空気人間

芹沢カモノハシ

空気人間

◆登場人物

 チャールストン博士…心理学の権威として世界的に有名。今までに約千人ほどの患者のカウンセリングを担当。著書に「精神病理論」がある。

 男…チャールストン博士の患者。



開幕

 舞台上には白いひげを生やしたチャールストン博士が椅子に座っている。舞台奥には博士のものと思われる机、机上に無数のカルテとパソコン。

 舞台袖より男。猫背気味。顔色がひどく悪い。そのまま舞台中央まで行き、博士の前の丸椅子に腰かける。


男「先生、私の話を聞いていただけませんか」

博士「なんだね君は。予定にはないはずだが」

男「お願いします先生。私は酷く困っているのです」

博士「…幸い今日はもう予定もない。聞こうじゃないか」

男「ありがとうございます先生」

博士「いいから話したまえ」

男「はい。…ところで先生は、狂気というものを感じたことはありますか」

博士「急になんだね」

男「大事なことなのです」

博士「わかった、わかったからそんなにじっと見つめるのはやめたまえ。答えられる質問も答えられない」

男「失礼しました」

博士「…それで、狂気を感じたことがあるか、だったかね。勿論あるとも。私がどんな仕事をしているか、知らないなんてことはないだろう」

男「そうではないのです先生。自分の狂気です」

博士「自分の?」

男「そうです博士。自分の狂気を自覚したことがあるか、と質問したいのです」

博士、あごに手を当て数舜考える。


博士「…ないとも。当然だ、自分が狂っているかどうか、わかる人間はいない」

男「何故です先生」

博士、溜息を吐きカルテを手に取る。

博士「いいかね君。このカルテはまだ何も書かれていない、真っ白だ」

男「ですが先生、黒い線が何本も引かれている」

博士「それは気にしなくていいんだ。この紙の色は白だね?」

男「ええ、白です先生」

博士「だが実際には、君のいう白という色と、私が思っている白とは全く違う色かもしれない訳だ。さて、君。私の白と、君の白。同じだと証明できるかね?」

男、黙りこくって少し俯く。真顔のまま硬直。数秒の後、視線を上げる。


男「できません先生」

博士「ほう、それは何故かね」

男「私はあなたではないからです。私が見ている世界を、共有する方法はない。同じものを見ていたとしても、目で見ている以上は違う世界を見ている可能性を排除できない」

博士「そう、その通りだ。我々が見ている世界が他人と同じとは限らない。狂気も同じだよ。例えば私が狂っていたとしても、私自身には狂っていることはわからない」

男、ほうと息を吐く。顔色はまだ青い。

男「そうでしょう先生。それが当然なのです」

博士「君は何が言いたいんだね。こんなことについて聞きに来たわけじゃないだろうね」

男「違いますとも先生」

博士「ではなんだね」

男、少し視線を泳がせる。数秒、意を決したように口を開く。


男「…私は、もうすぐ狂うのです」

博士「…何?」

男「私には自分の狂気が分かるのです。いいえ、狂気というのは違うかもしれない、ですが私は、もうすぐ狂おうとしている」

博士「要領を得ないな」

男「すみません先生。ですが少しづつ、少しづつ言わないと、私の頭はどうにかなってしまうのです」

博士「いいとも、話したまえ。君の話に興味が出てきた」

男「ありがとうございます先生」


男「私は自分の狂気を自覚しています。今この瞬間にも、私はどんどん狂い続けている」

男「風船のように膨らむのです。割れないまま、視界いっぱいを、私の中を埋め尽くすのです。そうして、いずれ私の正気はその狂気の風船に押しやられて、つぶれてしまうのです」

男「赤い風船なのです。真っ赤、目が痛いほどに鮮やかな赤なのです。それが私の目になるのです。瞳が、脳が、そして全身が、私はいずれ赤になるのです」

博士、静かに男の語りを聞く。

男「私がこの狂気の風船があることに気づいたのは、ほんの数か月前でした。その頃の私はいたって普通で、銀行員をやっていました」

男「膨らみ始めたのは夜、一人部屋でテレビを見ているときのことです。私はテレビを見ているはずなのに、何故だかテレビの向こうから、私は見られている感覚があったのです」

男「目です、目なのです。赤い目が、本当のところ赤なのかはわかりませんが、とにかく赤い目がこちらをじっと見ているのです」

男「それからです、私は、どこにいても目を感じるようになったのです」

男「朝起きて、歯を磨いて、着替え、出勤し、仕事をして、帰り、着替えて、風呂に入り、床に就く。どこにいても、何をしても、目が離れていかないのです」

男「そのうち、目が増えました。一つが二つになり、二つが四つになって、今では無数の目が、私のすべてを見つめています」

男「そんな生活を続けている内に、私はあることに気づきました。一方向からなのです。目は常に一方から、じいっとこちらを見つめているのです」

男「ですが、それだけなのです。目はじいっとこちらを見つめて、全く動かないのです。それが、私は却って恐ろしくて、そうして一人でうずくまって震えていたのです」

男「うずくまって震えているとき、私は風船が膨らんでいくのを感じました。その時はとても小さい、トマトのような大きさだったのですが、震えているうち、それがどんどん大きくなって、いつの間にやら世界が全て、赤い大きい風船で埋め尽くされたのです」

男「私はとても恐ろしくなって、そうして、先生の所に行こうと、そういう決断をしたのです」

男、震えて口を閉じる。博士、無言で続きを促す。


男「……私は、その目を、『空気人間』と、そう名付けました」

博士「ほう、それは何故かね。それは、目だけなんだろう?」

男「目だけです。……私はあの目が、私だけを見ているものだとは、到底思えないのです」

博士「…続けて?」

男「あの目は、きっと全員を見ているのです。私だけが特別だとは、どうしたって思えないのです。きっと、あの目のせいで私が狂ったのではないのです。私が狂ったから、あの目が見えるようになったのです。きっと、そういう事なのです」

男「あの目はずっとそこにあるのです。でも、普段は見えない。私のように、少し外れた人間だけが、あの目が見えるようになるのです」

男「だから、私はあの目を『空気人間』と呼ぶことにしたのです。空気は目に、見えないでしょう?」


男、話し終え、息を吐く。博士、少し考え込むそぶりを見せる。

博士「…それで、つまるところ君は何が言いたいんだ?」

男「…どう思いますか。『空気人間』について。そういうものだと、そう思いますか」

博士「……いいや、思わないな」

男「…そうですか」

博士「…正直なところ、君の話は興味深かった。しかし、それは君の話が興味深かったわけではなく、君のその症状が興味深かったのだ」

男「と、言いますと」

博士「君のそれは全て、君の妄想である可能性が非常に高いという話だよ。君の話には、何一つとして確実な物がない。すべて君の視点から観測されたものだ。それを、どう思うかといわれても、全く君の考えすぎだと、そう言うしかないね」

男、失望したように息を吐く。無言のまま、席を立ち、袖へとはける。


博士「…全く、なんだったんだ、あの男は」

博士、溜息を一つ吐く。椅子を回し、観客席の方を向く。

博士「──『空気人間』なんて、酷い妄想だ。君たちもそう思うだろう?」


暗転。終幕。

観客席からは、何の物音も聞こえない。

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