第77話「天命」
作戦を提督に明かしたのは、ザルハンスではなかった。
宿屋号の女将だ。
彼女の懸念は正しい。
シグもどうやってザルハンスと〈巣箱〉をピスカータへ呼び寄せようかと思案していた。
まさか、とっくに解決済みだったとは……
疑いが晴れたザルハンスは心も表情も晴々と、拾い上げたグラスに四杯目を注いでいるが、レッシバルとシグは絶句して言葉が出ない。
「…………」
恐ろしい。
どれだけ先が見えているのだ?
あの魔女は。
今更と突っ込まれそうだが、自分たちは、伝説の魔女と〈老人たち〉の掌の上で踊らされているのではないだろうか?
だったとしても、その通りに踊るしかないのだが……
——いかん、いかん。
シグは心の中で首を振って、疑心の雲を追い払った。
ザルハンスと釣りに出掛けて以来、手当たり次第に疑う癖がついてしまった。
世の中、トライシオスのような胡散臭い輩ばかりではない。
女将は味方だ。
もし彼女が俺たちを破滅させたいなら、リーベルのやることを波濤の彼方で傍観しているだけで達成される。
俺たちの前に現れる必要はない。
宿屋号の甲板に初めて降り立った日、彼女は「〈海の魔法〉の被害者を救いたい」と語った。
あのときは意味がわからなかったが、いまはもうわかる。
彼女はお人好しだったのだ。
お人好しだからリーベル人に〈海の魔法〉という護身術を授け、遭難者を救助するために宿屋号を作り、海戦で漂流していたザルハンスを拾った。
だが、いまのリーベル人を見れば、昔のリーベル人もえげつない連中だったのだと推知できる。
きっと〈海の魔法〉が彼女の考え通りに行われたのは最初だけで、早々に現在の暴力的な姿に変貌したのだろう。
護身術だった〈海の魔法〉は血塗られた凶刃と化した。
その凶刃に彫られているのだ。
『ロレッタ作』と。
被害者救済だけでなく、可能ならば暴走を止めたいという心中、察するに余りある。
彼女は信用できる。
ならばもう疑う必要はない。
その彼女が必要だと判断して提督を引き入れた。
提督は了承し、協力の証として翔竜旗を作ってくれた。
今後は提督を味方と認識する。
別に、揉めるような話ではなかったのだ。
作戦を知られてはならない、と警戒の対象だった相手が実は味方だった。
ただそれだけの話だったのだ。
ザルハンスは四杯目に口をつけながら、
「提督は改造中の〈巣箱〉をご覧になって、思わず首を横に振ってしまったそうだ。いくら何でも——」
いくら何でも殺風景すぎる。
〈巣箱〉なのだから発着の妨げになる物を全て撤去するのは、仕方がないことではあるのだが……
軍艦というものは敵を倒す武器であるのと同時に、自分たちの死に場所でもあるのだ。
人が生涯を終える場として、あれでは余りにも殺伐としすぎている。
軍艦には華が必要だ。
死に往く者が「ああ、悪くはない」と死に場所として納得できる華が。
だから、
「だから、『せめて旗くらい持って行け』と俺たちに下さった」
「提督が……」
旗を囲んで、三人の胸は熱くなった。
ザルハンスだけは、強めの酒を四杯も呷ったせいかもしれないが。
***
レッシバルは、空色の生地にアレータ海での戦いを投影していた。
当然だが、彼は魔法使いではないので、本当に映し出しているわけではない。
光景は彼一人にしか見えていない。
あの戦いは偶然始まったものだった。
いつか〈海の魔法〉を撃退してやろうと意気に燃えていたわけではないし、熟練魔法兵が乗っていたとは知らなかった。
海賊船への攻撃も、ただ生き延びたい一心でやったことだ。
奴らの船が爆散した後、込み上げてきたのは勝利の喜びではなく、命拾いできた喜びだった。
トトルたちの命が助かって良かった、自分とフラダーカも無事で良かったとしか……
正直に言うと、〈海の魔法〉に勝利したという実感は、いまもあまりない。
でも、あの勝利は俺たちが考えているより、遥かに大きな出来事だったらしい。
〈老人たち〉や伝説の魔女が動き出すほどに。
——執政トライシオス、そしてロレッタ卿……
レッシバルは胸の巻貝を掴みながら不思議に思う。
どうして自分のような凡人が、あの二人と仲間になっているのだろう?
不思議だと思わないか?
トトルの家は道具屋だったから、あいつだけは後を継いでいたかもしれないが、他の五人はいま頃、漁師をやっているはずなのだ。
一介の漁師が連邦の執政にお目通り叶うことはないし、お互い用もない。
女将には、もしかしたら会えたかもしれない。
遠洋漁の最中、大波に攫われて漂流していたら、どこからともなく宿屋号が……という可能性はありそうだ。
でもそのときは、ただの遭難者として保護されるだけだ。
ピスカータに帰れるところまで送ってもらい……
そこで終わり。
彼女は一介の漁師に用はないし、こちらもない。
な?
不思議だろう?
だからいまでも一日に最低一回は思う。
「なぜ自分のような凡人が?」と。
だが、今日からその疑問を捨てる。
少し考えればわかることだった。
何も疑問に思うことはないのだ。
自ら注目されるようなことを仕出かしたのだから。
漁師をやっていたはずの者が、小竜に乗って〈海の魔法〉をぶっ飛ばした。
女将も執政も、ずっと手が出せなかったのに。
手が出せなかったのは二人だけではない。
世界中も同様だった。
完全無欠の〈海の魔法〉に立ち向かう者は、返り討ちに遭うだけだ。
そう信じられてきた。
世界は理不尽に耐えながらずっと待っていた。
〈何か〉手はないか、と。
その〈何か〉がレッシバルとフラダーカだった。
アレータ海で〈海の魔法〉の死角を発見できたのは偶然だ。
しかし皆、この偶然に一筋の光を見出したのだ。
レッシバル組が世界に見せた光だ。
「なぜ、自分のような凡人が?」と首を傾げている場合ではない。
皆がその凡人に期待している。
おまえならできる、と。
翔竜旗はその期待が具現化した物だ。
レッシバルは港に向かって敬礼した。
夜闇で見えないが、昼間だったらその方向に第二艦隊旗艦のメインマストが見える。
「提督、立派な旗をありがとうございます」
彼の敬礼を見た二人は驚いた。
「——!」
「レッシバル……」
敬礼が、陸軍式ではなく、海軍式だった。
いまこの瞬間でさえ、レッシバルは自らを凡人だと思っている。
だが、神様はなぜかこの凡人に使命を与えた。
当然、凡人なのだから難しいことはできない。
神様もそのことはわかっている。
だから後で言い訳されないよう、足りない力を補う者たちが集まってきた。
これでは「自分は凡人だから……」と逃げることができない。
ワッハーブに「他を当たってくれ」と断ることも許されない。
そして今日は旗を貰ってしまった。
この旗に込められているのは、単なる応援ではない。
提督の祈りが込められている。
「帝国海軍では全く勝ち目がない。だから小竜隊の力でどうか帝国の未来を守ってくれ」と。
……軍人が戦う前から自らの非力を認める。
どれほど無念だったか。
潔く玉砕する道もある。
しかし提督が選んだのは、生き恥を晒しても勝利する道だった。
提督はこう仰っているのだ。
〈おまえたち〉に都合が悪いことが起きたら、第二艦隊の名を出せ。
無敵艦隊からブレシア人を救えるなら、恥でも泥でも喜んで被ろう、と。
確かに、女将の言う通りだ。
帝国の中にも味方は必要だった。
遠征軍は海からやってくるのだから迎え撃つのは海軍だ。
味方につけるべきは海軍だった。
それも、できればザルハンスの第二艦隊が望ましい。
「これが天命……という奴なのか」
レッシバルはポツリと呟いた。
小さすぎてシグやザルハンスには聞き取れなかったが、呟きの相手は自分だ。
心の声が口から漏れただけなのだから、これでも大きかったくらいだ。
子供の頃、巡回隊のおじさんたちのおかげで命拾いした。
孤児院では、院長先生のおかげで準騎士になるという夢を諦めずに済んだ。
陸軍では、竜について学ぶことができた。
退役後、探検隊の皆のおかげでフラダーカと出会えた。
やがて、トライシオスと出会い……
…………
ダメだ。
奴の顔を思い出すと、どうしてもムカついてしまう……
でも感謝はしている。
本当だ。
奴は〈老人たち〉だ。
単なる親切心で助けてくれているのではないことはわかっている。
でも、単なる金儲けと片付けることもできない。
今日までにかなりの大金を注ぎ込んでいるはずだ。
失敗すれば全額水泡に帰し、いくら連邦の王でも大損害の責任を問われるだろう。
小竜隊への投資は危険が大きすぎないか?
本当に勝てるかどうか、まだわからないのに。
〈老人たち〉は信じられない。
だが奴は、トライシオスは一人の人間だった。
笑ったり、怒ったりする感情や心を持った人間だった。
奴の人間としての部分なら、信じることができる。
そして奴も信じてくれている。
俺とフラダーカを。
奴は執政だ。
職務に私情を持ち込むことは絶対にない。
内心はどうあれ、成功の見込みが低いことには一切出資しないだろう。
だから執政の冷徹な目で見て、俺たちの勝算は高いということだ。
……心強い。
その冷徹さが、却って力強い励ましになっている。
こうして振り返ってみると、子供の頃から今日まで、多くの人たちから助けられてきたのだとわかる。
皆から期待され、信じられている。
——人の思いには応えなければならない。
海軍式の敬礼をしていた右手を下げたとき、レッシバルから不安や迷いが消えていた。
うまく言葉にできないが、ずっと瞑り続けていた目が開いたような気がする。
……後世、歴史学者たちの間で一つの争点がある。
『レッシバルはいつから竜の将だったのか?』についてだ。
小竜隊や迎撃艦隊は徹底的に秘匿されていたため、現存する資料が殆どない。
そのため、諸説が乱立していた。
正解は——
今日、シグ邸での報告会からだ。
翔竜旗を受け取り、海軍式の敬礼をし、〈ガネット〉を率いて敵を倒すと決意した。
未来の学者たちに教えてあげられないのが残念だ。
竜将レッシバルはこの日、己に課せられた天命を悟った。
海の魔法?
無敵艦隊?
知らんな。
悪者をぶっ飛ばす。
それだけだ。
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