年間の現役生活で殿堂入りした人物もいる。

 ただそれに比べても、直史は現役期間が短かった。

 それなのにこれが話題となったのは、やはりその短い選手生活の中で、あまりにも鮮烈な輝きを放ったからであろう。


 野球殿堂はそのスローガンを「歴史を伝え、偉業を称え、世代を繋ぐ」ということにしている。素晴らしい建前だ。

 実際にあの短い間に、直史の成したMLBへの貢献は、とてつもなく大きなものがあった。

 シーズン当たりの記録であれば、いまだに破られないどころか、二度と足元にも追いつけないであろう記録を、多数残している。

 最終的には怪我により引退を宣言したが、当時から治療に時間をかければ、まだ復帰できるとは言われていたのだ。

 それなのに本人は、あっさりと引退を決意した。

 決定的な言葉は「家族との時間をもっと持ちたい」というひどくありふれたものであった。

 アメリカ人はこの言葉に弱い。


 引退から五年、直史と同時期に選手生活を送った選手たちが、選考の対象になってくる。そして気付くのだ。

 そのリストの中に直史と対決して、勝った者がいない。

 ヒットを一本ほど打って、それで勝ったと言えるなら、それは勝ちなのかもしれない。

 直史から打つということは、それだけに価値があったからだ。


 基準を満たさないということで、そのまま流してしまえばよかったのだが、誰かが呟いたのだ。

 それっておかしくね、と。

 原則はあるが、既にそれが曲げられた前例はある。

 実績にしても短期間ではあるが、獲得したタイトルなどはあまりにも多い。

 そしてこの当時、現役ながら既に、生ける伝説となっていた白石大介が「ナオの入っていない殿堂って何か価値あるの?」などと煽ったことも大きかった。

 本人は煽ったつもりではなかったと言ったが、あまりにも白々しい台詞である。


 野球殿堂はつまるところ、MLBへの貢献度が問題となる。

 だから選手だけではなく、審判やオーナーなども、違う基準で選出される。

 貢献するということは、長年に渡って活動するということなのだが、例外は既に存在する。

 殿堂入りした選手の中で、直史よりもタイトルや表彰の少ない選手が、いったい何人いるだろうか。


 この先、誰かが年間最優秀防御率、通算最多パーフェクト、通算最多マダックスの記録を調べたとする。

 するとなぜか、殿堂入りしていない選手の名前が出てくることとなるのだ。

 なんでこの人が殿堂入りしていないのかと、さらに調べることになるかもしれない。

 なお成績は充分なものを残していながら、殿堂入りしていない選手も何人かいて、それは球界に対するイメージを著しく悪化させた者だ。

 禁止薬物使用、八百長、球界追放などがそれである。

 直史にはもちろん、そんなスキャンダルは存在しない。


 かくして有志が、SNS上でアンケートなどを取ってみた。

 佐藤直史はアメリカの野球殿堂入りに相応しいか、せめてそれを選考される基準にあるか。

 結果は驚きの、99.7%が殿堂入りすべきだというものである。


 引退から五年というのは、まだその活躍の記憶が、多くの人々から消えていないということだ。

 なにしろ直史は全盛期で引退したのだから。

 それから五年、直史に匹敵する業績を残したピッチャーがいるだろうか。

 いない。間違いなくいない。

 つまるところやはり、ネックはただ一つの活動期間の短さなのだ。

 そこでまた話は戻って、過去の例外事項が参考される。

 引退から五年、そして10年間の活動。

 この条件に当てはまらない選手は三人いるが、一人は不治の難病により存命中にどうにか殿堂入りさせよう、というものだった。

 もう一人は現役中に事故で死亡し、これまた早めに殿堂入り。

 そして最後の一人は、かなり死後時間はかかったが、九年間の実働で殿堂入りというものであった。

 この人物もまた、現役中に病気で急死している。


 前者二人は、10年以上の現役期間はあった。

 そして後者は現役中の死亡。 

 直史にはこれらの条件はあたらない。

 また殿堂入りはこの五年後だけでなく、もう一度選考されるチャンスがある。

 そちらに回してもいいのでは、という声もあった。

 ただ殿堂入りを決める野球マスコミもまた、意外と言ってはなんだが、殿堂入りを支持する声は大きかった。


 直史は間違いなく、スーパースターとしては質素な生活をしていて、その言論は聖人君子に近かった。

 周囲の人間はそれが、グラウンドで審判を敵に回さないための、巧妙な戦略と気づいている者も多かったが。

 しかしインタビューでたびたび使う、運が良かったという言葉。

 これはMLBに詳しい人間であれば、あの名言を思い出させる。

 現役17年、実働14年をMLBで送り、引退の年には殿堂入りし、その二年後にはこの世を去ったルー・ゲーリックだ。

 彼はMLB史上最高と呼ばれるスピーチにおいて、自分のことを「私はこの世で最も幸せな男です」と言っている。

 直史がたびたび言った「私はとても幸運な人間だ」というのはこれを彷彿とさせるものだ。


 実のところ直史は、このルー・ゲーリックの故事をもちろん知っていたが、同時に皮肉も込めてこれを使っていた。

 それは実際のゲーリックのスピーチと、映画として作られた伝記作品のスピーチが、違うものであったからだ。

 配慮があったのか映画では新聞記者などに感謝をしているが、実際にはスタッフや対戦相手の選手に感謝を示しているのだ。


 直史もまた、新聞記者を含むマスコミに、感謝などしたことがない。

 彼はそもそもマスメディアという媒体に、必要悪以上の存在価値を認めていないからだ。

 そしてその必要悪の悪辣さ加減は、どんどんと増しているようにも思える。

 ともあれ新聞記者たちは、直史の殿堂入り選考の開始することとなった。




「いや、いらないんだが?」

 根本的に彼らは勘違いしていた。

「殿堂入りなんかしてもわざわざアメリカに行こうとか思わないし」

『でしょうね』

 電話で意思確認をしてきたセイバーに、直史は率直に言った。

 娘はちょっとした反抗期に入り、息子は頭はいいながらもやたらと厭世的。

 乳幼児期にあまり育児に参加していなかった直史は、仕事と育児で今は大忙しなのである。


 復帰の目途は充分あったのに、引退を宣言した。

 それは確かに年齢的な面や、リハビリのことも関係していた。

 だが充分な報酬を得て、次の仕事も見つかっていて、そしてそろそろ子供たちとの時間もほしい。

 直史は正直なところでは、本当に正直なことを言う人間だった。

 家族との時間を持ちたいというのは、完全に本心からのものであった。


 言動に注意したのは日本のマスコミ以上に、アメリカのマスコミはエリート意識が強いから。

 パパラッチのような人間もいて、そういうものに対抗するには、アメリカの良心が必要だった。

 強い正義感を持つアメリカの良心を、直史は心の底から軽蔑している。

『けれど穏当に辞退したいでしょ?』

「そうだなあ……」

 直史としても、無駄に波風は立てたくない。

「確か普通の基準ではなく、もう一つ何か基準があったでしょ。そちらで選んでもらえれば?」

『じゃあそうしておくわね』

 これで直史は、事態は収拾したと思った。


 ただアメリカにおいてはこの問題は、当人をよそに話し合われていた。

 直史の意思が伝わったときには既に、殿堂入りを認めるべきだ、という意思が圧倒的多数になっていたのだ。

 そこへ本人からのコメントがあり、直史は事実上の殿堂入り選手と認められる。 

 なんとも茶番であったな、と多くの選手が思ったものだ。


 ちなみにこの事態を見て、NPBにおいても野球殿堂入りの選考が行われる。

 式典に出席するにも、近いからという理由であっさりと受けた直史は、わずかなNPBのプロ生活と言うよりは、アマチュア時代の成績も加味して、殿堂入りが認められることになる。

 ただここで認められてしまったことが、後には少し困ったことになった。

 だがそれは直史も神ならざる身、この時点ではまだ分かっていなかったのである。

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