第5話 ヤンデレな後輩と弊社の若社長が火花を散らしている件

あかねさん、どうかな、調子は」

 男の声でデスクから顔を上げると、弊社の若社長がニコッと微笑みかけた。

 ――みなもとひかる。一代で弊社を大企業に押し上げた前社長のひとり息子。とだけ聞くと金持ちのボンボンだが、彼自身も並外れた経営能力の持ち主であり、弊社はさらに成長中である。おまけに顔立ちがよく、今も後ろで女性社員がキャーキャー言っている。ちょっと社長室から出ただけでこの騒ぎだ。

「体調は問題ありません。現在は後進を育成中です」

「ふむ、その後進とやらを育て上げて余裕が出来たら僕と寿退社するつもりは?」

「いえ、この仕事が楽しいのでその予定はありません」

「ハハッ、手厳しいな。仕事熱心なのは感心だが、君にはもっと僕と仲良くなってほしいな」

 上司と仲がいいのは円滑なコミュニケーションのために必要不可欠だが、寿退社はもはや仕事ができない状態では?

 私と源社長が話している間、私の隣の席に座っている九段坂くだんざかは、私の後ろからずっと怒った小型犬のような顔で威嚇している。正直、怒っていてもあまり怖くない。

「九段坂くん、源社長は怖くないぞ」

「別に怖がってませんけど」九段坂はいつもの光量少なめの瞳でジトッ……と私と社長を見る。

「おや、君とは初めて会うね。九段坂くだんざか真墨ますみくん、だったかな」

「社長面接の時にお目にかかっておりますよ、源光社長」

 二人とも笑顔なのだが、どことなく固いというか、唇の端が引きつっている。この二人、あまり相性は良くなさそうだ。

「ところで社長、なにかご用事でしたか」

「いや? 愛しの茜さんの様子を見に来ただけだよ」

 そう言って、社長が私の顎を指で持ち上げると、後ろの女性社員がキャー! と黄色い声をあげる。

「おや、セクハラですか?」私はとぼけた声で社長の指を顎から剥がす。

「セクハラとは、ひどい言い草だな。まあ、いい。君が元気ならそれでいいんだ」

 社長は顎クイを解除した私の手に、そのまま指を絡めてくる。手の甲を撫でてから、そっと唇を寄せた。後ろの女性社員は何人か気絶しそうになっている。

「では、ね。後輩の躾はきちんとしておくように。今にも噛みつきそうな顔をしているよ」

 その言葉を最後に、社長は去っていった。

「なんなんですか、あの女たらしは……」

 九段坂は忌々しいと言いたげな顔をしている。

「まったくだ。躾ではなく教育と言うべきだろう」

「先輩って、どこかツッコミどころがズレてるんですよねぇ……」

 九段坂は何故か首を傾げていた。

「あー、源社長と茜さん……イイ……」

「イイよね……イケメン若社長とイケメン女子……」

「どっちが先に折れるんだろ、見ててドキドキしちゃう」

 遠巻きに見てた女性社員たちは私と社長の話題で持ち切りだ。

「社長と茜先輩はどういうご関係なんですか?」

 九段坂はムスッとした顔で私に尋ねる。

「同じ大学の先輩後輩さ。源社長がひとつ上でね」

「ふーん……」

 私が答えると、彼はまたジトッ……と湿り気のある視線で私を見てくる。

「なんだ、今日はやけに不機嫌じゃないか」

「別に……源社長が俺の知らない茜先輩を知ってると思うと、そりゃ不機嫌にもなりますよ」

 九段坂はつまらなそうに唇を尖らせる。

「ふふ、可愛いことを言ってくれるね。大学時代の私が知りたいなら、今度話してあげよう」

 とはいえ、酒にいい思い出のない九段坂にいつ話そうか考えているうちに、休憩時間が終わりそうだった。まあ、昼休みにでも彼と昼食をとる機会があれば、その時話せばいいだろう。

「か、可愛いって……可愛いって言われた……」と熱っぽい顔をしている九段坂を横目に、私は仕事の続きに取り掛かったのであった。


 昼休み。

 九段坂と昼食をとろうと思っていたが、彼はいつの間にか消えていたので一人で弁当を食べた。

 お茶だけでは味気ないのでコーヒーでも飲もうかと休憩所に向かったが、誰かの話し声が聞こえる。

「――源社長。茜先輩に近寄るのはやめていただけませんか」

「おや、君に指図される謂れはないのだがね」

 九段坂と源社長の声だ。何やら私のことで揉めているようだが、入っていいのか躊躇してしまう。

「俺の時子ときこさんは誰にも渡さない……誰にも……」

「時子くんは君のものではないだろう。面白い男だな君は」

 二人の声はかなり冷えきっている。そしてナチュラルに下の名前で呼んでいる。

「……まあいい。そこまで言うなら、時子くんをかけて僕と勝負してみるか? どちらが時子くんに相応しいか、選ぶのは時子くん次第だがね」

「偉そうに……」

「偉いからね」

 ふふん、と笑う源社長。

 話もまとまったようだし、そろそろ入ろう。

「――おや、二人で休憩所にいたのか。珍しい組み合わせだね」

「とっ、――茜先輩!?」

「やあ、茜さん。ちょっと新入社員と親睦を深めようと思ってね」

 思いっきり動揺する九段坂と、爽やかな笑顔を向ける源社長。

「茜さん、良かったら今日仕事が終わったら食事に行かないか? 美味しいフレンチのお店があるのだけれど」

 源社長はコーヒーを買おうと自販機の前に立つ私に擦り寄る。

「うーん……申し訳ありませんが、フレンチはあまり好きではないので……」

「おや、残念」

「九段坂くん、そろそろ昼休憩が終わるよ。一緒に戻ろう」

「はっ、はい!」

 コーヒーを買い、自販機から取り出して休憩所から出る私に、九段坂があとからついてくる。

「それでは社長、失礼致します」

「ご苦労さま」

 源社長はめげることなく、にこやかに私たちに手を振って見送ってくれた。

「あの、茜先輩……」

「なんだい?」

「……もしかして聞いてました?」

「何をだ?」

「…………いえ、……なんでもないです」

 私は何も聞かなかったことにした。私が聞いてはいけなかったような気がした。

「ところで九段坂くん、仕事が終わったあと時間はあるかい?」

「え? いえ……茜先輩をお送りしたあとは真っ直ぐ家に帰るだけですけど」

「じゃあ仕事帰りにラーメンでも食べに行こう。酒は飲まなくていいから安心したまえ」

「えっ、――茜先輩とご一緒していいんですか!?」

「朝、私の学生時代の話をすると約束しただろう? いつ話そうかずっと考えていたんだ」

「あ、茜先輩が……俺の事をずっと考えて……」

 今にも成仏しそうな九段坂に苦笑しながら、「ほら、早く行かないと仕事の時間が始まってしまうよ」と、私は九段坂の手を引くのであった。


〈続く〉

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