大罪人と行き倒れⅡ+魔術師
「起きたかな?」
「だと良いんだがな」
近くで聞こえた二つの声に、彼は薄く目を開けた。
目を開け、そして後悔した。
どうやら自分は、ついに神の元に召されたらしい。
覗き込んでくる淡い水色と、漆黒の瞳。その持ち主である二人が、揃って人には見えなかったからである。
「――神よ」
呟き、再び目を閉じようとしたところで気が付いた。
天界なら、黒瞳の天使はいないはずである。
「………」
気を持ち直して、もう一度目を開けてみる。
見えるのは、自分の顔に影を落とすシゲガラミの大樹。夏になると大きな毛虫が目の前に落ちてきて、よく幼い弟や妹が泣いていた。というか、今は夏じゃないか。落ちてきたら嫌だなぁ……と、そこまで考えて目を瞬かせる。
やはり、自分は死んでいないらしい。
「……ここは?」
ふらふらと身を起こすと、先ほど自分に声をかけたらしい男女に問いかける。
どちらも目を瞠るほどに美しいが、浮かべている表情も身に着けているものも、よく見れば人のそれであった。
「おはよう。場所なら、街道から逸れてはいるが国境の近くなのは確かだ」
言いながら水を差し出してきたのは、黒い瞳をした青年だ。
「飲める?」
「あ、いや助けてもらったうえにそれは…」
「敬虔なのは感心するが、また倒れたら意味ないと思うぞ」
言うと、青年は彼の手に水入りの瓶を押し付けた。反射的に掴むと、するりと青年の手が離れる。実に見事な間の取り方であった。
「すみません。では、頂戴します」
深々と頭を下げ、彼は瓶に口をつける。ほのかな塩味のついた命の水が、身体の隅々まで染みわたっていくように感じ、ほう、と息をつく。
一息ついたところで、まだ命の恩人に名乗ってもいないことに気が付いた。
「ありがとうございます、おかげで助かりました。名乗るのが遅れましたが、私はエル・ザードと申します」
「どういたしまして。アッシュだ」
「私はクロスマリア。クロスでいい」
二人の名乗りに、再度エルは頭を下げた。
「ところで、なぜあんなところで倒れていた? 私達が通りかからなかったら確実に死んでいたぞ」
改めて、クロスが不思議そうに尋ねた。
はっきりとものを言うのが彼女の性格だが、事実そのままの言葉にエルは赤面して俯く。
「実は…迷ってまして」
「ほう」
「へぇ」
気のない返事をする二人に、エルは顔をあげて必死に弁明する。
「い、いえ、私だって何もないのに迷ったりしませんよ! 実はその…地図を騙しとられたんです。というか……その…地図だけでなくて……荷物ごと、なんですが」
後半になるにつれ、その声は段々と小さくなっていった。
——つまり彼はただの迷子ではなく、文無しの迷子ということになるのだろう。
「……あんた、とろいな」
思わずアッシュはそう言っていた。横のクロスもそれに頷く。
それにますますエルは俯いた。
長い睫毛に縁どられた翡翠の瞳が、羞恥のためか悲しさのためか伏せられる。穏やかといえば言葉は良いが、ぶっちゃけカモの匂いがぷんぷんする外見ではあった。
もしアッシュが盗人でも、やはり目をつけるだろう。
「私だって、最初はちゃんとジラの町から馬車に乗ったんですよ? でも、車中で意気投合した旅の方に、家に寄らないかと誘われて……。どのみち、次の馬車が町から出るのは翌日だしと甘えたのがいけなかったんです。ちょっと歩くけど、と言われて着いて行ったらどんどん人気が無くなっていって。そうしたら、急に立ち眩みがするから人を呼んできてほしいと。荷物は見ていてやるからと……!」
わなわなと手を振るわせ、エルは顔を覆った。何となく先は読めつつ、アッシュは頷いて先を促す。
「でも、こんな場所でしょう? 人はいないし、日は暮れるしで途方にくれて元の場所に戻ったら…………」
「荷物も相手もいなくなっていた、と」
トドメを刺したクロスに、目の縁を赤くしたエルは頷いた。
「元の場所には戻れなかったのか?」
「道とか全然覚えてなかったんですよ。今まで徒歩で旅なんてしたことないし、もうどっちが道なのか森なのか町なのか熊の巣なのか…」
「そういえば、さっき馬車で帰るって言ってたもんな。その分だと、こっちに来る時も?」
「はい、早急に書簡を届けるという用事だったもので。…帰路だったのがまだ幸いでした」
「うん。というか、命があって良かったな」
大真面目に言ったアッシュの言葉に、エルの顔が青ざめた。どうも、その可能性は考えていなかったらしい。クロスがさらりと続ける。
「確かに。殺されて身ぐるみ剥がされてても不思議じゃないぞ、お前」
「それはやっぱり、神罰が下りそうだからじゃないか? ゲン担ぎって言えば良いのかな。ああいう連中って、以外と信心深いんだよ」
「盗むのは良いのか」
「知るかよ。そこは箔がつく的な考えなんじゃないか?」
盛り上がる二人とは対象的に、エルの方は声もなく項垂れている。
放っておけば野垂れ死にそうな様子に、アッシュは少し迷った末に提案した。
「あんたにとっちゃ後戻りになるかもだけど、近くの町までなら一緒に来るか?」
驚いたようにエルが顔を上げた。同時に、クロスが「おい」と声を上げてアッシュの袖を引っ張って囁く。
「大丈夫なのか? もし途中で何かあったら」
「多分、大丈夫じゃないか。何しろ一緒にいるのはソレア教の神官——それも使いの帰りってことは、神殿の方もあいつの帰りを待ってるってことになる。ヘタに傷つけたりしたら、それこそソレア教を敵に回すことになりかねん」
先も述べたように、ソレア教は全大陸に支部をおくほどの大組織である。
普段は敬虔な信者達だが、こと魔術に関して言えば指折りの術者揃いだ。少なくとも、アッシュの知っているソレア教はそうだった。
それだけの力を持っているから、どこの組織にも属さず中立という立場を取れるのである。
現在イストムーンと交戦中のサザンダイズが、さらにソレア教と争うなどという危ない橋を渡るとは思えない。
「たしかにそうだが……もしもの時はどうするんだ?」
「………敵を殲滅後、すみやかにトンズラだな」
何とも緊張感にかけるセリフだが、それを大真面目な顔で言うアッシュに、クロスも大真面目に頷く。
「確かに、それしかないか」
そこで、何かを思い出したように口を尖らせる。
「しかし、私の時と違ってあっさり同行するんだな」
拗ねの入った口調に目を瞬かせたアッシュは、当然のように答えた。
「そりゃ、あんたがいるからな」
「どういう意味だ」
「俺一人じゃ、あいつらと戦いながら誰かを逃がすなんて出来そうにない。でも、あんたとなら大丈夫かなって」
思いもよらぬ言葉に、今度はクロスが驚く番だった。
固まってしまった彼女に先んじて、アッシュはエルへと向き直る。
「どうだろう? あんたが嫌なら、無理にとは言わないけど」
二人の内緒話を不思議そうに見ていたエルは、ぶんぶんと千切れるほどに首を振った。
「とんでもないです! むしろ、お願いですからご一緒させて下さい」
答え、感極まったように目頭を押さえる。
「丸裸になった時はもうこれまでかと覚悟を決めましたが、神は私を見捨てていなかった。こんなに親切な方々に出会えたことに感謝します」
「あ、いや……そこまで言われるのもどうかと。……というか、さっきの今であんまり簡単に人を信じるなよ。俺が悪人ならどうするんだ」
悪人どころか、もっとタチの悪いものである自覚があるアッシュとしては、笑顔を引きつらせるしかない。
「今の私を騙して何の得があるというんです。これ以上、奪われるものは何もありませんからね。それに、そんな私を助けてくれたあなたを信じなくてどうしますか」
堂々とエルは宣言した。
「短い間ですが、よろしくお願いします」
三たび頭を下げたエルは、にこりと笑った。
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