第37話「迷信」

 夕方近く、シグとザルハンスは沖釣りから帰ってきた。

 果たして釣果は……

 二人共、左手で大物の尾筒を掴んでいる。

 シグは家族に対して胸を張れそうだ。


「お疲れ様でした。またお越しください」


 漕ぎ手は丁寧に挨拶するとボートを漕ぎ出し、再び港から離れて行った。


「さあ、帰ろう。シグ」


 ずっと見ていても仕方がない。

 ザルハンスは、ボートを凝視している友の肩を叩いた。


「ああ」


 返事はしているが上の空だ。

 視線を辿ると、ボートというよりその先のセルーリアス海を睨んでいるようだった。


「ザルハンス」

「ん?」


 目は依然として海に向けられたまま。


「今日は沖釣りに誘ってくれてありがとう。おかげでよくわかったよ」

「……どういたしまして」


 礼を述べて気が済んだのか、シグは港に背を向けて歩き出した。

 正確には港というより、セルーリアス海に背を向けて……


 後年、ザルハンスは語る。

 あの日から友は変わった、と。


 このことはシグの妻も証言している。

 沖釣り以降の彼に表面上の変化はなかった。

 相変わらず家族に甘く、周囲の人たちに親切だった。

 ただ、書斎から一人でセルーリアス海を見ている時の夫は、別人のように恐ろしかった、と。


 シグにとってセルーリアス海は戦場ではなかった。

 昔のように人と交易船が行き交う平和な海に戻ってほしいと願っていた。


 しかし沖釣りに行って目が覚めた。

 リーベルは敵だった。


 子供の頃、山に現れたゴブリン共と同じだ。

 あいつらは恐ろしいオオカミとは共存するが、ピスカータ村の人間たちについては皆殺しにするつもりだった。


 そういう相手に境界線など示しても無駄だ。

 ゴブリン共は探検隊が示した縄張りを無視したし、リーベルも和平交渉に応じようとしない。

 双方に共通することは和睦も降参も受け入れず、こちらを皆殺しにするまでやめないということだ。


 シグはすべてを理解した。

 ピスカータ村の滅亡、ネイギアス海賊、リーベルとフェイエルムの同盟、消えた奴隷たち……

 すべてが一本の線に繋がった。


 ボートが港から離れていくのを見送りながら、彼は心に誓う。

 我が国の海軍が無敵艦隊に勝てる見込みは全くない。

 それでも悪魔の国には決して屈しない。


 帝都が戦場になっても構わない。

 刺し違えてでも、悪魔共は全員地獄へ送ってやる。


 ……まるでレッシバルのような気迫だ。

 彼は沖釣りに行って何を見たのか?

 時を戻してみよう。



 ***



 ルキシオ港から出発したシグは、ボーっと海を眺めていた。

 沖で何を狙うのか知らないが、そのうちザルハンスか漕ぎ手の男が教えてくれるだろう。

 せっかく息抜きに連れてきてくれたのだから、シグはその好意に甘えて気を抜いていた。


 ところが、いつまで経っても二人は無言のまま。

 どこへ向かっているのか、狙いの魚種は何なのか、一向に教えようとしない。


 別に急ぐことはないのだが、海を眺めるのも飽きてきたので、竿の準備でもして暇を潰したい。


 その旨を伝えても二人は「もうすぐ着く」としか返してこない。

 仕方なく再び海を見たり、空を見たりして退屈に耐える。


 それにしても、いつまで漕ぐ気なのか?

 随分遠くまで来たようだ。

 波が高くなってきている。

 港を振り返ると、もうぼんやりとしか見えない。


 いくら何でも沖に出過ぎている。

 さすがに怖くなってきた。

 だが、ザルハンスは平然としているし、漕ぎ手も目が合うと笑顔を返してくる。


 ——こんなところまで来て、一体何を釣るつもりなんだ?


 シグは漁村出身だが、魚についてはあまり詳しくない。

 新米漁師になることができなかったから。


 それでも多少は親たちの話が記憶に残っているので振り返ってみたが、ここまで遠出しないと釣れない魚種には心当りがなかった。


 ザルハンスか漕ぎ手にもう少し突っ込んで尋ねてみようか、と二人の顔を交互に見ていたときだった。

 櫂が止まった。


「この辺で大丈夫そうですね」

「ああ、そうだな。誰もいないようだし、ここでいいんじゃないか?」


 待て。

 二人だけで納得し合うな。

 シグだけが話から置いて行かれてしまった。


「この辺」と「ここ」という単語から察すると、釣り場に着いたということか?

 でも「誰もいない」というのは一体……


 話が解せないが、釣り場に着いたというなら早速糸を垂らしてみようか。

 何も知らないシグは準備を始めようとした。

 しかし、


「シグ様、申し訳ございません。まだ——」


 ボートを止めたが、まだ釣り場に着いたというわけではなかったらしい。


「そうか……」


 出しかけた餌や釣り針をすぐにしまった。


「…………」


 指示には大人しく従う。

 従うが、説明はほしいところだ。

 ここではないというなら、どこへ向かおうとしているのか?

 一体、何を釣ろうとしているのか?


 不安そうなシグを無視して、二人は周囲をキョロキョロと念入りに確認し続けている。


 様子を見ている内、一つの仮説が立ってきた。

 余程、希少な魚種を狙おうとしているのだ。

 だから周囲を警戒している。


 シグの中で「ここ」と「誰もいない」が繋がった。

 秘密の穴場を誰にも知られたくないということなのだろう。

 そう考えれば合点がいく。


 落ち着いて待つと、二人の確認が終わった。

 いよいよ沖釣りの開始だ。


 まだ「始めてください」と言われていないが、シグは再び準備を始めることにした。

 一緒に周囲を見渡したが、誰もいないことを確認している。

 もう構わないだろう。


 ここまで厳重に秘密を守ろうとした穴場だ。

 果してどんな大物に出会えるのか?

 ワクワクしながら一番大きい釣り針を選んだ。


 ところが……


 ザルハンスが準備を始めない。

 漕ぎ手も「どうぞ」と言う気配がない。


 ——何だ?


 二人の様子がおかしいことに気付き、釣り針に糸を通す手が止まった。

 友は竿を置いたまま、漕ぎ手を見ているのか、海を見ているのかわからないが、正面を向いたまま動かない。

 訳が分からないが、シグも従うしかなかった。


 もしかして釣りは口実で、本当は別の用事なのか?

 だとしたら、こんなところで何をする気だ?

 シグの胸中に再び不安の雲が立ち込めていく。


 だが、漕ぎ手は釣り客の不安に一切答えようとせず、胸のポケットから白い巻貝を取り出した。

 殻口に向かって、


「女将、お連れしました」


 ——女将?


 シグの片眉が下がった。

 女将というのは宿屋や飲食店の女主人のことだ。

 見渡す限り海なのに、どこにそんな者が?


「お、おい、さっきから一体……」


 とうとう我慢できなくなり、疑問を口にしかけた。

〈口にしかけた〉というのはそこから先を言うことができなかったから。

 なぜなら次の瞬間——


「っ⁉」


 ボート前方に巨大な双胴船が現れた。

 水平線の彼方から接近してきたのではなく、突然目の前に出現した。


 急な出来事に驚き、ボートが揺れる。


「シグ様、どうか落ち着いてください」

「落ち着く⁉ この状況で⁉」


 狼狽えているのはシグのみ。

 二人は何事もなかったように落ち着いている。


 むしろこの状況で落ち着いている方が異常なのだが、二人掛かりで宥められると、異常なのは自分の方なのかと錯覚してしまう。

 不安は消えないが、興奮は次第に治まっていった。


「おまえには言ってなかったが——」


 漕ぎ手はあの巨大双胴船の船員だ。

 ボートはこれからあの船に向かうのだが、このまま漕ぎ出したら再びシグが暴れかねない。

 ザルハンスはこの場で事情を説明することにした。



 ***



 補給艦ソヒアムの艦長就任前、ザルハンスは第二艦隊所属の海兵だった。

 海兵隊の役割は上陸戦と敵艦への斬り込みだ。


 彼が海兵になったのは、正騎士になれなかったからではない。

 子供の頃は皆と一緒に憧れていたが、帝都で暮している内に気持ちが変わっていったのだ。


 船に乗りたい!

 海で生きたい!


 その思いがいつしか正騎士の夢を上回り、気が付くと海軍に入隊していた。

 海の男の息子は、やはり海の男だった。

 探検隊の中で彼が最も色濃くその血を引き継いでいた。


 彼が父から引き継いだものはもう一つ。

 腕っぷしの強さだ。


 海と腕っぷし。

 ザルハンスが海兵になるのは自然の流れだった。


 第二艦隊配属後、彼は斬り込み兵として海賊狩りで大活躍し、隊長になるのにそれほど時間はかからなかった。

 その後も功績を積み上げていき、先日ついに一艦の指揮を任されることになった。


 これだけだと夢のような立身出世物語にしか聞こえないが、決して楽な道だったわけではない。

 レッシバルのように生死の境を彷徨ったことはないが、それに近いことは何度もあった。

 その一つが遭難だ。


 ある時、大規模な海賊艦隊と戦闘になった。

 彼が所属する沿岸警備隊はガレーを中心とする艦隊だ。

 敵艦へ突撃し、白兵戦に持ち込む。

 突撃時の衝撃で落ちる者、白兵戦の最中に落とされる者……

 戦闘中、海に落ちる者は多かった。


 落ちた者をそのまま放置はしない。

 見つけ次第、できるだけ拾い上げていく。

 ただし、あくまでも〈できるだけ〉だ。

〈何が何でも絶対に〉ではない。

 だから、敵味方入り乱れた乱戦の中で拾われる海賊もいれば、見落とされてしまう海兵もいる。


 ザルハンスも海に落ち、波間を漂いながら必死に助けを呼んだが、銃声や怒号にかき消されて誰にも届かなかった。

 流されてどんどん艦隊から遠ざかっていき、三六〇度水平線しか見えなくなった時、死を覚悟した。


 覚悟はした。

 だが、それでも往生際の悪さが心の片隅に残っているのが人間だ。


 ——もしかしたら味方がボートで自分を探してくれているかもしれない。


 そんな淡い期待から周囲をキョロキョロしていた。


 だから一つの方向を見ている時間はほんの一瞬だ。

 正面に海しかないことは何度も確認している。


 しかし後ろを見渡した後、すぐに前を向くとそこには巨大な双胴船が聳え立っていた。

 その間、僅か数秒。

 だからシグがどれほど驚いているかはよくわかる。


 わかるが、どうか現実を受け入れてほしい。

 否定しても仕方がないではないか。

 実在していたのだから。

〈ロレッタの宿屋号〉が。



 ***



 世界の迷信の一つ、ロレッタの宿屋号——

 見たと言い張る者によれば、その船は魔法艦以前の戦列艦二隻を横に並べた双胴船で、その上には楼閣が立っていたという。


 ……確かに、目の前にいる双胴船の甲板には構造物が建てられている。


 また宿屋号という名が表す通り、リーベルの英雄ロレッタ卿がその船で海の宿屋を営んでいて、遭難者を泊めて陸の近くへ送ってくれるらしい。


 ……妙な言い方になるが、迷信は本当だった。

 双胴船からボートが下され、彼は救助された。


 もう迷信だと嗤うことはできない。

 帝国沿岸まで送ってもらえただけでなく、漕ぎ手が持っているのと同じ巻貝をお土産にもらったのだから。


 これはただの巻貝の首飾りではない。

〈遠音の巻貝〉といって、遠くにいる巻貝の持ち主と話ができるロレッタお手製の呪物だ。


 交信に使う呪物はリーベル製伝声筒が世界最高品質で、かなりの長距離でも届くが、この呪物に比べれば遠く及ばない。

 巻貝の通信可能領域は世界中だ。


 この巻貝がザルハンスの手にあることこそ、ロレッタ卿がいまも生きていることを示し、宿屋号が迷信ではないことの証拠だ。


 だからシグも落ち着いてほしい。

 迷信は信じない、と突っぱねても意味がないのだ。

 現に、目の前にいるのだから。


「そんな話……すんなり受け入れられるわけがないだろう……」


 説明を受けたシグは、双胴船に目が釘付けになりながら呻いた。

 さらには漕ぎ手に向かって、港へ引き返せと訴えた。


「申し訳ございません。すぐには引き返せません」


 なぜなら、もうここは帝都沖ではないから。


「帝都沖ではない? 血迷ったか?」


 事実なので、血迷ってはいない。

 血迷ってはいないが、そう思われるのも無理はない。

 そこで、今度は漕ぎ手が説明し始めた。


 ロレッタ卿は時と空間を自在に操る魔女であり、その魔力はいまでも健在だ。


 彼女は宿屋号を遠くの沖で待機させておき、漕ぎ手として遣わした給仕の彼から連絡を受けると、その魔力で宿屋号をボートのところへ空間転移させた。

 そしてボートと合流すると、再び空間魔法を発動。

 今度は宿屋号とボートを二隻同時に遠くの海へ転移させた。


 誰の目にも止まらぬ、一瞬の出来事だ。

 シグは一瞬で遥か遠くの海に運ばれていた。



 ***



 かつて、ロレッタ卿は八方塞がりだったリーベル王国に〈海の魔法〉を提唱し、危機から救った。

 その後、彼女は歴史の表舞台から退場し、王国は〈海の魔法〉を発展させて強国となった。

 ゆえに王国は現在でも彼女を救国の英雄と崇めているが、当の本人は不本意だと思っている。


 いまの王国の有様は、彼女が望んだ姿ではない。

 しかし責任を感じていた。

 自分が提唱したことから始まったことである、と……


 そこで宿屋号を作った。

 彼女の手を離れて暴走する〈海の魔法〉を止めることはできないが、この船で被害者たちを救済する。


 いま、帝国は〈海の魔法〉によって滅ぼされようとしている。

 宿屋号女将として、何としてもこれを阻止したい。


 そこで、ザルハンスに頼んで連れてきてもらったのだ。

 信頼できるリーベル担当官を。


 彼女は外から見ていたのでよくわかる。

 帝国外務省は、ずっと後手に回り続けている。

 王国の思惑がわからないので、交渉の糸口が見つからないのだろう。


 ならば、まずは知ることだ。

〈海の魔法〉を悪用して世界最強の座に上り詰めた魔法王国が、いまは何を目指しているのかを。

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