第16話 決別
マレ皇国皇都ハシュール。
砂岩から削り出して作られたというこの皇都は、背後の山岳地帯と、切り出した壁が天然の要害となっており、守るに易く攻めるに難い都である。
この皇都内でも二週間前、軍の駐留分隊が決起したが、ほどなく皇都の首都警備隊と近衛兵とに鎮圧された。
皇都の治安を守る首都警備隊は、軍とは完全に別組織で皇帝の傘下にある。皇宮を守る近衛兵隊と共にマレ軍の鎮圧に動き、数で大きく圧倒することができたためである。
しかし、国としての状況は芳しくない。この1週間のうちに、次々と付近の都市は軍に占拠されていき、軍は、ついに皇都の隣の都市ミニヤにまで手を広げた。皇都ハシュールは、近隣の状況を鑑み数日前からやむなく封鎖されるに至ったのである。
こうなる事態を見越し、直前に食料を可能な限り搬入し、希望する民間人は脱出させたが、それでも、籠城可能な期間がわずかに伸びただけである。陥落は時間の問題であった。
マレ皇帝アブドゥル三世は、網の目のように引かれた小川を中心に趣向を凝らされた庭園を見て、そっと息をついた。この小川は、皇都裏の山岳地帯から流れこむ地下水路、カナートから引き込んでおり、常に豊かな水量と冷たさを保っていた。この美しい庭が、戦火や略奪に荒れる姿を想像すると胸が痛む。
アブドゥル三世は、これから、宰相・大臣らが参加する今後の対策を決める会合に向かうところだ。
後宮に住まう者たちは皇都から出したかったが、どこまで軍の手が及んでいるかわからない今、人質に取られる懸念の方が強く、外に出せなかった。それを思うと、皇女バステトをケイリッヒという安全な場所に逃がせていたことは、僥倖だった。
アブドゥル三世は、皇女バステトをケイリッヒに送り出す際に王太子ルークとした約束を思い出す。
義父からの結婚までの試練、とはしたが、もとより無理難題なことは承知していたし、本気で期待していたわけではなかった。しかし、あの若者は不可能を可能としてしまうような、期待させるような何かを持っていた。
『間に合わなかったか』
『いえ、間に合わせますよ』
胸の内から思わず漏れた独り言に、背後から返答が返される。若々しい明るい声音だ。知らぬ声だが、その人物に心当たりはある。
アブドゥル三世は、振り向かずに、立ち止まった。
いつの間にか、付き従っていたはずの護衛の姿はない。
『久しぶりだね。皇帝陛下』
『あの時の
このようなことができる実力者は、他に思い当たらない。
皇帝は、若き王太子との対面時に目の当たりにした影の騎士の実力を思い出す。あの時、あの部屋にいた精鋭の護衛4人は、声を出すこともなく、一瞬で気絶させられていた。
『王子から伝言だよ。『持ちこたえろ。応援は、必ず出す。ルーク=フォン=ケイリッヒは、必ず約束を果たす』だってさ』
『……心強い婿殿だ』
『ま、任せときなって。あの王子腹黒だけど、結構優秀だからさ。あと、姫さん本気で大事にしてるからさ』
皇帝としてだけではなく、父としての自分への気遣いが含まれているその言葉は、心を軽くするものだった。
『それからさ、この機会に、姫様と王子の結婚に対しての好感度上げときたいんだって。あれでしょ、姫様がマレの舞姫だってばれた途端、ケイリッヒにマレの至宝が奪われた、なんて騒いでるやつらがいるんだっけ?ケイリッヒが動いてること大々的にアピールして、そんな考え吹っ飛んじゃうくらいケイリッヒの好感度上げといてよ』
影の騎士は、言いたいことだけを言うと、姿を消してしまったようだった。
非常時にこそ、軽口が安堵をもたらす。
皇帝は心強い支えを得て、笑いを漏らしながら、先ほどより心なしか背筋を伸ばし、会合へと向かった。
◇◇◇◇◇◇
その夜、ベッドに転がって眠れない夜を過ごしていたバステトは、窓をたたく音に顔を上げる。
学園寮の特別棟の2階にバステトの部屋はある。実は、昨年までルークの部屋が3階にあったため、窓を伝って夜に訪問があるのは、珍しいことではなかったのだ。
窓のたたき方は、ルークのものだ。
バステトは、起き上がると、窓に駆けよった。
バルコニーにつながる大きな掃き出し窓を開けると、そこには、月を背に受けて、バルコニーの手すりにもたれて立つルークがいた。
月の光を受けて、ルークの淡い金髪が仄かに光を返す。
逆光なのに、細められた浅葱色の瞳は、光を放ってバステトの方を見つめていた。
「バステト」
ルークは、近づいてこない。
まるで、バステトの全身を目に焼き付けるような、その視線だけがバステトに届いた。
『僕の黒猫』
ルークは、甘くささやきかける。
月光を背に受けたその姿は、まるでおとぎ話の主人公のようだ。
美しく、幻想的で、そして、儚い。
バステトは、一歩ずつ、視線に導かれるように近づいた。
「ルーク」
会いたかった。ただ、会って声をきいて、そして、話をしたかった。
こんなにも、会いたくて。姿を見ただけで胸が痛くなって、泣きたくなった。
ルークは、たどり着いたバステトをそっとだきしめる。バステトは、ルークの胸に、すがるように顔をうずめた。
「今夜、発つ」
その言葉に、バステトは、ルークが旅装であることに気づいた。
「マレへ、行くの?」
顔を跳ね上げたバステトに、ルークは微笑んだ。
「私も、連れてって」
ルークは、首を振った。
「皇都は今、封鎖されている。軍がすぐ近くまで来ているらしい。戦場になる可能性が高い」
「私は、何もできないの?マレの事なのに!私の祖国なのに」
昂る感情に涙がにじんでくる。
何もできない自分が情けない。
「できることはあるよ」
ルークは、浅葱色の瞳に優しい光をたたえてバステトを見下ろした。
「舞を」
「この件が落ち着いたら、マレの民に、またバステトの舞を見せてやるといい。君の舞は特別だから。人を虜にし、人を勇気づけ、人を優しくし、人を満たす」
落ち着いたら……それは、今はできることがないと言われているようで、また涙がでた。
「ん、わかった。練習する」
嗚咽を抑えながら、ルークに告げた。
それ以外に答えようがなかった。
ルークは正しい。それは、確かにバステトにできることだから。
「信じて、待っていてほしい。必ず、君が幸せになれる道を勝ち取る」
ルークは、バステトの眦に唇を落とす。
「涙をとめるおまじないだよ」
ルークは、最近お気に入りのサクールの飴玉を口に含むと、バステトの肩に手をかけて、口づけた。しみこむような甘さが、口から全身に回る。この飴玉をもらうと、バステトは何も考えられなくなる。
気が付いたときには、ルークの姿はどこにもなかった。
◇◇◇◇◇◇
その後、ルークが王の許可なく消えたとの話題で、王宮がもちきりになっていた。
バステトの所にも近衛兵が聞き取りに来たが、バステトは、ルークとの会話を伝えることしかできなかった。
ミケーネも同時に姿を消した。ルークについて行ったのかもしれない。
ルークは、おそらくバステトのために、マレのために、できることをしに行ってくれたのだ。
国の意図に反して。
血の誓約の相手であり、婚約者である、バステトの故国のために。
誠実なルークは、血の誓約を結んだバステトのために、そこまでしてくれているのに、自分の故国なのに、何もできない自分が、バステトは、情けなくてひどくもどかしかった。
そして、もう一つ、情けなく思うことがある。
あの時、ルークはただ待つようにと告げて、バステトに、何も語らなかった。ハサンのことを、告げなかった。わざと告げなかったんだと、そのくらいは気づいた。
バステトが愚かだから、ルークは色々なことを教えないのかもしれない。それは、信頼されていないということなんだろう。
でも、なぜ信頼してくれないのだ、何も告げてくれないのだ、とはどうしても思えなかった。
ルークが悪いのではなく、それは、バステト自身が、愚かで、足りないからだ。
ここ数日、ずっと考えていた。
このままでいいのだろうか?
バステトは何もできないまま。ハサンのことも何もわからないまま。
全てをルークに任せて、悲しんで、たただ待っているだけ。
そんな自分でいいのだろうか?
これから先、そんな自分に胸をはって生きられるんだろうか?
そんな自分は、これから先、ルークの信頼を得られるようになるんだろうか?
ルークは、自分のできることをしに行った。
バステトも、自分にできることをするべきなんじゃないだろうか?
できること。バステトが、胸を張って誇れることは何だろう?
一つは、舞だ。
ルークが言ったように、バステトの舞は民を勇気づけられるはずだ。民の心を癒せるはずだ。
もう一つは、ハサンと共に長い時間を過ごしたことだ。
ハサンとバステトが一緒に過ごした時間は、真実だと思う。
姉弟のように過ごした暖かい日々は、嘘じゃなかった。
だから、そんなバステトの言葉になら、ハサンは耳を傾けてくれるのではないだろうか。
正直、ハサンと何を話せばいいかはわからない。
争いを、クーデターをやめるように言うべきなのだろうが、それは、政治がわからないバステトなんかが、とても言えることではない。
でも、ハサンときちんと話して向き合いたいのだ。
ハサンがバステトの事で苦しんだのなら、それを知りたい。知って向き合いたい。
そして、バステトも、ハサンに、バステトの気持ちを知ってほしい。
バステトにも、できることがある。
でも、それは安全に守られたこの場所でではない。
――バステトも、マレに入る。
バステトも心を決めて、前に踏み出すべく、向くべき方向を決めたのだった。
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