信仰と神の話1
船は何事もなくスカイウスに到着した。
観測者たちが去ってのち、アッシュの変化はさらに進んだ。それは何も感覚だけの話ではない。
「本当に、痛みや違和感はないんですね?」
もう何度目になるかわからぬ確認をし、エルは彼の顔からそっと指を離した。神官でもある彼は、一応まじないに通じる医術も修めてはいる。もっとも、それでも行き倒れたりはするのだが。
「ないなぁ。ってか、そんなに酷いのか?」
だいぶと酷いことになってますよ、という言葉をエルはすんでのところで飲み込んだ。
意思の疎通が出来るので忘れがちになるが、彼は自分の姿を見ることは出来ないのだ。どうやって外界の様子を認識しているのかは不明だが、少なくとも視覚がはたらいていないことだけは確からしい。
「ええ、まぁ……」
曖昧に言葉を濁し、エルは目を泳がせた。彼の顔から視線を外すが、赤黒く変色した胸に今度は目がいく。左胸を起点として広がる痣のようなそれは、ひどく不吉なもののようにエルの目には映るのだ。
あの男に言われたことが気にかかり、昨晩彼の身体を診た時はまだ掌ほどの大きさだった。
それが今は楕円状に広がり、右頬から左胸にかけてを焼け爛れたように変貌させている。すでに効力を失って炭化したようになった禁呪帯を変えながら、エルは溜息をもらした。
どうやらこの≪予言≫が生きていて、意思があるというのは真実なのだろう。そうして現実に影響を及ぼすほどの力を持っていることも。
そうでなければ、この早さでの変化はあり得ない。まるで見えない太刀で切り裂かれたような傷跡は、そのことを如実にエルに語っていた。
それに、アッシュ自身が己の変化に気づいていないことに、つくづく古の神々の性根の悪さが見えるようだった。
痛みや苦しみがないのは救いではない。いや、救いになることも確かにあるだろう。
けれど彼はいずれ自分がヒトでなくなることを知っている。それでいて、その変化を自分では知覚できないのだ。
真綿でジワジワと首を絞められるように、やがて来るあいつかを恐れなければいけない。
それにこの
ひどく蝕まれて赤黒くなった青年の身体に、エルはぶるりと肩をふるわす。そうして、まるで彼ごと呪いを封じるように強く強く布を巻いていく。
黙々と作業するエルを見上げていたが、アッシュは「そういえば」とのんびりと口を開いた。
「せっかくだから、スカイウスを見てきたらどうだ? 最後の港でもあるんだし」
まるで何かを仄めかすように告げられたその言葉。それが何を意味するのか、その時のエルには知りようもなかった。
スカイウスという国を一言で表すとしたら『賑やか』。もっと言葉を選ばないとしたら、『騒々しい』になるだろうか。
とにかく人で溢れている。南方から来たと思われる褐色肌の青年が見たこともない果物を売っていると思えば、極東の民族衣装を身に纏った一団が歌を披露している。
とにかく見ていて飽きることがない。ここ、ミラーバードが港町ということを差し引いても、大変な人の多さと種類だ。
だというのに――。
「憂鬱になりますね」
不機嫌そうに目を細めて吐き捨てたフィリアの手には、壁からむしり取られた手配書。乱暴な手つきでそれをエルに押し付け、彼女は皮肉げに唇を歪める。
「どこの世界にも欲深な者はいるのですね。外国の事情ではあっても、金になるなら関係はないなんて」
「この様子なら、すでにスカイウスの代表に話がいっているかもしれませんね」
乾いた笑いを浮かべてエルも相槌をうった。
今、彼はフィリアと一緒に船を降りて町を見て回っているところだ。アッシュの言葉が引っかかったというのも理由の1つだが、ふらりとやって来たフィリアが「一緒に買い出しについてきて下さい」と告げたのが1番大きな理由だ。
アッシュとクロスの方は、バドと共に出かけた。ここから北大陸の最南端であるディート岬へと行く船の手配のためだ。
岬からは徒歩の移動になる。防寒のための装備を含めた、今後の旅支度を整える必要があった。
エルがもっとも驚いていたのは、フィリアがそれらの事情を把握して自分からエルに声をかけたこと。そして、すでにエル以外の2人とは打ち合わせ済みだということだ。
隣を歩く少女を見下ろし、エルはしみじみと考える。
この旅で彼女は変わったと思う。
前までは必要最低限のことを言うくらいだったのに、声を上げることが多くなった。何より、目を見て話すようになった。
それに――微かに、本当に微かにだが口元を緩めることもある。
ぶっきらぼうではあるし、皮肉を言いながらではあるが、アッシュやクロスに手を貸すようにもなった。
ぎこちなくではあるが、歩み寄ろうとしている。
改めて宣言することはしないが、フィリアもまた覚悟を決めたのだろう。言葉ではなく、行動で彼女はそれを示そうとしている。
最後までついて行くと。付き合ってやると。
最初に会った時の人形のような彼女を知っているだけに、エルにとってその変化は喜ばしいもののはずだった。
だが、なぜかエルはその急激な変化に不安も覚えるのだ。まるで何かに急かされているかのような――このまま彼女がどこかへ行ってしまうような、不安。
「最近のあなたは、変わりましたね」
だから、ついそんなことを言ってしまった。唐突すぎるエルの言葉に、フィリアが足を止める。
「……おかしいですか?」
感情をなくしたような、人形のような声と顔。だが、今ならその下に透けて見える不安がわかる。
「やはり、私は不自然なのでしょうか」
真っ直ぐに前を向きながらも、その黒い瞳は揺らいでいた。エルが答えるより早く、フィリアは顔を下げることなく淡々と続ける。
「――神官殿は恐怖を感じたことはありますか?」
「え?」
「私は、最近まで知りませんでした。自分はいつ死んでも良いと。所詮は代用品でしかないと。己とは全の中の個であると。
次にこうも考えました。恐怖は弱者が抱くものであると。自分の中にはあってはいけないものであり、また、あると考えたくもありませんでした」
喋っている間、フィリアは1度もエルの顔を見なかった。意地のように前を向き続け、決して俯いたりもしなかった。まるで挑むように前方を見据えながら、彼女はその問いを投げる。
「こんなことを考える私は不要でしょうか?」
「いいえ」
エルは首を振った。考えるよりも先に言葉は出てきた。
「恐怖は誰でも持っている感情です。必要なものです」
「本当ですか?」
「本当です」
真顔で返し、それから彼女の不安をはらうように笑う。
「私にはあなたが必要ですよ。もちろん兵器としてではなく、ね」
エルがそう告げた時の彼女の表情を、なんと形容すればいいのだろう。まず浮かんだのは驚きで、その次に現れたのは紛れもない喜びの表情だった。
「それに、今のあなたは前よりずっと素敵ですよ」
「…………ありがとうございます」
フィリアは、ようやくエルの顔を見上げて目を細める。花が咲いたような微笑みに、エルもまた頷きを返した。
背後から声をかけられたのは、その直後だった。
「――エル?」
何度も聞いた声。耳に馴染んだ声。
振り返ったエルの目に、白と青の衣がひるがえる。
「……ファイ、様?」
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