第114話「創案者」
アレータ島……
その大きさから島と呼称しているが、海底が隆起して水上に出てきた大きな岩石というのが正しい。
人間が上陸できるくらい大きいが、永住したい者はいないだろう。
人間の生活圏に遠い離れ小島。
いや、離れ岩島か。
ここで暮らすということは、島流しの刑を志願するようなものだ。
望んで住みたい者はいない。
だが各国は無理矢理にでも自国の人間を住まわせたかった。
国民より歩兵を。
歩兵より砲台や艦隊を。
岩島自体は何の富も生み出さないが、セルーリアス海中部の南西という位置がとても良かった。
リーベルが領有できれば、大陸にも群島にも睨みを利かせることができる。
何かあれば、すぐに艦隊を派遣できる。
逆に、帝国か連邦が領有できれば、リーベルに対する盾にできる。
昔から、いつでも火種になり得る〈きな臭さ〉が漂っている岩島だった。
だから各国はアレータ島と周辺海域を公海としてきた。
当時、海域のすぐ隣にあったコタブレナ王国でさえも、この〈平和〉に異論を唱えなかった。
各国の理性により、セルーリアス海は平和になった。
少なくとも、人間同士の縄張り争いは起きないはずだった。
なのに、〈庭〉の守護者自身がアレータ島を争いの種にしてしまった……
ウェンドア会談でアレータ泊地の話が出たとき、永かったセルーリアス海の平和は終わったのだ。
戦後、平和の海は自由の海と化し、各国は海の縄張りを主張し始める。
自由にして構わないのだろう?
〈庭〉の守護者自らが禁を破ったのだ。
世界は「解禁」を宣言したのだと解する。
***
宣戦布告の少し前——
戦が近いらしいという噂が増えるに連れ、他国の交易船が続々と帝国を離れていった。
彼らの目当ては値下がりしたブレシア馬だった。
目一杯下がるのを待ってから買いたいが、いくら待っても思ったほど値下がりしなかった。
暴落を期待して辛抱強く待っていたようだが、無駄な辛抱だったと言わざるを得ない。
トトルとワッハーブにより、リーベルの海上封鎖は失敗に終わっていた。
市民生活が破綻していない以上、暴落するはずがなかった。
商人たちは想定していたより高い値で買うしかないが、それでも平時よりは安い。
損とまでは言えないだろう。
それに、儲けが減ったと決めつけるのは早い。
ワッハーブもウェンドアへの航海中に言っていた。
荷を下ろすときに吹っ掛けてやればいい、と。
そうと決まれば、商人たちは動きが早い。
さっさと馬を仕入れて帝国を去った。
それから……
ある日のこと。
ロレッタの宿屋号はセルーリアス海から遥か遠くの海で一人の客を迎えていた。
昨日まで賑やかだった甲板には、給仕たちしかいない。
今日は貸し切りだ。
客は甲板中央の席の一人だけ。
「静かに呑みたいとは言ったが、貸し切りにしなくても……」
甲板の無人席をグルっと見渡しながら、客は少々困り顔だ。
しかし正面に着席している女将は首を横に振る。
「そうはいかないわ、だって——」
だって客とは、帝国第二艦隊の提督殿なのだから。
もうじき出撃だが、その前に話したいことがあるという。
そういうことなら、確かに静かな方が良いだろう。
常連客たちがいたら、歌だ、喧嘩だ、と賑やかになってしまう。
だから貸し切りにしておいた。
「それで、私に話とは?」
提督は現在、迎撃艦隊を密かに編成中だ。
女将はその最中にしたい話というのが気になっていた。
「仕事の最中とはいっても、指示を出しておけば後は皆がやっておいてくれるから、少しならこうして息抜きもできる」
迎撃艦隊……
帝国は、北と東の二方向から攻められる。
そこで北から来るフェイエルム軍は騎士団が、東から来る無敵艦隊は第二艦隊が迎撃することになった。
第二艦隊は帝国海軍の主力部隊!
……と言えたらかっこいいのだが、そうではなかった。
帝国にはそもそも艦隊が二つしかなかっただけだ。
帝国第一艦隊は特殊な艦隊だ。
首都防衛艦隊であり、第一艦隊提督は海軍総司令官を兼任する。
つまり、皇帝陛下の艦隊だ。
よって、第一艦隊は動かないし、動かしてはいけない艦隊なのだ。
事実上、真面に艦隊と呼べるのは第二艦隊だけだった。
ところが海戦の経験は乏しく、主に沿岸警備、時々海賊退治という有様だった。
さすがは、各国から「海軍ごっこ」と嗤われていただけのことはある。
……まあ、仕方がない。
帝国は無駄な征西軍や騎士団増強に力を注ぎ過ぎた。
嘆いている暇があったら、いまできることをやらねば。
それが迎撃艦隊の編成だった。
艦隊は従来のガレーではなく、帆船軍艦で編成する。
いつの間に、どこから入手したのか不明だが、帆船はネイギアス製装甲板で補強してある。
歴とした防盾艦だ。
これならリーベル製魔力砲でも一撃では砕けまい。
防盾艦は一隻、また一隻と帝都を離れていった。
針路はバラバラだ。
ある艦は北東へ向かい、またある艦は南東へ向かう。
北東にせよ、南東にせよ、東へ向かっているので封鎖網に引っかからないかと心配だが……
いまはそれほど気を揉む必要はないのかもしれない。
あれほど厳重だった封鎖網が、近頃は解除されつつあった。
リーベルも周辺の魔法艦をウェンドア沖に集め、堂々と遠征軍を編成しているらしい。
とはいえ、セルーリアス海から全艦消えたわけではなく、見張りの魔法艦が少しだけ残っているが。
だから帝国の防盾艦たちは大陸から見えず、魔法艦にも見つからない辺りで転舵し、秘密の艦隊集結地へ向かっていた。
なぜそんな面倒なことを?
港に出入りする船は日に日に減っているのだから、帝都沖で編成すればいいのに。
いや、そうはいかない。
帝都にはまだリーベルの密偵が潜んでいるはずだ。
力で劣る帝国海軍は奇襲を仕掛けるしかない。
迎撃艦隊の航路はもちろん、編成中の艦隊も見られない方が良い。
……ということだと思っていたのだが、そうではなかった。
「〈あの子たち〉のための囮に……」
「第二艦隊は道化だ。道化は道化らしく密偵共の注目を集めなければ、な」
密偵は探るのが仕事だ。
帝都沖で艦隊編成をしていては探る必要がなくなり、彼らが暇になってしまう。
提督が用事で帝都へ帰還すると、いまでも〈カツオドリ〉と〈巣箱〉という単語が巷から聞こえてくる。
暇を持て余した密偵が、ふと興味が湧いて調べられたら大変だ。
だから彼らに仕事を与えた。
〈カツオドリ〉なんかより、迎撃艦隊の情報の方が重要だろう?
下らない噂について調べている暇があったら、迎撃艦隊の集結地がどこかを探るべきだ。
これから巣箱艦隊が帝都の工廠へ帰ってくる。
無敵艦隊を倒すための激しい訓練を乗り越えた後だ。
ピスカータでの応急修理では不安だ。
出撃前に、工廠で万全の整備を受けさせなければ。
〈カツオドリ〉はピスカータ村に置いてくるし、何も知らなければ〈巣箱〉は無防備な補給艦にしか見えないと思うが、なるべく密偵共の目に晒したくない。
そのために大陸北東端の沖合を集結地に定めた。
コソコソと派手に艦隊編成を行い、帝都で整備が終わるまで、北東沖へ奴らの注意を引き付ける。
整備終了後、巣箱艦隊は港で人目に触れてしまうが、そのときのことも考えてあった。
巣箱艦隊に兵員と物資を乗せ、護衛の巡洋艦を四隻付けて出航させる。
「まるで、本物の補給艦みたいね」
「であろう?」
帝都に残っている密偵も、迎撃艦隊へ兵と物資を届けに行くようにしか見えまい。
だが積荷は陸が見えなくなってから巡洋艦に移し、北東沖へ運ぶ。
空になった巣箱艦隊はピスカータへ。
「素晴らしい作戦だと思うわ。でも——」
でも、それはザルハンスに伝えれば済む話ではないだろうか?
巻貝の持ち主だと知っているのだし。
「ああ、その通りだ。前置きが長くなって済まなかったが、女将に伝えたい話は別にある」
提督はグラスに残っていたワインを飲み干した。
そして、
「! 何をしているの?」
女将が驚くのも無理はない。
グラスを置いた提督は彼女に頭を下げた。
「ありがとう。女将」
「何の事かしら?」
心当たりがないと女将は言うが、彼女は知っているはずだ。
それでもとぼけようと言うなら無粋でも仕方がない。
提督は頭を上げ、感謝の理由を述べ始めた。
「ワシは、若い頃からずっと不安だった」
帝国は昔から『リーベル王国と仲良くしておけば、帝国船も安全である』という方針だった。
提督も親しくすることには賛成だが、これは友好というより依存ではないだろうか?
この姿勢は帝国海軍の予算にも表れていた。
リーベルが魔法艦隊を派遣して世界中の海を守っているのだ。
褒め称えていれば通らせてもらえるのだから、帝国海軍の予算は必要最低限でも構わないだろう。
浮いた資金は征西軍へ。
一海軍軍人として頭に来る。
だが、一理ある話ではあった。
実際、何度も帝国の交易船団が魔法艦に救われてきた。
逆らわなければ助けてもらえるのに、それでも海軍力を増強しなければならない理由は?
若かった当時の提督は反論しなかった。
やる気のない上官や同僚相手に議論を繰り広げる気はない。
でも、不安な思いはずっと消えなかった。
リーベルは……
この先もずっと正義の味方で居てくれるだろうか?
「……若い日の不安が的中してしまったわね」
帝国は頼みにしていたリーベルから海上封鎖を受け、近日、宣戦布告を受ける予定だ。
恐れていたことは、現実になった。
「だから感謝している。ワシらに〈空〉という活路を教えてくれて」
「……あれは……私じゃないわ。トライシオスの……」
女将は最後まで言えなかった。
提督は、伝説の魔女の企みを見抜いていた。
確かに巣箱艦隊はトライシオスの案だ。
レッシバルがリーベル派に勝利したことから思いついたというのは本当だ。
だが、もし彼が何も思いつかなかったら?
そのときは女将が誘導していたのではないだろうか。
杖計画についてトライシオスから相談された頃、彼女は野生の小竜たちの生息地を知っていたはずだ。
宿屋号の〈馴染み客〉は海だけでなく、陸にもいるのだ。
彼女はいつ〈海の竜騎士〉を思いついたのか?
おそらくは、レッシバルという竜騎士によって軍事顧問諸共リーベル派が撃破されたときだ。
〈巣箱〉たる補給艦ソヒアム号。
〈ガネット〉たるフラダーカ。
そしてレッシバル。
〈海の竜騎士〉に必要なパーツは揃った。
……あとはトライシオスに思いついてもらうだけだ。
回りくどく、面倒なやり方だ。
けれども、女将が直接言うわけにはいかないのだ。
彼女の口癖だ。
私は——
時代の余所者である、と。
「……提督の御想像に任せるわ」
女将は、誤魔化すようにワインに口を付けた。
肯定も否定もしない。
「おや、ハズレてしまったか? おかしいな……」
と、提督は少しふざけて首を傾げてみせる。
「会談の様子をワシに聞かせてくれたのは、彼らに足りないものがあるからだとばかり……」
そう……
〈海の竜騎士〉が完成したからといって、それで無敵艦隊に勝てると思ったら大間違いだ。
〈ガネット〉の恐ろしさは、相手の予期せぬ死角から襲い掛かるところにある。
海のガレーや陸の歩兵隊のように、正面から激突する部隊ではないのだ。
戦場は見晴らしの良いセルーリアス海だ。
小竜たちが身を隠せる遮蔽物はない。
交戦当日が曇りなら雲の中に隠れることができるが、もし快晴だったら?
ゆえに女将は、トライシオスが大爆笑した会談を提督にも聞かせたのだった。
おかげで提督は〈空〉を知った。
彼らが本領発揮するには、囮が必要だということも。
提督が迎撃艦隊の集結地を北東沖にしたのは、囮になるためだった。
北から先に出発すれば、無敵艦隊は迎撃艦隊に注目するはずだ。
これで南のピスカータから出発する巣箱艦隊は、敵の背後から忍び寄ることができるだろう。
「…………」
女将は黙って聞いていた。
もう誤魔化そうとはしない。
すべて図星なのに、これ以上とぼけるのは野暮というものだった。
提督の用事は終わった。
自分の読みが正しかったか、出撃前に確かめることができて良かった。
これで何の思い残しもなく、囮役を全うできる。
「ごちそうさま、女将」
お帰りになる提督はボートに乗り込んだ。
水面に下ろしてから空間転移する。
迎撃艦隊……いや、囮艦隊の集結地、大陸北東沖へ。
「またどこかの海で」
女将も膝を少し曲げて見送った。
別れの挨拶は済んだ。
ボートは水面目指して下がっていき、女将は空間転移の用意を始める。
あとは一瞬だ。
帝都でシグを送迎したときのように、一瞬で提督を乗せたボートだけを北東沖に残す。
付近には帝国軍の艦船が多数浮かんでいるが、宿屋号を見た者はいない。
それから……
囮艦隊編成の裏で、帝都では巣箱艦隊の整備が始まった。
〈ガネット〉たちが毎日発着していたので、甲板にヒビが入っていないかと心配していたのだが……
旗艦ソヒアム号以下四隻は元々、馬を大量に運搬する交易船だった。
甲板は分厚く、頑丈だった。
脚の爪による細かな引っ掻き傷は無数にあったが、修理の必要はなかった。
他の箇所も問題なし。
特に大掛かりな修理を要する艦はなく、整備は滞りなく終了。
巣箱艦隊は巡洋艦に護衛されながら一旦東へ。
陸が見えなくなってから身軽になり、南西へ転舵した。
リーベル王国の宣戦布告は、巣箱艦隊がピスカータに帰還した二日後のことだった。
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