第136話「夢の責任」
研究所——
シグの巻貝にレッシバルの報せが届いたのは、研究所一階の多層障壁をようやく突破できたときだった。
「やったか……レッシバル!」
トトルの様に泣きはしないが、シグの中でもピスカータを焼かれた日から今日までの苦労が蘇ってくる。
しかしすぐに現実に戻った。
障壁を破られた研究員たちは二階へ引いたが、追うつもりはない。
ネレブリンの精霊は強力だったが、二階では一階の研究員も加わり、さらに強固な多層障壁が待ち構えていることだろう。
二階で気合いを入れて籠城している彼らには申し訳ないが、シグたちは研究所を陥落させに来たのではない。
目的は賢者たちを始末することではなく、賢者たちに模神を起動させることだった。
目的はあくまでも模神退治。
その目的を達成できたのだから、引き揚げるのだ。
父母や村人たちの仇がすぐそこにいるのに、という思いはあるが……
王国に秘密で進めていた杖計画。
同じく王国の許しを得ずに、世界中で人を攫ってきたリーベル派。
さらに今回は〈原料〉のために、他国を巻き込んだ大きな戦を起こした。
無敵艦隊無きいま、リーベルはこれから苦しい立場に置かれることになるだろう。
人攫いや帝国侵略等、賢者たちが仕出かしたことはリーベルの罪として糾弾される。
斯様な苦しい立場に王国を追い込んだ杖計画関係者は大罪人だ。
昨夜、イナンバーク宰相はすべてを知った。
宰相が知ったということは、国王陛下の知るところにもなる。
大罪人共をタダでは済まさないだろう。
賢者たちをどうするかはリーベルの法に任せる。
「退却するぞ!」
「はっ!」
ネレブリンたちはシグの命令に従って退却の準備を始めた。
退却の準備といっても時間がかかるものではない。
それぞれが呼び出している精霊を小さくさせて手の中に隠し、自身は再び文官や武官に化けるだけだ。
準備はあっという間に整い、シグを中心にネレブリンたちが囲みながら退却を開始した。
多層障壁に阻まれて、入口から一階の通路を進むのに手古摺ったが、切り開いた道を戻るのはすぐだった。
隊は研究所の建物から出て、正門前に辿り着いた。
門はさっきのままだ。
閉じかけたまま止まっていた。
「シグ様、こっちです!」
いつから待っていたのか、シグ専属だったリーベル人密偵が門の隙間から手を振っている。
彼はトライシオスの息のかかった密偵だ。
ゆえにフォルバレントまでの脱出路を確保していてくれた。
彼の案内で研究所を後にした一行は新市街を抜けて旧市街へ。
旧市街から下水道へ入った。
〈ウェンドアの地下迷宮〉といわれる通り、下水道は複雑に入り組んでいたが、さすがはリーベル人だった。
迷わず進み、曲がり、一行を南の排水口へと先導した。
しばらく進むと、松明を持つ密偵が立ち止まった。
「皆さん、私はここまでです」
前方の下水道は左へなだらかに弧を描いているが、あとは道なりに進めば南の排水口に出られるという。
普段、街の高台からは南門の外に広がる砂浜が見える。
いまならそこにフォルバレントが待機している姿が見えることだろう。
排水口から出れば、船が目の前に見えるはず。
だから密偵とはここでお別れだ。
この一件が終わった後も、彼にはウェンドアでの任務が続く。
「そうか……世話になったな」
「!」
密偵は、差し出されたシグの右手に驚いた。
別れの握手だ。
帝国の伯爵がリーベルの平民に……
しかしこの場で身分の違いを気にしているのは密偵だけだった。
シグはリアイエッタ領内でネレブリンの自由と権利を認めた領主だ。
彼にとってネレブリンは自分たちと同じ〈人〉だし、リーベル人密偵も〈人〉だった。
シグの気持ちが理解できた密偵は握手した。
「どうかご無事で!」
「君もな」
短く、でも固い握手だった。
これが互いに今生の別れだと知っているから。
……片やウェンドアに潜入中の密偵、片や帝国の伯爵。
この作戦が終われば両者に接点はないだろう。
握手が終わると、密偵は松明を渡して下水道の闇に消えていった。
***
密偵と別れたシグ隊は教えられた通り、道なりに真っ直ぐ進んだ。
道は確かに排水口へと繋がっているようだった。
次第に周囲の明るさが増していく。
——あと少しで、フォルバレントに合流できる。
決死隊になることを覚悟してリアイエッタを発ったが、皆、無事に帰還できそうだ。
自然とシグの足は出口に向かって速まっていった。
ところが……
「!」
先頭を走っていたネレブリンが松明を捨てて急に立ち止まった。
ここは左へ弧を描いていた下水道が、直線に変わる地点だ。
あとは真っ直ぐ排水口まで進むだけ。
だがその排水口の先で、リーベル軍が待ち伏せていた。
ネレブリンは〈気〉を感じ取ったのかもしれないが、シグもそっと覗き見ると、排水口の先にぼんやりとした人影が見えた。
一〇人、二〇人、それ以上……明らかにこちらより多勢だ。
陸軍か海軍か不明だが、魔法使いだけでなく魔法剣士も混ざっているだろう。
このまま排水口へ進んだら全員討ち死にか、あるいは捕らえられる。
「…………」
シグは来た道を振り返った。
そこには闇がひたすら続いている。
次にネレブリンたちを順に見ていき、最後に目を閉じて深く息を吐いた。
——甘かったか……
おそらく待ち伏せている隊は予定外の行動をとったのだ。
ゆえに密偵も掴めなかった。
これは彼の落ち度ではない。
運が悪かっただけだ。
ポケットから掌銃を取り出す。
弾薬は出発前に装填したままだ。
すぐに発射できる。
ついさっきまで不要かと思っていたが、やはり必要になってしまった。
「シグ様?」
「残念だが——」
シグは目を開き、最後の命令をした。
残念だが見ての通り、フォルバレントに合流できない。
皆はしばらく下水道に潜み、隙を見てネイギアス大使のところへ行け。
きっとトライシオスが森へ帰る手筈をつけてくれる。
「では街へ戻りましょう、シグ様」
「いや、私はここに残る」
「?」
ネレブリンはシグの意図がわからず、顔を見合わせる。
「……仰っていることの意味がわかりません」
「君たちは強い。君たち〈だけ〉なら生還できる」
「!」
大国リーベルの都で大暴れして、無事に済むはずがなかったのだ。
研究所は、王国の一機関なのだ。
その機関を荒らし、模神を壊し、あまつさえ無事に帰国できるほど甘くはない。
賢者たちもリーベル王国も許さないだろう。
一〇人全員が無事に、というのは甘かった。
でも、手練れ九人なら生還できるかもしれない。
「皆で死ぬ必要はないのだ」
「…………」
ネレブリンたちはシグの話を聞きながら、リアイエッタでのことを思い出していた。
帝都へ出発した日、馬車の中で彼から感じ取っていた気配は間違っていなかった。
シグ様は……
ウェンドアで死ぬつもりだったのだ。
そのための掌銃だった。
掌銃なら短銃より小さく軽いので逃走の邪魔にならない。
だが退路を断たれたときには……
逃走不能の場合と、万が一逃走可能だった場合を考えての掌銃という選択だった。
ネレブリンたちは俯き、沈黙している。
——わかってくれたか。
シグはその様子を了解の意だと解した。
ネレブリンたちはこれで良い。
次は探検隊だ。
退却の合図を送り、一刻も早くイスルード島から離脱させなければ。
巻貝を取り出して念じた。
「…………」
これでエシトスたちが大水門から離れることができる。
問題は南で待つフォルバレントだ。
やってくるはずのないシグ隊を待ち続けてしまうかもしれない。
でも、やってくるはずの時間を超えても現れなければ、ザルハンスが冷静に撤退を命じてくれるはずだ。
彼は元斬り込み隊隊長だ。
探検隊の中で最も戦友の死というものに直面している。
引き際を誤ることはないだろう。
すべて終わった……
「君たちには感謝している。ありがとう」
言い終わるや掌銃をこめかみに向け、躊躇わずに引き金を引いた。
…………
……?
弾が出ない。
それに引き金の手応えが妙だった。
「なっ……!?」
見ると、掌銃の火皿が湿った泥で埋まっていた。
これでは撃鉄が倒れても、泥に刺さるだけで火薬に引火させることができない。
泥は、ネレブリンの掌の中にいた土精ノームの力だった。
「……無責任だ」
自決を阻止したネレブリンがシグを睨む。
「あんたが示した夢に皆でついてきたのに、自分だけさっさとあの世に逃げるなんて無責任ではないか!」
シグが示した夢……
それはネレブリンに対する偏見と差別を改め、ブレシア人と同じ大陸で暮らす人であると認めること。
執政閣下も仰っていた。
はじめの内は人とネレブリンの軋轢が生じるだろうが、その先には必ず繁栄が待っている、と。
なのに、ここでシグだけ一足先に死ぬのか?
「模神退治に協力したのだから、これからも生き続けて我々との誓約を守ってもらう!」
「しかし……」
シグは使い物にならなくなった掌銃をポケットにしまいながら、排水口を見る。
おそらく銃兵、魔法兵、魔法剣士が我々を待ち構えている。
奴らをどうやって突破する?
一緒に街へ戻るのも危険だ。
いくら宰相でも、これ以上動かないのはまずい。
きっといま頃、研究所にも救援の兵を送り、市民からの通報を受け付けていることだろう。
両者の情報を合わせれば、帝国の交渉団が研究所で暴れた犯人だとすぐにわかり、下水道にも捜索隊が投入される。
シグの顔は研究所でも市内でも目撃されている。
如何にネレブリンの精鋭でも、足手まといの有名人を連れてウェンドアを逃げ回るのは無理だ。
「だからおまえたちだけでも——」
「考えます! 奴らを突破する方法を考えます!」
シグの言葉をネレブリンたちは遮った。
最後まで聞く必要はない。
これは森の爺様からの厳命でもある。
シグ卿が命を捨てる覚悟を決めたら絶対に止めろ、と。
ゆえに自決する話に耳を貸す気はない。
しかし……
排水口までの一本道は身を隠す場所がないし、さっきから探知円や線が入り乱れている。
こちらが射線に入り次第、銃撃と魔法で蜂の巣にするつもりだろう。
突破すると豪語してはみたものの、具体的な方法についてはお手上げだった。
一体、どうすれば……?
と、悩んでいるときだった。
コツ、コツ、コツ……
排水口から誰かがやってくる。
敵隊長が、降伏を勧めに来たか?
ネレブリンたちが身構えていると、
「シグ殿、そこにいるんだろう?」
「!」
シグは驚いた。
声は宰相イナンバークだった。
「どうしてここに?」と尋ねようとするが、ネレブリンたちの反応の方が早かった。
シグの質問より早く、それぞれの精霊でイナンバークを取り囲んだ。
「閣下っ!?」
思わず排水口の外で待つ兵たちが騒めいたが、右手を上げて制した。
危険はない。
サラマンダーやフラウたちに囲まれていたとしても危険はないのだ。
宰相の身に何かあれば、帝国人一〇人組の命など一溜りもない。
帝国側もそれがわかっているから、取り囲むだけで攻撃はしてこない。
「これで安心だろう? 話がしたいのだ。そこの影から出て来てくれないか?」
出てきたところを狙撃するつもりか?
一瞬浮かんだ疑いだったが、シグはすぐに打ち消した。
もうこちらが詰んでいる状態であることは宰相閣下もよくわかっているはずだ。
捕らえるにせよ、討ち取るにせよ、自身を危険に晒してまで罠に嵌める必要はない。
このまま外の兵隊と捜索隊で挟み撃ちにしてしまえば簡単だ。
「……宰相閣下」
意を決し、シグはイナンバークの前に姿を現した。
大国の宰相が絶体絶命の帝国人としたい話とは一体……
***
イナンバークは自分の周囲をぐるりと囲む精霊たちを見て、納得したように何度も頷いた。
「なるほど。たった一〇人でどうするのかと思ったら、召喚士たちを用意していたか」
しかしいつまでも感心してはいられない。
シグたちも忙しいかもしれないが、イナンバークも忙しいのだ。
彼もリーベル人の端くれ。
魔法の心得がある。
だから感知できたのだ。
大森林で突然巨大な〈気〉が湧き起こったのを。
模神の話は本当だった。
我が国から、あんな化け物が生まれようとしていたとは!
イスルード島内には外国人が大勢住んでいるし、ウェンドアには各国大使館がある。
模神が起動していたら彼らに見られ、リーベル王国は世界征服を企んだ国として言い逃れができない。
かかる事態を未然に防げたことは良かったが、なかったことにはできない。
杖計画に少しでも関わった者は全員謀反人だ。
全員捕らえて取り調べなければならない。
排水口で時間を費やしている場合ではないのだ。
イナンバークは早速本題に入った。
「我がリーベル王国は、貴国ブレシア帝国と終戦したい」
賢者たちと違い、リーベル王国は模神など必要としていない。
大量の〈原料〉など無用であり、帝国と戦う理由がない。
よって戦は終わりにしたい。
対するシグも「我が国も終戦を望む」と素直に賛同した。
簡単なやり取りだったが、ここにリーベル王国とブレシア帝国の和平が成立したのだった。
ただ、調印は後日となった。
シグたちがこれから脱出しなければならないからというのもあるが、イナンバークにも時間が必要だった。
賢者たちを捕らえ、宮廷内から継戦を望む者たちを説得するか、一掃しなければならない。
その時間が必要だった。
時間についてもシグは了承した。
互いに事情を知る者同士だと話が早くて良い。
これでイナンバークの話はすべて終わった。
精霊の囲みから宰相を解放し、彼の先導で一行は排水口から外に出た。
待ち伏せと思われた隊は陸軍魔法兵団だった。
宰相閣下の親衛隊だ。
聞けば、シグたちを捕らえようと待ち伏せていたのではなく、見慣れない帆船が南に見えたので、和平の話をするために急ぎやってきたのだという。
つまり、このまま見逃してくれるということだ。
小竜隊の襲撃により、すべての城門は閉じられていた。
そこでイナンバークは予測を立て、先回りしていたのだ。
シグたちが脱出するには、下水道を通って排水口から出て来るしかない、と。
そうとは知らず、危うく掌銃で……
でも結局、自決は止められ、和平の話は纏まった。
模神を退治することもできたし、シグの旅は「めでたし、めでたし」の結果に終わったといえるだろう。
「調印式で会おう、シグ殿」
「はい、宰相閣下」
再会を誓う握手の後、シグ隊は南の浜に向かって走り去った。
……リーベルに悪魔はいたが、リーベル王国が悪魔の国というわけではなかった。
マルジオをはじめとするリーベル市民はいい奴らだった。
リーベル人密偵や宰相閣下のような話の分かる奴もいた。
宿屋号で杖計画を知ったときはリーベル王国そのものが憎しみの対象だったが、模神の消滅と共にシグの中からその憎しみが消え去っていた。
***
シグとは逆に、憎しみの炎を燃え上がらせているのが賢者たち——研究所の所長たちだった。
魔法の心得がある程度のイナンバークですら感知できたのだから、彼らも当然感知していた。
模神の起動と、そのすぐ後に続いた魂たちの昇天も。
杖計画はもう終わりだ。
長い年月がかかった模神が、あっけなく壊されてしまった……
誰だ?
誰がやった?
南側の窓から、見慣れない帆船が見える。
そしてその船に乗り込もうとしている人影も。
研究所に殴り込んできた帝国人共だ!
その瞬間、所長は反射的に伝声筒で叫んだ。
「ウェンドア沖に展開中の沿岸警備隊! 研究所を襲撃した賊の船が南にいるぞ!」
その形相は、人間を超越して神になりたかった者というより、人間であることをやめた悪魔に近かった。
「殺せっ! 奴らを殺せぇぇぇっ!」
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