第2章 化け物の証明
さかしまの獅子
誰かが自分を呼んでいる。
懐かしい。とても懐かしい声なのに誰だか思いだせない。
白い霧のかかったような視界の中で誰かが立っていた。
きっとあそこに行けば、声の主の正体がわかる。
そう思い、彼女は走る。ただただ走る。
視界が開けた。
手を伸ばそうとした先にあったのは鉄の格子。
「———————」
格子の向こう側で、誰かが囁いた。
そこでクロスは目を開けた。
視界には、飴色の木で組まれた天井が広がっている。
簡素な机と棚。自分が寝ていた白く清潔なシーツの敷かれたベッド。
ゆるりと顔を巡らせれば、月明かりが差し込む窓。
「………」
全身にかいていた嫌な汗を拭い、身体を起こす。
今はいつだろうか。
窓を開ければ、夜の冷たい風が彼女の銀髪を揺らした。
見上げた月から察するに、まだ朝は遠い深夜のようである。
「…ざまぁないな」
自嘲的な笑みを浮かべてクロスは髪をかきあげた。
――あんたも俺を『化け物』って呼ぶか?
問いかけたアッシュの声が頭から離れない。
なぜ自分は、すぐに否定しなかったのだろう。
その問いに沈黙を返すことの残酷さは、誰よりも理解できたはずなのに。
「……やっぱり、駄目だ」
呟き、クロスは寝台から降りる。
やはり放っておくことは出来なかった。
それに、彼について行けばあのことが何かわかるかもしれない。
決意を固めてからの彼女の行動は早かった。手早く荷をまとめ直すと、部屋を後にする。
すでに夜中とあって、宿の人間達も寝静まっているようだ。
窓を開けると、ひやりとした風が頬を撫でた。昼間は暑いが、夜になるとこの地方の気温はぐっと低下する。
部屋は二階にあったが、壁石を足掛かりにすると、思ったよりもあっさりと外に出れた。
月明りの中クロスが足を運んだのは、夕方に崩れたばかりの教会跡だ。
騒ぎに気づいて見に来たであろう足跡が幾つもあったが、まだ現場は夕刻と大して変わっていない。
地面に染み付いた血の跡も、そっくりそのまま残っている。これこそ、彼女の探していたものだった。
その跡を指でそっとなぞり、クロスは周囲の魔零子へと意識を集中する。
集めるのは、『水』と『風』。そして『炎』と『地』を利用した『光』の魔零子だ。
通常、三つ以上の魔零子を同じ式に編みこむは不可能と言われている。
方向性の異なる魔零子の並列処理に、術師の脳が耐えきれないからである。
だが、彼女にすればさしたる問題では無かった。
いま必要なのは、血を見分けること。それを追い、道筋を可視化すること。
血は水に属し、風はあらゆる魔零子の中でもっとも遠くまで情報を追える。
光は、この暗い闇での道しるべだ。
彼女の想いに応え、ぽう、と大地の染みから淡い光が生まれる。
光はしばらくふよふよと彼女の周りを漂っていたが、やがて何かに引かれるように進路を変えた。
町を出た光は街道へは進まず、森へと入っていく。やがて光が止まったのは、木々の影にひっそりと隠れるようにして建つ小屋の前だ。
大きくはないが、しっかりとした作りなのだろう。ところどころ外壁が剥がれている以外は、目立った損傷はないようだった。
光を消し、クロスは扉に軽く拳を打ち付ける。トン、トン、と場違いなほど呑気なノックの音が響いた。
「……私だ。いるんだろう?」
返事はない。動き出す気配もない。
それでも彼女は言葉を紡ぐことを止めなかった。
「お前ほどの剣士だ。私しか近くにはいないことはわかっているだろう。入っても良いだろうか?」
目の前の扉は彼女を拒むように頑なに沈黙を守っている。
「お前はああ言ったが、気になったんだ」
トン、ともう一度だけ扉を叩く。やはり反応は返ってこない。
ここまで無視を決められては仕方ない、とクロスは諦めた。
許可を得て入ることを。
拳をおろし、代わりに錆びたドアノブを握る。
「もういい。——入るぞ」
それは問いではなく、確認。
ノブを回し、扉を押す。
予想に反して、軋んだ音を立てながらも扉はすんなりと開いた。
中から流れてきたのは、濃厚な血の匂い。
部屋の奥の暗がりでは、動く気力もないのか壁にもたれかかっている人影が一つ。
歩み寄ったクロスはその前にしゃがみ込んだ。
「色男が台無しだな」
アッシュの顔を覗き込んだ彼女の第一声がそれだった。
「………感想がそれって。あんたも存外、肝が太いな」
顔の半分が崩れていて表情はわかりにくいが、どうやら呆れられたらしい。「文句を言う気力も失せるぜ」と毒づく声が小さく響いた。
「本当のことを言ったまでだ。お前の顔は傍で鑑賞するには最高だと思うからな。そうぐちゃぐちゃになっては、勿体ないと思うに決まってるだろう」
「そりゃどうも」
投げやりに返し、青年は天井を見上げた。
普通の人間なら死んでいるその身体を眺め、クロスは本題に入る。
「お前は一体何者だ? 伝承に出てくる悪魔か。それとも神話に語られる精霊?」
「はっ、残念ながら外れ。……だったら、こんなザマにはなってないさ」
自嘲気味に笑った青年だったが、不意に笑みを消してクロスを見つめる。
「なぁ、これが最後だ。もう俺に関わるな。良いか? 俺とあんたは、たまたま行きあった他人同士だ。忘れろ」
「それで『はいそうですか』と引き下がるなら、わざわざ戻って来ると思うか?」
「知ったことか。もう関わるな、それがあんたの為だ」
噛み合わない会話。理由は簡単で、お互い引く気がないからである。
先に攻め手を変えたのはクロスの方だった。
「お前の手配書を見たぞ」
「そうかい。それで、俺をとっ捕まえに来たのか?」
アッシュの軽口にも応じず、クロスは真顔で確認する。
「お前を追っている大元はサザンダイズなんだろう? それなら丁度良いと思ってな。私も連れていけ。サザンダイズに接触したい」
アッシュが片眉を跳ね上げた。ちょうど良い、というには相手が大きすぎると言いたいのだろう。サザンダイズは、中央大陸を二分する大国の一つなのだ。
「それはまた、何でだ?」
「昨日も話したが、私には過去の記憶がない」
「そうだったな。何か手がかりでもあるのか?」
頷き、クロスは胸元に手を入れた。
「両親によると、私は拾われた時に妙なものを身につけていたそうだ」
彼女が引き出したのはペンダントだった。
華奢な金鎖の先には赤い宝石がついており、金銀で美しい浮彫が施された型に嵌め込まれている。デザイン自体は、どこにでもありふれているものだ。
問題は、そこに描かれている模様である。アッシュの顔が厳しくなった。
「太陽を頂いた獅子…だと?」
それは、紛れもないサザンダイズの紋章。
「あんた、記憶がないのは九年より前って言ってたな」
「そうだ」
「となると、拾われた時は十になるかならないかだろう……」
「だから妙だと言っている」
かの紋章を纏えるのは、近衛師団と一部の重鎮。そして王族だけだ。間違っても、小娘が持てるものではない。そんなことはクロスとて知っている。
「それに、色が違うな」
アッシュが顔をしかめた。
サザンダイズの紋章は、正式には『紺碧の空に黄金の太陽を頂いた白銀の獅子』である。だというのに、この宝石の色は深紅。獅子は漆黒ときている。何かの意図があるとしか思えなかった。
しかも、黒と赤はソレア教で禁忌とされている色だ。王族も敬虔な信徒であるサザンダイズが、そんな色に国の紋章をおくなどあり得ない。
「私の記憶も、これと何か関係があるのではないかと思う。だが、こんなものを簡単には見せれないだろう」
「そうだな。役人共に見せてみろ、王家侮辱で極刑もんだぜ」
「だから、正規の方法で探るわけにはいかないんだ」
アッシュが複雑な顔になった。
「だから連れて行けと? 危ないって言ってるのがわからないのか?」
「私は大抵の危険は自分で切り抜けられる。それに、紋章にしてもこの色だ。何かあるのは覚悟している」
「そりゃそうだが……」
言いかけ、アッシュは口をつぐんだ。その目が、不愉快そうに眇められる。
「……まったく、今日は客が多いな」
夜はよく音を通す。その中を、隠す様子もない足音が近づいてくることにクロスも遅れて気が付いた。とっさに近くにあった布を手にとる。
元はテーブルクロスか何かだったようで、薄汚れてはいるが、ひと一人くらいは優に包める大きさだ。
「何を…」
「喋るな」
早口に囁き、クロスは布をアッシュにかぶせる。
間一髪。彼の姿が隠れると同時に、ドアが外から蹴破られた。
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