チェイン・オブ・ダークネス
レオニード貴海
第1話
午前零時。千鶴の頭の中はぐちゃぐちゃだった。子を胸に抱いたまま信じたことのない神に祈っていた。歯を食いしばり苦しそうに息を繰り返す。眼球は火を当てられたみたいに熱い。頭蓋骨の内側で逆さになったコウモリたちが暴れている。無音に組み上がった混乱が表情に亀裂を走らせる。踏み越えたボーダーははるか後方へと過ぎ去り、日の出の地平線となって千鶴を威圧する。まるで神の怒りだ。
細い腕から離れていく娘はよくできた人形のようだった。
「落ち着いてください、落ち着いて」
トリガーが戻らなくなった自動小銃みたいにして止めどなく溢れ出る言葉の弾幕を自分ではコントロールすることができない。若い女性看護師が千鶴の肩を強くつかみ、時間をかけて根気よく語りかける。大きな瞳、弱そうな肌、真剣な表情、下手くそな化粧、誠実な言葉の音、彼女は味方なのだとやっと理解すると、千鶴はようやく息を吸い込んだ。
「お名前と、年齢を教えて下さい」
千鶴は少しく間をとった後、小さな声でゆっくり、しかしはっきりと、娘の名前を伝えた。看護師の若い女は短く何度か頷くと、すっと立ち上がり関係者のもとへと駆けていった。
しばらくして現れた別の看護師に導かれ、千鶴は力なく待合室へと移動した。
◇
間違っているのが自分なのだという感覚は常にあった。罪の意識から逃れるためには攻撃性の殻に身を閉じ込めている必要があった。他者を傷つけることで自分を罰するのだ。罰によってこそのみ罪は相殺される。
「本当に俺の子なのか?」
テンプレートみたいな言動。でもどんなに聞き慣れ使い古されたような言葉と手でも、自分の身に注がれるときにはまったく異なる意味をもつ。ああ、やっぱり私はこうなる運命なんだ。ろくな準備もしないまま迎えた陣痛、タクシーで産院へと向かい三時間の苦しみの果てに新しい命を授かった。嘘みたいに軽い我が子を抱いて戻った部屋に、すでに和哉の姿はなかった。
和哉の生家に連絡することはできなかった。実家とも絶縁している。かけおちには自明なリスクがある。だがかけおちをする段階でリスクと向き合う人間はいない。頼みの綱など端から存在していない。現代社会が地縁を滅ぼし育んだ混沌の洋上に、何の力も持たないたったの二人が取り残された。
生活保護制度。子どもを抱いたまま訪れると役所の応対は案外丁寧で受付の女も親切だった。だが帰り際に廊下で耳にした会話が忘れられない。
「島本さんだっけ? なんかいかにもって感じだったよね」
「ああいう人は子ども産んじゃ駄目ですよね、子どもが可哀想」
手洗い場から出てくる二人に顔を合わせないよう逃げるようにして廊下を抜けていった。
◇
苦しみを生んだのは誰だ?
言葉を持たない娘の目からは自分の声が聴こえてくる。お前だ、と言う内なる声に抗うには泣き叫ぶ娘を蹴り飛ばすしかなかった。
「ウルサイ」
娘を押入れに閉じ込めたままパチンコへと向かう。出口がないとわかっていれば、迷路はもはや迷路ではなくなる。広漠たる園庭、万里の円環、星のない夜。じっとしていればいいのだ。もうどこにも行かずに。何をしても何も変わらない。
生まれたときから許しを求めていた。
小学校の図書館で読んだ本に「原罪」という言葉が出てきた。同じ頃遠足で訪れたどこかの駅の企画展かなにかでキリストの油絵を始めて見たとき、千鶴は白いペンキでその絵を塗りつぶせないかと考えた。バケツいっぱいの白いペンキで。だってこいつは嘘つきなのだ。悪いのは私だけなんだから。
中学のとき、酷い痣ができて二週間学校を休んだ。
「誰のせいなの?」
「私」
「お前なんか産まなきゃよかった!」
教師という人種が嫌いだった。
「ほら、みんなと一緒にもっと笑顔で」
その前に私をみんなと一緒にしてよ。
「島本さん、こう、口角をぎゅっと上げてね」
その前に私をみんなと一緒にしてよ。
◇
自分には勿体ない男だ。和哉のことをそう考えていた。
風俗で働いていた千鶴と一緒になるために大手IT企業を退職した。
「そんなことしなくていいよ」
「仕事なんかいくらでも見つかるよ、お前はひとりしかいない」
和哉だけだった。自分のことを認めてくれたのは。いま考えるとやや浅薄な、思慮に欠けた言動も少なくなかった。普段は温和で大人しいのに、酔うと仕事の愚痴が止まらなくなった。いわゆる社会的な負け組を忌み嫌い、汚い言葉で罵ったりもした――千鶴は特別だよ、俺が見つけた宝石だからね。それでも和哉の側に居られることが嬉し過ぎて、和哉の一番近くで罪を分かち合えることが嬉し過ぎて、もう一歩も動き出せなくなっていた。
毒親と別れるのは何でもなかった。
何でもないと思っていた。
それが間違いだったと気づいたときには、袋小路の入り口はもう、ぴったりと閉じられていた。
◇
母のことを憎んでいた(愛していた)。
父のことを蔑んでいた(欲していた)。
◇
待合室で突如、千鶴は泣き出した。幼児のようにためらいなく顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を混じらせながら何度もひくつき、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――
「あなたは悪くないわ、あなたは悪くない」
側に付いていたのは小児科看護師の山根――休暇を取っていたCPT(Child Protection Team:子ども虐待対応チーム)の構成員だ。陽菜の体に不自然な痣が複数認められたため、救急外来の看護師長から連絡を受けて真夜中というのに原付に乗って駆けつけた。背中にそっと手を添え、優しくさすりつづける。
「お願いします助けてください、私は死んでもいいからあの子を助けてください、陽菜を助けてくださいお願いします、お願い……」
娘を蹴り飛ばすたびに後悔した。後悔を薄めるためにまた蹴った。繰り返していく間に感覚は、急速に麻痺していった。
その小さな命は鏡だった。自分という害悪を映し出す鏡。親という憎悪を反射する姿見。踏み潰し、砕き散らせて、何もかも終わらせたかった。もう見たくない、自分なんか消えてしまえ。
深夜十一時過ぎ、いつものように蹴り飛ばすと、いつもとは違い娘はなんだか眠そうな声を上げた。それからぴたりと静かになった。
「こんなとこで寝てんな、じゃまだよ」
十五分後に足で転がすと、ほとんど息をしていなかった。部屋の明かりをつけると、顔色が暗く、ほとんど土気色をしていた。
「しっかりして、弱気になっては駄目。大丈夫よ、一緒に頑張ろう、ね?」
山根は静かだが力を込めた声で言う。
「あの子が死んだら生きていけない、あの子は私なの、私なの……」
この女は子どもなのだ、と山根は思った。子どものまま成長することなく親になってしまった。
以前までは子どもに虐待をするような親を決して許せなかった。理解できなかったからだ。目の前の痛ましい現実だけがダイレクトに胸を貫き、残忍な犯罪者のレッテルを貼り付けることにためらいの余地を残さなかった。いまは少し違う。毒親の毒は親自らをも苦しめ続けているのだ。CPTの一員として何度も議論を重ねるうちに少しずつ考え方が変わってきた。親の心が理解できるようになったとは言わない、だが確実に、見えなかったものが見えるように、聴こえなかった声が聴こえるようになった。それは自分の声だった。もうひとりの自分の姿だった。
お願い、生きていて。助かって。
二人の心の声は重なり、静まり返った待合室のなかで何度も何度も反響した。
(了)
チェイン・オブ・ダークネス レオニード貴海 @takamileovil
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