東京二十三区外区

「───間もなく発車いたします。次は東池袋、次は東池袋」

 くぐもったアナウンスが耳をくすぐり、わずかに意識が浮上する。寝ている間に電車は池袋を出発したようだった。───また意識が沈んでいく。

 うだるように暑い夏の日だった。

 朝起きると、六畳一間の安アパートには熱気がこもっていた。昨晩胃に落とした弁当の残りはすでに甘ったるい匂いを発し、蝿の朝飯となっている。飲みかけだったビールは蒸発し、コップの底に粘つく黄色を残していた。二日酔いの頭が痛む。

 駅に向けて歩き出すと、太い陽光に熱せられたコンクリートの地面が、たちまち靴底を溶かし始めた。陽炎は大地と空の境界を曖昧にする。この世の全てが陽炎に溶け合う幻覚に、目眩を堪えて歩いた。駅に着く頃には、開襟シャツは汗を吸って重く濡れていた。

 最寄り駅はいつも混んでいる。隣に座ったのは、派手な色のタイトスカートを着た女子大生。彼女は、私のシャツに触れると、たちまち嫌悪の表情を浮かべた。

 こういう時は目を閉じて眠ってしまうに限る。

 いつも電車の中では眠っている。目を覚ました時には職場の最寄り駅。もう何年も繰り返してきた習慣だ。

 最寄りの私鉄は地下鉄に直結している。このまま眠っていれば、私の身体は、池袋から地下鉄に入り、東池袋、江戸川橋と、東京の中心へと運ばれていく。仕事への意欲はとうの昔に失われたが、毎日、歯車の一つになる義務は残っていた。

 鋼鉄のゆりかごの中で、昨晩ネットの掲示板で見た都市伝説の夢を見た。

「官僚の従兄弟から聞いた話だけど、東京には労働者がいないらしいな。郊外から都心に電車で通勤してる間に、乗ってる人がロボットに入れ替わるんだと」

「嘘乙。それなら乗ってた人はどこいくんだよ?」

「池袋から東池袋で入れ替わって、別のところでバカンス楽しんでるらしいな。国の福祉政策だと」

「じゃあ、誰も働いてねえの?」

「いや、福祉を受けるに値しない人間は、それに気付かずに働いているんだと」

 ───まどろむ意識に電車の音が近づいてくる。身体の中には、まだ夏の熱気がこもっている。寝苦しさにふと、眠りから覚めた。隣に人の気配がない。あの女子大生はもう降りたのか?

 目が開き、周りを見渡す。私以外に一人も乗客はいなかった。鋼鉄の箱は、その中に冷え冷えとした静寂だけを乗せて走り続けている。

「東池袋、東池袋です。右側のドアが開きます」やがて電車は速度を落とし、駅のホームに停まった。空いたドアからは乗客が流れ込んできた。

 女子大生がいた。派手な色のタイトスカートを着ている。その子は迷うことなく私の隣に座った。私はそのスカートから目を離せない。

「………え? 同じ人?」

 思わず呟きが漏れる。

 カチャカチャと奇妙な音が響く。見上げると、全ての乗客がじいっと私を見ていた。

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