第22話 水上悟 おしえて先生さん その二

 金子千鶴は役者である。

 芸能界で戦うこと、そろそろ10年にもなる強者であるが、彼女にも危機が迫っていた。

 それは、子役としての賞味期限である。


 子供の役者には一定の需要はある。

 だがその役者生命は短い。

 大きくなればそのまま俳優になれるというものではない。

 子役と大人の俳優では、求められるものが違うのだ。


「金子千鶴って聞いたことあるなあ」

「はい、本名は金田千代子と申します」

 名前は知っていても顔を知らないあたり、悟も立派な野球廃人である。

 そして千鶴の言っていた試験というのは、それほどの間違いでもなかった。


 現在制作予定のほぼノンフィクション映画『甲子園の乙女たち』。

 女子高校野球を舞台にした、女子選手の活躍を描いたものである。

 スポーツを題材としたものなので、実際に動ける女の子がほしい、というわけでオーディションが成される。

 そんなの今時、合成なりスタントなりでどうにでもなりそうだが、確かに野球をやっていれば普段から、姿勢などが変わってくるし体型も変わる。

 そこまで体を作る必要があるかどうかは別として。


 現在は女子野球の全国大会も、決勝だけは甲子園球場で行われている。

 競争の激しさでは男子野球に及ばないが、それでも全国から二チームしか出場できないのだ。

 千鶴の狙っているのは権藤明日美役、つまり主人公役らしい。

「いや無理だって」

 思わず悟は素で言ってしまった。


 白富東の最強世代から、数人の主力は抜いたと言っても、権藤明日美擁する聖ミカエルは練習試合で勝ってしまっている。

 彼女が大学野球で投げているのは、悟も見ていた。

 甲子園に出場していたら、何回か勝ってもおかしくない。

 権藤明日美というのは、それぐらいのピッチャーである。

「そもそも本人が演じればいいんじゃないの?」

 もう大学を卒業している明日美だが、童顔なので高校生でも通じるだろう。

「明日美さんは他の仕事もしてますし、自分で自分を演じるのはむしろ難しいそうですから」

 そうなのか、と悟は門外漢なので、強引に納得することにした。

「それとあの」

 今更であるが千鶴は尋ねてきた。

「お兄さんの名前は」

「ああ、俺の名前も、知ってるだけは知ってるかもしれない。水上悟だ」

 パチパチと瞬きをする千鶴である。

「あの、本当の野球選手ですよね?」

「あ、知ってた? 嬉しいな」

「けっこうニュースで聞くんですけど」

 それは当たり前のことだろう。




 埼玉県にはジャガース以外にも、レックスとマリンズの選手寮がある。

 そういえば千鶴は芸能人であるのに、東京に住んでいないのか。

「実家が埼玉だから、充分に通えるんです。それに無条件で東京に部屋を取ってもらえるほどの人間じゃないんで」

 芸能界には全く詳しくない悟だが、確かに東京には電車一本で行けるな、とは思った。

 昭和の末頃までは普通に、電車通勤のプロ野球選手や、自転車通勤のプロ野球選手もいたらしい。

 寮の選手はさすがに、車に乗っていくものであるが。


 千鶴の言うところによると、確かに主役は難しいのかもしれない。

 だがオーディションで惜しいところまでいくなら、そこから他の役がもらえるかもしれない。

「ならまず憶えるのは、ピッチングじゃないね」

 そう、野球の基本はピッチングではない。

「キャッチボールだ」

 そもそもそのフォームが出来ていないのだ。


 千鶴は現在15歳で、この春からは東京の芸能科がある高校に通う予定だ。

 そちらには寮もあるため、この役が取れたら寮に入ることになるのかもしれない。

 二月になれば悟はキャンプに行く。

 そして戻ってきたときは、千鶴はもう東京に行っているのか。


 短期間に教えられることはそう多くない。

 だが野球経験者なら、それなりに周囲にいてもおかしくない気はするが。

「女の子が野球をするのを、変に思うらしいんです」

 それは、そうかもしれない。


 女子野球に関しては、日本は完全に世界一だ。

 その世界一というのが、そもそも権藤明日美の力による。

 今は後藤明日美と名乗っているが、昔からアスミンと呼ばれているところは変わらない。

 彼女の役をするなら、相当に動けないとまずいだろう。

 野球が出来るかどうかではなく、基礎的な身体能力が違うのだ。


 ただ肩の力がそもそも弱いのは仕方がないとして、千鶴はそれなりに野球経験者っぽい動きは出来るようになった。

 もともと体を動かすのは、演技の一環としてダンスなどは習っていたそうな。

 ならば体幹などはしっかりしているので、あとは腕を大きく使うことだ。

 胸を張って、背中の筋肉で投げる。

 腕の筋肉を増やすには、もう時間が全く足りていない。

 なので他の部分の筋肉を使って、ボールを投げる必要があるのだ。


 気が付けば一時間ほども時間は過ぎていたか。

 悟はまたの再会を約束して、寮への帰路に就く。

「うわ、速い……」

 その悟の走るスピードを見て、千鶴は素直に感心していた。




 ほぼ連日の特訓になった。

 自分の練習が完全にオフの時も、悟はランニングだけはしていた。

 そして無理のない程度に、千鶴に対して色々と教える。

 心がけたのは、怪我をしないこと。

 オーディションの前に怪我をすることより、無駄なことはない。

 実際に千鶴は硬球を使っていたが、実際にはゴムボールを使うという。

 これだけで故障のリスクは全く違う。


 そして一月の日々も過ぎていき、間もなく悟もキャンプに立つという日の朝。

「受かりました!」

「おお!」

 主役ではなかったが、チームメイトの役で千鶴は出番を勝ち取ったわけだ。

「それで、春からは東京に引っ越すことになりそうです」

「ああ、そうか」

 少し寂しくなる悟である。


 なぜ彼女にこんなに親身になって教えたのか。

 それはもちろん下心……ではない。

 そんなことになれば事案であるし、そもそもまだ相手が子供過ぎる。

 悟が思ったのは、まだ何者にでもなりえる彼女への、可能性の目映さ。

 自分はもう、プロの舞台でどこまでを上り詰めるかが問題になるだけだ。

 道はある。それをどこまで歩み続けるか。

 千鶴はこれから先、多くの選択肢に出会うのだろう。


「するともう、練習はいらないのかな?」

「あの……実技指導の人が入ってくれるんですけど、先生が教えてくれたことは、本当に重要なんだって分かりました」

 この役のためにここまでやってきたのか、と千鶴は言われたのだ。

 完全にそれは、悟のおかげであろう。

「だから先生がキャンプに入るあと一日、お願いします」

「分かった。……東京に行くなら、もうここで会うこともなくなるなあ」

「ですけどこれ、お願いします!」

 練習の合間に、悟は色々と野球関連のことを話していた。

 なので交流戦の存在を、千鶴はもう知っている。


 各種のアドレスを記したメモを、悟は受け取った。

「それでまた分からないところがあったら、教えてほしいかなって」

 えへへ、と照れたように笑う千鶴に、悟は苦笑する。

「人に教えるのはいい練習になるしな。構わないよ」

 直接に会うことは、もう滅多になくなっていくだろう。

 悟は来年当たりはもう、ジャガースの寮を出る。

 するとこの道をランニングすることはない。 

 千鶴にしてもこの先は忙しくなる。いや、芸能人ならば忙しくなくてはいけない。

 そもそも埼玉に帰ることさえ、少なくなるのではないか。


 わずか一ヶ月もない、ほんの少しの交わり。

 だがこれもまた、人にとっての縁である。

「その内そっちも余裕が出来たら、合コンでもする? うちの若手の有望株とか引っ張っていくけど」

「いいですね! 私がお酒を飲めるようになったら、ぜひぜひ」

「まあ俺は酒飲まないけどね」

「なんですか」

 アルコールは脳に悪いと、信じている悟なのだ。




 人と人との交わりは、どちらかが切ってしまえば切れるものだ。

 だがどちらもがそれを望まなければ、いつかはまた巡り合う。

 そしてそれが未来となると、二人の関係性も変わっているのかもしれない。

 だがそれはまだ遠い未来の話。

 大きく輝く才能と、これから輝きだす才能。

 二人の先にどんな未来が待っているか。

 それはまだ誰も知らないことである。



×××



 次回の群雄伝は手塚になります。

 ただその前に完全に限定ノートで、第八章(嘘)の前日譚をします。

 こちらはパラレルの話なので、おそらく一般公開はされるとしても相当に先の話となります。

 限定ノートでの発表は本日から数日以内に行います。

 5000文字以内の短編となる予定です。


 登場人物

 真琴……言わずと知れた魔王の娘()。三橋シニアにてエースとして活躍。

 聖子……三橋シニアのショート。真琴と共にゴリラと言われる美少女。

 和真……聖子の一個下の幼馴染で、鷺北シニアの主砲。

 明史……真琴の弟。聖子に可愛がられる参謀職。

 

 瑞希……言わずと知れた魔王の嫁()。真琴と明史の母。

 鬼塚……元プロ野球選手。三橋シニアのコーチ。少女たちに振り回される。

 鶴橋……元高校野球監督。三橋シニアの監督。喜寿を超えた妖怪。

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