北の大地に花束を
透峰 零
プロローグ 少年と罪人
少年は走っていた。
暗い夜の森。もちろん人などいようはずもない。
それでも、少年は止まるわけにはいかなかった。
(逃げないと……)
新緑の瞳に焦燥と恐怖をたたえ、少年は背後を振り返る。木々の間に揺れているのは、荒々しい足音と、大きな人影。
「はぁっ、はぁっ」
慣れない足場に足がもつれ、倒れそうになる。
息も上がり、心臓が止まりそうに脈打つ。
もう一度背後を振り返る。影は『少しだけ』距離をつめてきていた。
(遊ばれてる)
いくら少年が幼くても、異常さは十分に理解できた。
自分はまだ十歳にもなっていない子供である。それに——。
「にーちゃん、足痛い」
「だめだ」
「だってキキはおぶってもらってるじゃない」
「お前は男だろ。後で交代してやるから」
それに、一緒にいる妹と弟はまだ三歳なのだ。大人が一人も追いつけないなんて、そんなことはありえない。背負い紐が両肩を擦り、剥けた皮膚がじんじんと痛んだ。
「足痛いってさ。かっわいいねぇ」
後ろから、下卑た笑声と『おにーちゃんあしいたーい』という鼻声が上がった。
ギリ、と少年は奥歯を噛み締める。
相手はこちらが倒れるのを待っている。諦めて止まると思っているのだ。
(誰が……)
降参なんてするか——そう考えた時、視界が縦に流れた。
腕と足に力を入れて立ち上がろうとするが、どちらもまったく動かない。
まるで、身体が自分のものではないような妙な感覚を抱いたまま、少年は地面に倒れていた。
「……え?」
咄嗟に状況が理解できず、少年の口から間抜けな声が上がる。
だが、その理由は少年以外には明白だった。
どれだけ気丈に振る舞おうが、子供の体力など限られている。
さらに三歳児という『お荷物』と、慣れない暗い森。『追いかけられる』という精神的圧力を受けて、そう長い間走り続けられるはずがないのだ。
心の強さに関係無く、生きている限り肉体の限界は必ずくる。
倒れた少年の横で、彼の弟もまたくたくたと倒れた。
「けっこう粘ったな。楽しい鬼ごっこだったぜ」
木ずれの音とともに、少年を追っていた人影が姿を現す。
数は十人ほどだろうか。こんな夜更けに子供を追い回すだけあって、全員が堅気ではないと一目でわかる。
彼らがゆっくりと近づいて来るのを見ながら、少年が悔しさと共に目を瞑った時。
ガサリ、と新たな音がした。
「何だ。野盗か」
拍子抜けしたような声は、少年の右前方から上がった。
「何だよてめぇは」
野盗の苛ついた声に、少年は恐る恐る目を開いた。彼らの視線は自分ではなく、自分の右上方に注がれている。
「ただの通りすがり」
「はぁん?」
あっさり言った声はまだ若い。
少年からは、木々の影になっていて相手の姿はよく見えない。不自由な体勢から首を回して確認しようとしたが、その必要はなかった。
声の主が一歩踏み出す。
月の光に照らされ、その姿が闇の中に浮かび上がった。
その姿に、少年は状況も忘れてポカンと口を開けてしまっていた。
彼だけではない、敵意をむき出しにしていた野盗達も、残らず放心している。
出てきたのは、声を裏切らない若さの青年だった。
年頃は二十歳過ぎだろうか。少年や野盗が呆気にとられたのも無理はないほど、並外れて整った見目にまず目がいく。
顔立ちは甘く、一見するとむしろ優しく見えるほどだったが、雰囲気が違った。
抜き身の刃の鋭さだ。
微笑めば女性が目の色を変えるであろう端正な顔には、野生動物が持つしたたかさと猛々しさが宿っている。それでいてどこにも荒っぽさが見られない。静かすぎるほど静かだ。
ほとんど無意識に、少年は大きく喘いだ。
(夜の……精、霊……?)
黒がかった紺色の髪と、漆黒の瞳。着ている服まで黒づくめの姿は、まるで夜の化身のようだ。
銀の月を背景に従えた青年は、幼い少年の目には到底人間とは信じられなかった。
それぐらい美しかったのだ。
だが、さすがに野盗達は違う。一瞬の驚愕から立ち直ると、青年に舐めるような視線を送った。
「お前、なにもんだ?」
「さっきから言ってるだろ。ただの通りすがりだって」
顔色一つ変えず、飄々と青年は答える。よほど肝が据わっているのか、それとも状況がわかっていない馬鹿なのか。野盗達は後者と捉えたようだ。
「ふん、ただの通りすがりなら大人しく見物してろ」
「そこのガキどもがお前らに売られてくのをか? やるわけないだろ」
首領格らしい男の言葉に、青年は緊張感のないままで肩をすくめる。
男達が、ぎらついた目を青年に向けた。彼らは荒事に慣れている者に相応しい、雰囲気と体格だ。それも全員が武装している。
対する青年の方はといえば、腰にさげている長剣だけが武器らしい武器といえよう。
普通の長剣とは違い刃が反っているのが特徴と言えなくもないが、少年の目から見てもずいぶんと軽そうに見えた。
そして、青年の類まれな美貌は男達に『弱そう』と判断するには十分な材料なのだ。
首領の男の視線に応えて、一人が青年を捕まえようと手を伸ばした。
「ちょうど良い。少し歳は上だが……その見目ならお前も」
その先は言えなかった。
青年に触れるより前に、男の体が突然くずおれたのだ。
「なっ……」
青年は変わらずそこに立っている。
野盗達の驚きなど意に介さず、彼は足下に倒れ伏した男が持っていた長い棒を拾い上げる。
何度か感触を確かめるように手のうちで回し、小さく「使えるな」と呟いたのを少年は聞いた。
「てめぇ、何しやがった?!」
唾を飛ばしながら、さらに別の男が鼻息荒く青年に掴み掛かる。否、掴み掛かろうとした。
男が前に出ると同時、青年は棒を持った腕を軽く突き出す。
しっかりと構えたわけではない無造作な一突きだったが、効果は絶大だった。
「ぎゃあっ!」
悲鳴を上げた男は無様な恰好で後方に吹き飛ばされ、幾人かの仲間を巻き込んで倒れ込んだのだ。
くるりと棒を回し、脇に手挟む青年の手慣れた動きに、ようやく野盗達もただの優男でないと気づいたらしい。手にした武器を構え、緊張した面持ちで青年に相対する。
「ただの通りすがりからの最後の忠告。ここでさっさと退散しろ。じゃないと」
ざわり、と青年の周囲の空気がざわめく。少年には、暗闇の中でその体が倍に膨れ上がったように見えた。
「どうなっても文句は言うなよ?」
「……っくそ」
野盗達に相手の力量を判断できるだけの理性が残っていたのは幸いとしか言いようがなかっただろう。
続く青年の言葉を待たず、野盗達は仲間を抱えて踵を返した。
その気配が遠ざかり、完全にいなくなったのを確認して初めて、青年は倒れている少年に向き直った。
「おい、大丈夫か?」
少年には、まだ目の前で起こった一連の出来事が現実として信じられない。
命が危なくなった時に、この世のものとも思えない美しい人が現れて助けてくれる。
そんな都合の良い話があるはずがない。
それが、少年の短い生の中で学んだことである。
神様なんていないし、いたとしても皆が知らんぷりをするに決まっている。そう思っていたのに、なぜこの精霊はまだいるのだろう?
少年がそう思っていると、彼の背中で目を覚ましたらしい妹が小さな声で呟いた。
「……夜のかみさま」
その声が聞こえたのか青年はちょっと目を瞬かせると、何とも言えぬ顔で苦笑した。
「俺は神様みたいな大層な存在じゃない。……立てるか?」
最後の問いは少年に対してだった。
慌てて少年は立ち上がろうと、腕と足に力を入れる。が、実際には動けていない。
「あ……れ?」
腰が抜けたのか、ぺたんと座ったままの間抜けな格好で青年を見上げる。
「腰抜けたのか?」
その問いにはかろうじて首を横に振った。
「だ……大丈夫です」
そう言って立ち上がったが、足はガクガク震えている。
それでも妹を背負おうとする少年を制して、青年は妹を背中に、弟を右腕で抱えた。
幼児とはいえ二人もの人間を持っても、青年の姿勢はびくともしない。
意外と力があるのかもしれない。さすが神様。
「あの……」
「うん? あー、大丈夫。さらったりしないから。親のとこまで連れてってやるよ」
どうやら青年は、少年達を大人とはぐれてしまった迷子だと思っているらしい。
確かに普通ならこれくらいの子供が一人で旅などできるはずがない。
だが、少年は唇を噛み締めて首を横に振った。
「いません……もう」
「もう?」
黒衣をつかむ少年の手に、ぎゅっと力がこもった。
「さっきの奴らに…………みんな殺されちゃいました」
青年の目が驚きにわずかに見開かれる。
「おれ達は、小さいから何とか逃げれて。でも途中で気づかれて。………連れて行ってもらえるなら、みんなのところに連れて行って下さい。あのままになんて、とても」
あとは言葉にならなかった。力なく俯いたその肩に、ふわりと温かいものが触れる。
「悪かった」
右腕が塞がった不自由な姿勢ながら、青年の手が少年の頭をくしゃりと撫でた。
不思議な白い布が巻かれた手だった。いや、手だけではない。
よく見ると、肩口からも似たような布が覗いていた。白い生地に、気味悪い深紅の紋様が描かれている。それが、まるで青年を縛るように何重にも巻かれているのだ。
「無神経だったな。悪かった」
再びそう言った青年に、少年は腕から視線を離した。
「いえ……おれ達が逃げたんです。あの時一緒に戦っていれば」
少年の脳裏に、一緒に旅に連れてもらっていた商人達の無惨な死に様が蘇る。それに被さるように、別の映像も。
「おれ、弱いんです。もっと強くなりたい……父さん達が殺された時も何も出来なかった」
涙で顔をぐちゃぐちゃにして少年の独白は続く。
「もっと強くなりたい。なくしたくない、何で……何でだよ。いつも」
それは頼れる人を失った不安からであり、親しい人を喪った悲しさであり、己の非力さを不甲斐なく思う悔しさからの涙であった。
「それ以上強くならなくても良いさ」
泣き声をかみ殺す少年に、そんな言葉がかかる。
「今のままでもお前は十分強い」
「そんな慰め……いらないです」
頑な少年に、青年は立ち止まって少年に向き直った。
「慰めなんかじゃない。お前は、少なくともずっと妹と弟を守ってるじゃないか」
「でも……」
納得しない少年の前にしゃがみ込み、青年は厳しい顔を近づけた。
「でもじゃない。守るってのは難しいんだ。多分世界で一番難しいんだよ」
少年の手をとり、彼は言い聞かせるように続ける。
「お前はまだ小さい。お前の手はこんなにも小さい。誰かを守りたいという気持ちはとても尊いし、これからも持っていてほしい。でもな、誰かを守りたいからって無理な力を求めるな。自らの器以上の力を求めれば、そこには破滅が待っている。自分が後で後悔しないように、最善をつくせ。——大丈夫だ。誰かを守りたいっていう気持ちがあれば、結果はおのずとついてくる。だから、たとえどれだけ大切な人を失っても、その気持ちだけは忘れないでくれ」
真摯な顔と口調で語られる言葉に、少年は目を白黒させながらも頷く。それに青年は苦笑して立ち上がった。
「ちょっと難しかったかな。ま、覚えなくても良いけど」
「いえ」
新緑の瞳がまっすぐに青年を見上げる。
「忘れません。——忘れません。絶対に」
夜の精霊が自分にくれた言葉だ。忘れるものかと少年はかたく心に誓った。
「ありがとう」
なぜか精霊は優しく、でもとても悲しそうに微笑んだ。
それから、仲間達を埋葬した。
青年の手つきはとても慣れたもので、まるで何度もこうしたことをしてきたかのようだった。
穴を掘り、故人の胸元で手を重ね合わせる。来世でも太陽の加護を受けれるように。
大陸中で信仰されている、ソレア教の教えだ。
そうして弔いを済ませると、青年に導かれて森を進んだ。闇の中だというのに、この人には道と方向がちゃんとわかっているらしい。
辺りが白んでくる頃、大きな街道に辿り着いた。
「ここまで来たら後は次の町まで一本道だ。ちょっとキツいが、昼過ぎには見えてくるはずだから頑張れよ」
よっこらせ、と青年は弟と妹をおろして街道の先を指差した。
「その町に歌謡いの婆さんがいるはずだから、その人に会えば良い。婆さんとは思えないくらい綺麗な声だから、すぐわかる。『灰かぶりに言われて来ました』って言えば、うまいこと取りはからってくれるはずだ」
「『灰かぶり』……ですか?」
「そ、『灰かぶり』。あだ名みたいなもんだから、気にすんな」
にっこり笑って言われ、少年は頷く。
「何から何までありがとうございました。あの、おれに何かお礼出来ることはありませんか?」
大したことは出来ませんけど、と少年は慌てて付け足した。ちらちらと上目遣いに見てくる少年に、青年は顎に手をやりしばらく考える。
「お礼……そうだな、じゃあ一つ頼もうか」
「はっ、はい! 何ですか?」
ぱぁっと顔を輝かせる少年の前で青年は荷物を漁り出す。
やがて少年に手渡されたのは、一枚の使い古された布だった。黄色くて柔らかい布。
「これをさっき言ってた婆さんに渡してくれ。それから……『ありがとうございました』と『忘れて下さい』って伝えてくれないか」
布を受け取り、少年は素朴な疑問を投げかける。
「ご自分で伝えないんですか?」
訊いてから後悔した。
なぜなら、青年がとても痛そうな顔をしたから。
これは悲しい顔。
心が痛い時の顔。
「伝えられたら良いんだけどな。もう行かないと駄目なんだ」
少年は何か言おうと口を開きかけたが、彼より弟妹達の方が早かった。
伸ばされた小さな手が、青年の指先を握る。
「キキ、クク!」
少年の慌てようもどこ吹く風。双子は目をこすりながら、口々に言いつのる。
「神さまはどこかに行っちゃうの?」
「帰らないと、太陽に怒られちゃうから?」
二人とも、思っていたことは自分と同じらしい。少年の瞳に、夜明けの白々とした空が映る。
――この人は夜の国の人だから、朝が来たら帰らないといけないんだろう。
「わかりました。必ず伝えます」
しっかりと布を握りしめると、青年は「ありがとう」と言った。その笑顔は優しくて、どこか悲しそうに少年には見えた。
それからひたすら歩くと、青年の言葉通り昼過ぎには町についた。
そこではなぜか国の兵隊達がいて、ぴりぴりとした顔をしていた。
何でも、とても悪いことをした大罪人が潜んでいるらしい。
特徴は、濃紺の髪に漆黒の瞳。
少年も、道中でそんな人に会わなかった尋ねられた。
不思議に思ったが、答えは一つだ。正直に『知りません』と答えた。
精霊には会ったけど、罪人には会っていないから。
彼の言っていたお婆さんにも会った。
本当に、とても綺麗な声で歌っていたからすぐにわかったのだ。
彼女はとても優しく、事情をきくと自分の村に来るように言ってくれた。
でも。
青年の伝言を話すと、彼女はただ一言『馬鹿もの……』と漏らした。
とても悲しそうな声だった。
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