第20話 海の舞姫
『大丈夫ですか?』
いつの間にか、眠り込んでしまったらしいジョセフは、慈愛に満ちたやさしい声と、そっと揺り動かすやさしい手に、目を開けた。
少しぼうっとする頭を振って見上げると、マレの少女が見下ろしていた。
ようやく、かけられた言葉が、マレ語だったと気づく。
よく見ると、
しかし、こんな少女だっただろうか?
なかなかに目鼻立ちの整った、高く売れそうな少女だとは思った。だが、女らしさとか色気などがどうにも足りない、自分のようなまともな男は相手にしないような、そんな娘だと思っていた。それが、今は全く印象が異なるのだ。
けぶるようなまつ毛の下の吸い込まれそうな翡翠の瞳は、月光にきらめき、ジョセフを支えるように触れる手や、仕草は艶めいていて、匂い立つような色香を感じさせる。
まるで夜の女神のようだ。
ジョセフはごくりと唾を飲み込む。
『こんなところで寝たら風邪をひいてしまいます』
そっと微笑むその表情と仕草は、なんと表現したらよいのだろうか?
慈愛に満ち溢れるその表情は、まるで、巫女や聖女のようなのに、体全体から立ち上る雰囲気は、女性としての魅力を存分に感じさせ、そのアンバランスさに、目が離せなくなる。
『ああ、ああ、そうだな』
ジョセフは、吸い込まれるように引き付けられ、マレの少女から目が離せない。
そして、彼の視線をつかんだまま、少女はふわりと立ち上がった。
つま先から、髪の動きまで、流れるようなその動作全てが美しかった。
もし彼に芸術の素養があったならばきっと、天上の女神の庭を額縁で切り取ったようだとでも、表現していたことだろう。
時間が止まったかのようなその一瞬の後、少女は舞うように振り返り、礼をとる。
『船にのせていただくお礼に、皆にマレの舞を披露したいのです。お聞き届けいただけないでしょうか?』
ジョセフは、その笑みに一も二もなくうなずく。
少女のその笑みは、舞台で輝きを増す、舞姫の笑みだった。
◇◇◇◇◇◇
バステトは、皇女である身分を明かし、ナディアとルル、イーサーに協力を要請した。彼らは驚きはしたが、協力に快諾してくれた。
ケイリッヒ人に対しては、舞と飲み物をふるまい、眠り薬で眠ってもらう。
マレ人に対しては、漕ぎ手として船をマレにつけてもらうよう説得する。
途中、力に任せて反発するものが出たら、ヴァルターが速やかに対応することになっている。
これが大まかな作戦だ。
甲板に即席の舞台が設けられ、ケイリッヒ人の船員たちは思い思いの場所に座る。
この船の船員は、ケイリッヒ人とマレ人がほぼ半数だが、マレ人は、ガレー船の漕ぎ手として別室にいるようで、今、この場へは来ていない。
舞と飲み物のふるまいは、ナディアとルル、バステトが行い、漕ぎ手の説得にはイーサーが向かった。
ナディアが歌と弓型のハープ、バステトは舞の準備をする。
ルルは、準備した酒樽に、ヴァルターの持っていた眠り薬を入れる。
バステトの衣装は、ルルの踊り子の衣装だ。透けた布が美しいが、神事の衣装よりも露出が高い。しかし、バステトは気に留めない。
女神に捧げる舞に求められるのは、美しさと信仰心だ。衣装に求められるのは、踊り手の美しさを引き立てること。女神様に美しく映ることが全てで、踊り手が自分をどう思うかなど、些末なことなのだ。
長い
バステトは、ナディアと視線をあわせて、合図を送りあう。
ナディアが、ハープの弦を、一音、響かせた。
ざわついていた船員たちが、静かになる。
ナディアが、ハープの弦を流れるようにはじき、そこに、鈴のような遠くまで響く声で音を重ねていく。
はじめの歌は街娘の恋をうたった恋歌だ。明るい、楽しげな曲で、皆が足踏みや手拍子をしたくなるような曲を、ナディアは、明るく、光に満ちるように歌い上げる。
このような曲で舞を踊ったことはバステトはないので、とても新鮮だった。
舞姫の舞は神への奉舞。
バステトは、女神さまに、何を捧げたいのかを考える。
そう、これは、人の恋とその喜びの歌。
女神さまに、人の生き生きとした恋を知ってもらい、恋を与えてくれた神への感謝を伝える舞にするのだ。
バステトはとん、と軽く地を蹴った。
軽やかにステップを踏みながら、舞台の端から端へと飛び回って、人々の目を奪う。
領巾の端をもって、遠くにふわりと投げ、それを急に引き戻し、離れた人の目線を引き付ける。
観客は、一瞬たりとも、バステトから目を離せない。
恋する乙女が織りなす、恋の楽しみ、喜び、感動。
そして、それを、女神さまに見てもらうための舞。
バステトは、舞台で恋する乙女だった。
しかし、街娘の恋は、舞姫の舞により、神への供物へと昇華されてしまった。
普段なら自然に巻き起こる手拍子や足踏みはなく、誰もが声もなく、街娘の恋を憧れの眼差しで見守っていた。
そして、街娘の恋は、終盤に癒しと鎮めの舞へ姿を変える。
眠り薬をのんだ上に、眠りを誘う癒しと鎮めの舞を見て、ケイリッヒ人の男たちは、次々に眠りに落ちていく。
『テトラ、ほんとに、舞姫様だった』
ルルは、呆然と呟き、舞姫の舞台をただ見つめることしかできなかった。
◇◇◇◇◇◇
『おい、どういうことだ!!』
『だから、皇女様がこの船でマレへ戻るのに、協力してほしいんだ』
『皇女様だあ? そんな嘘、どっから持ち出した? 誰も信じやしねえよ』
『兄貴、こいつら、船をのっとるつもりだ! 俺たちをケイリッヒの船員どもと戦わせようってか!? ああ?』
船倉に近い場所の一室、船の漕ぎ手たちの多くいる休憩所には、イーサーが説得に向かった。イーサーは、皇女様の命だと言えば、漕ぎ手たちが簡単に説得に応じると思っていたが、そう簡単ではなかった。
同じマレ人とはいえ、彼らは人身売買に手を出す者たちに雇われるような輩だ。何かしら後ろ暗いところがある者たちも多い。さらに、船の漕ぎ手を仕事にする、海の男たちだ。体が大きい、荒くれ者ばかりだった。
国外で楽曲を披露するような芸術家でもある歌劇団員と、犯罪者に雇われる労働者たちとでは、考え方も、何もかもが違っているのだ。
『皇女様は、今、上で、ケイリッヒの船員たちに舞を見せてる。あいつらは眠り薬で眠らせるし、それに皇女様の護衛もいる。だから、あんたたちがケイリッヒの奴らと戦うことにはなんねえよ』
イーサーは、必死になって説得する。
『ほんとに皇女様かよ。信じらんねえな。護衛は何人いるんだ』
『一人だよ。でも強いよ……多分』
イーサーは、ヴァルターが戦っている場面を見ていないので、語尾が多少弱くなってしまった。
マレの漕ぎ手たちは、それを聞くと目配せをしあって、にやりと笑う。
『ほんとに、皇女様がいるなら、俺達もお目にかかりたいってもんだよなあ』
イーサーは、彼らの雰囲気が緩んだのを見てほっとした。
『皇女様も、あんた達にきちんとお願いしたいって言ってた。だから、上に来いよ』
船倉から甲板へとマレの漕ぎ手たちが、次々と上がってくる。
甲板では、ちょうど曲と舞が途切れたところだった。
ルルが、同じマレ人の男たちと、イーサーをみて、交渉がうまくいったのを感じとって小走りに近づいていく。
『おお、ほんとうに眠らせちまったんだな。すごいなーお前ら』
眠ってしまったケイリッヒの船員たちを見ると、先頭にいた漕ぎ手の男は、大仰に驚いて見せた。
『お前ら、奴らが起きださないうちに縛っちまえ』
漕ぎ手のマレの男たちは、甲板で眠りこけた船員たちを手慣れた動作で縛り上げていく。
それを見て、ナディア達は皆、ほっとしたように、肩の力を抜いた。
その時だった。
『きゃー!』
突然男が、そばにいたルルの腕をひねり上げた。
イーサーは殴られて床にうずくまる。
『お前らも動くなよ。この船は俺たちがいただく。お前らも一緒に売り払って、俺たちが金を手に入れる!』
それまで、舞台の端で静かに成り行きを見守っていたバステトは、ゆっくりと舞台の中央へと歩を進めた。
『おい、動くなって言っただろ』
バステトはかまわず、舞台の中央に来ると、シャン、とシストラムを響かせた。
周りを睥睨するように、ゆっくりと見まわす。
静謐な空気が場を支配していくのを、皆が感じていた。
『っ、おい!』
シャン、とシストラムの音が響き、男の言葉を封じると、バステトは、ゆっくりと舞い始めた。
同じ踊り手の、同じ体から紡がれる、同じ技量による舞。
しかし、先ほどの舞とは明らか違うそれに、ナディア達も息をのむ。
バステトの腕が、指が、一つ動きを紡ぐたびに、皆、縛られ動けなくなっていく。
バステトの身に宿る何かが、そうさせていくのだ。
それは、マレの人々なら誰もが目にしたことがある神事の舞。
穢れを払う、浄めの舞だった。
身に宿る罪を浄め、祓い、祝福を授ける。
街にいる舞手の誰もが踊ることのできる、見慣れた舞。
しかし、それがなぜか男たちの声を奪い、動きを縛りあげていくのだ。
神事の舞は、舞自体が古代より受け継がれた型により、浄め、癒し、祓い、加護、祝福、様々な効果をもつ。
そして、舞姫の舞は、その効果があり得ないほどに大きい。
舞姫が神に捧げる舞には、神が降りると、人々に語られることになった所以だった。
知らず、涙をこぼし地面にうずくまる男たちを前に、バステトはゆっくりと舞を納める。
こうして、バステトはこの船を掌握したのだった。
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