婚約破棄間近の婚約者が、記憶をなくしました

瀬里

第一部

第1話 砂漠の国の皇女と腹黒王子



 その日、砂漠の国マレから留学に来ていた第13皇女バステトは、とうとうやらかしてしまった。


 バステトの婚約者である王子ルークが、好意を寄せているという子爵令嬢を、池に突き落とそうとしたのだ。


 しかし、池には彼女をかばった王子が落ちることになってしまい、更に王子は、池のモニュメントに頭をぶつけて怪我を負ってしまった。


 ――そして、ケイリッヒ王国の第一王子にして王太子、国民に絶大な人気を誇る、朱金の髪と浅葱色の瞳を持つ美貌の王子ルークは、あろうことか記憶喪失になってしまったのである。



  ◇◇◇◇◇◇



 バステト皇女は、古い歴史を持つ、資源豊かな砂漠の国マレの第13皇女。

 マレとは海を挟んだ対岸にある大陸有数の大国、森と湖と古城が美しいケイリッヒ王国の王立学園に留学中だ。


 王立学園は、15歳から18歳の主に貴族の子女を預かる3年間の全寮制の学校だ。バステト皇女も15歳でこの学園の1年生に入学した。

 もちろん、伝統あるこの学園では、他国の王族、皇族が留学生として入学することは多い。その場合は、慣例として、王族や皇族の側近くに仕える者を同時期に何人か入学させて、学園生活のサポートをさせることになっている。

 しかし、この皇女は違った。側近くに仕える者を誰一人連れてこなかったばかりか、通訳の侍女まであらぬ理由をつけて、入学してすぐに故国に送り返してしまったのだ。


 マレ語は、ケイリッヒで話せるものはほとんどいない。大陸公用語となっているケイリッヒ語を話すのが普通だからだ。やむなく、3年生に在籍している語学堪能な王子ルークが、バステト皇女の通訳を務める事態と相成った。


 国民に絶大な人気を誇る王太子を侍らせ、生活の全般まで事細かに侍従のように面倒をみさせる皇女に、好意を覚える者などいようはずがない。


 更には、時を置かず、この皇女は、国の権力を使って王太子と婚約を結んでしまったのだ。


 マレのわがまま皇女が、見目麗しく優秀なこの国の王子に婚約を無理強いしたことや、婚約した後は王子にべったりとまとわりついて振り回す様に、学園の生徒は皆、日増しに不快感を募らせていった。

 言葉も不自由で礼儀もなっていないバステト皇女を、周囲の生徒達は皆、何かあったらすぐにでも婚約破棄させて、国にたたき返してやりたいとすら考えていたのである。


 そして、そんな中この事件は起きてしまった。



  ◇◇◇◇◇◇



「わたし、あやまる、したい」


 そこは、学園寮の王族専用の棟、王太子ルークの住まう3階への入り口だ。階段を上った先にあるフロアの入り口は、大きな扉になっており、ここには常時人がたち、出入りを制限している。

 小麦色の肌に黒髪・翠眼のエキゾチックな顔立ちをした小柄な少女は、真剣な面持ちで、王子の部屋付きのメイドに、片言で話しかけた。

 学園の白い制服の端を握り締めて必死に伝えようとするその様は、憐憫を誘うものであったが、しかし、厳しい顔つきをしたメイドはにべもない。


「王太子殿下はお休み中です。どうぞ、お帰りください」


 あの事件があってから数日、バステトは、何度も王太子に謝りたいと、こうして足を運んでいる。

 そんなつもりがなかったとはいえ、バステトには迷惑をかけた自覚はある。

 きちんと謝って、誠意を見せるべきだと思ったのだ。


 それに、告げたいことがあるのだ。


「話、婚約、お願い」


「まあ、厚かましい。殿下をこんな目に合わせて、婚約など続けられると思っているのかしら?追って王宮から沙汰があるでしょう。それまでお待ちくださいませ」


 メイドは、厳しい顔つきをさらに険のあるものに変えて色々言っているようだが、バステトには早口だとわからない。


「もう一度、お願い」


「王太子殿下はお休み中です。どうぞ、お帰りください」


 直前に早口で言っていた言葉とは違う。

 さっきのは悪口だったのだ。それぐらいわかる。


『もういい加減にしてほしい! お前たちの言う通り、婚約破棄してやると言いに来たのだ! 通してくれてもいいではないか!』


 カチンときたバステトがマレの言葉で叫ぶと、メイドの背後であるフロアの奥、王子の部屋の入り口を守っていた大柄のいかつい近衛が近づいてくる。


 バステトは、怖くなって、きゅっと口を結ぶとくるりと背を向けて王太子の部屋のあるフロアを後にした。



  ◇◇◇◇◇◇



 バステトがケイリッヒに留学に来て、半年が経った。


 もう、何もかもがうまくいかない。


 一番大きな問題は言葉の壁だ。

 この留学は急に決まったため、バステトはケイリッヒの言葉の勉強が全くと言っていいほど出来なかった。


 マレの言葉は、この国では話せるものがほとんどいない。

 王太子のルークと通訳の侍女くらいのものだ。

 けれど、通訳の侍女は体調を崩して、バステトが言葉を覚える前に一か月で国に帰ってしまった。今では、バステトには侍女が付いておらず、食事、洗濯、掃除にくるメイドがいるだけだ。


『代わりの通訳を立てるから少し待って。それまで、僕が君の生活の面倒をみるよ』

 と、きれいなマレ語で話すルークの言葉を信じて頼ってしまったのが運の尽きだった。


 絶対、あの腹黒王子が何かしてたんだ!

 今になってみればそう思うが、当時、頼る者のいなかったバステトはルークに依存してしまった。

 毎日の授業の準備や課題の提示、教室の移動、カフェテリアでの毎日の食事の手配。

 マレでは、皇族は学校に通わない。学校自体が初めての経験な上に、言葉もわからない異国の学校だ。

 失敗を繰り返しては落ち込むバステトを、ルークは慰め、フォローする。優しい王子に、バステトはすっかり心を委ねてしまった。

 ルークに与えられるものを素直に受け取りすぎたのだ。裏に隠された真意に気づかずに。


 そして、王子の側にいて、失敗しては王子を振り回し、王子に与えられるものを当然のように受け取るバステトに、周りの見る目や当たりは日に日に厳しくなっていった。


 更に、婚約者だと周知されてからは、もう、針の筵だった。


 そして、あっという間にバステトは孤立して、ルーク以外、話す相手がいなくなってしまっていた。




 そもそも、婚約自体、なんでそうなったのだかさっぱりわからない。


 バステトはずっと、留学を終える18歳になったらマレに帰って、3歳年下の従弟ハサンと婚約するのだと思っていた。

 弟のようなかわいいハサンとバステトは、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた。いつか二人は婚約するのだと、周りの誰もがそのように思っていたに違いない。

 ハサンは、バステトが留学にいく日にも姉さま!とかわいい声で見送りに来てくれたのだ。


 それなのに、ケイリッヒに留学後すぐに王国の王太子と婚約。

 言葉もまだ不自由で状況もつかめぬまま、あれよあれよといううちに決まってしまったのだ。


 皇族の婚約は、国の事情ではあるが、マレとケイリッヒは、現在それなりに良好な関係である。今更二国間の結びつきを強化する必要などないはずだ。


 おまけにこの国の者たちは王太子妃に異国人であるバステトを受け入れる気などさらさらないのは、火を見るより明らかだ。

 とてもでないが、こんな国にはいられない。


 この婚約は、解消しても政治的に何も問題ないし、バステト自身もそれを望んでいる。ルークだって、似たようなものだろう。きっと困っているに違いない。こんなにも国民に嫌われる王太子妃など、将来、国をまとめていく上でマイナスにしかならないはずだ。


 このやさしい王子様ならきっとわかってくれるだろう。

 むしろ喜ばれるに違いない。


 そして、そんな不安と困惑の中、唯一マレの言葉を話せるルークに気持ちを打ちあけたところ、ルークは本性をあらわし始めたのだ。



『君、馬鹿なの? 婚約解消なんてできるわけないでしょ。国が決めた婚約だよ?』


 聞き間違えたのかと思った。

 きれいな微笑みで辛辣な言葉を吐くルークに、最初、何を言われたのかわからなかった。

 でもケイリッヒ語ではない。ルークが話しているのはマレ語だ。

 首が自然に右にかしいでしまう。

 

「ルーク?」

 

『いい加減、気づいたら? 黒猫ちゃん。そのかわいい頭の中も猫みたいなのかな? わかりやすく言うとね、君は、僕と一生一緒にいるしかないんだよ。かわいいかわいい婚約者殿』


 言われていることを理解したバステトは、あまりの馬鹿にされように、相手が王子様だということも、ここが人がたくさん集まっているカフェテリアだということも忘れて、大声で叫んでしまった。


『な、なんなのだ!? 人のこと馬鹿にして!』


「困った婚約者殿だなあ。ほら、すねないで。今日はどうしても公務があって外せないんだ。あとで、お詫びに部屋に花を贈るよ」


 ケイリッヒ語でやさしい物言いで何かを言われる。

 何を言っているかはわからないが、多分、さらっと無視された。

 馬鹿にされているのだ。

 屈辱だ。

 今までこんな扱いを受けたことはない。

 こんなときどう対応したらよいかなんてわからない。


「ば、ばかー!」

 仕方なく、唯一覚えたケイリッヒ語の悪口を叫んだ。




 それからというものはひどかった。


『この腹黒王子! お前のような性悪と結婚なんてお断りだ! 私は国に帰る。早く婚約破棄するがいい! この性悪腹黒えせ王子!』

 バステトが汚い言葉で罵ってもルークは、魅力的な王子様スマイルでにっこりと微笑んで、柳のようにさらりと受け流す。


『さすがに、そんな汚いマレ語は僕でもわからないなあ』


「さあ、ケイリッヒ語でゆっくり言ってごらん?」

「ルーク! ばか! こんやく! いや! わたし、かえる!」

「僕の気を引きたいからって、そんなこと言うのは、どうかと思うよ」


 かっとなるあまり周りが見えず、つっかかってしまったのは反省している。

 いや、今にして思えば全て腹黒王子の作戦だったのだ。

 いつのまにか、我儘な皇女が王子にべたぼれのあまり国の権力を用いて婚約者になり、べったりとまとわりついてルークを振り回す、そんな悪役令嬢ができあがっていた。


『違う! 気なんか引いてない! 今、お前、勝手に話作っただろう! 嘘つき王子!』


 にこにこ笑って、わざわざ人前で、バステトに恥をかかせる。

 バステトにはわかる。

 この王子、黒も黒、腹の中どころか、頭の中から、足の先まで真っ黒だ。

 あんなのが人気の王子様だなんて、この国はどうかしている。


「皆、気にしないでくれ。婚約者殿は、可愛らしいわがままを言っているだけだからね」

 ルークは、周りに向けて、手を振る。


『また、絶対変なこと言っただろう! 皆変な目でみている』

『ああ、黒猫ちゃん。君がかわいいって言ったんだよ。あとは、君がいかに僕に惚れ込んでるかって話を皆に知ってもらったんだ』

『惚れてない!』

「仕方ないなあ。今日は予定を変更して放課後君の用事につきあうことにするよ」

『今のはわかった!! 私は、何も頼んでない!勝手に用事を入れるな!』

『これも君のためなんだよ、黒猫ちゃん。少しでも長い時間一緒にいてお互いの理解を深めるべきだと思わないかい?何せ僕たちは婚約者同士なんだから』

『……!!』


もう言葉が出てこない。

 あんな腹黒なんかごめんだ。

 かわいい、癒しのかたまりのハサンが、国には待っているのだ。


 バステトは、どうにかこの婚約を破棄しようと日夜奮闘中だった。



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