第32話 嘘じゃない。



「クロ様。ボクは未白くんに、殺されたいんです。その願い、叶えて頂けますか?」



 その言葉を聞いた瞬間、クロの瞳から色が抜ける。


「…………」


 そしてクロは、その冷たい瞳で値踏みするように、汐見さんの姿を眺める。


 とても冷たい沈黙が、辺りに広がる。青い空から降り注ぐ日差しは春の暖かなものなのに、屋上に吹きつける冷たい風とクロの真っ赤な瞳が、その暖かさを拒絶する。


 だからこの場には冷たい空気が広がって、そして不意に……クロは言った。



「それは嘘だな、汐見の娘よ」



「……どうしてそう、思うのですか?」


「どうして? 笑わせるな、小娘。我は神だぞ。その我に嘘が通じると、お前は本気で思っているのか?」


 クロの瞳が、相手を睥睨するように鈍く光る。そこにはもう、制服を着てはしゃいでいた少女の面影はどこにもない。


「……クロ様がそこまで仰るのなら、きっとそれは真実なのでしょう。けれどボクは……少なくとも今のボクの本心は、先程の言葉に相違ありません」


「自覚がないと、言いたいわけか。しかし汐見の小娘よ。どう考えても、お前の態度はおかしいのだ」


「…………」


 汐見さんは言葉を返さない。たがらクロが、言葉を続ける。


「……未白の苦しむ姿が見たい。そんな未白に、自分だけは優しくしたい。お前はそんなことを言っておきながら、未白を殺し、今は逆に未白に殺されたいなどと宣う。……汐見の娘よ。お前の本心は、一体どこにあるというのだ」


 ……そう。クロの言う通り、汐見さんの態度は支離滅裂だ。彼女の言葉や言動は、ループする度に別物になる。


 俺のように前の時の記憶を引き継げるなら、その変化も頷ける。けど、何も覚えていない筈の汐見さんの態度がころころ変わるのは、どう考えてもおかしい。


「汐見の娘よ。我はお前が、嫌いではない。故、もう一度だけ問う。……お前の望みは、なんだ?」


 誤魔化すことも逃げることも許さない、クロの鋭い眼光。


「…………」


 そんな瞳で睨みつけられても、汐見さんは動じない。彼女はクロに対して敬意を払っているが、恐れてはいない。だから汐見さんはどこか優雅さを感じさせる姿で、クロに向かってこう言った。



「クロ様。それでもボクの想いは、変わりません。ボクは本当に、未白に殺されてみたいんです。真っ直ぐな殺意で、ボクだけを見つめて欲しい。だから──」



「もうよい。お前の気持ちは、よく分かった」



 汐見さんの言葉を遮って、吐き捨てるようにクロは言う。


「汐見の娘。お前の胸の内には、さぞや色んな想いが渦巻いているのだろう。後悔、嫉妬、羨望、諦観。そんな感情が、常に胸の内で暴れ回っている。故、お前の態度はころころ変わる」


 それは汐見さんに限らず、誰にでも当てはまることだろう。……けど汐見さんの想いは、他の人とは比べ物にならないくらい重くて深い。



 だから彼女は、異様に見えるのだろう。



「……しかしな、汐見の小娘よ。複雑そうに見えるお前の心は、たった一言で簡単に説明できる。要するにお前は、未白に恋をしているだけだ」



「────」



 クロのその言葉は、とてもありふれたものだった。でも汐見さんはその時初めて、恐怖したような目でクロを見た。それこそまるで、ずっと本心を隠していた仮面にひびが入ったように。



「……すみません、クロ様。少し、考える時間をください」



 汐見さんは顔を隠すように下を向いて、そのまま早足に屋上から立ち去ろうとする。


「待ってください、汐見さん」


 けど俺は、その背を引き止める。


「……何かな? 未白くん。悪いが今は、少し考える時間が欲しいんだ」


「すみません。でも……いや、じゃあまた連絡します。だから今度はもう少しお洒落な場所で、ちゃんと話をしましょう」


「……うん。待ってる。……ありがとう、未白くん」


 汐見さんは囁くようにそう言って、今度こそ屋上を後にする。


「うまくいったな? 未白」


 汐見さんの姿が完全に見えなくなってから、楽しそうにクロは笑う。


「……どこがだよ。お前また、俺が言ったことと全然違うことばっか、言ってたじゃねーか」


「知らんのか? あれはアドリブというものなのだ。いい役者は、アドリブが上手い。故、もっと我を褒め称えよ」


 クロは先程の威厳なんて嘘のように、くるくると回りながら頭を俺に差し出す。


「まあいいや。予定とは違うが、汐見さんの本心に迫れたのは事実だ。……よくやったな、クロ」


「うむうむ。お前に撫でられるのは、気持ちがいいな。家に帰ったら、ちゃんと脚も揉ませてやるからな?」


「……調子に乗るな」


 軽くクロの頭を叩いて、赤らみ出した空を見上げる。


 俺はこの場で、汐見さんの願いが聞ければそれでいいと思っていた。嘘でも本当でも、神の前で言った言葉には必ず意味が産まれる。


 そして汐見さんも、そのことを知っている。だからいくら汐見さんでも、クロの前で下手な嘘はつけない。そう考え、この場にクロを連れてきた。


 ……でもだからって、汐見さんのあの願いは完全に想定外だった。そしてそこからのクロの対応もまた、俺が予想していたものと違っていた。


「何を惚けておる、未白。そろそろ帰るぞ? 我は腹が減った」


「……そうだな。じゃあ、その辺で肉でも買って帰るか」


「うむ。今日はパーティーだな!」


 クロと並んで、屋上を後にする。そうしてその日は、何事もなく終わりを告げた。



 ◇



 汐見しおみ 奈恵なえは、赤い夕焼けを見上げながら、早足にいつもの帰路を歩いていた。


「……未白くんに恋をしている。そう言われただけで取り乱すなんて、ボクもまだまだだな」


 未白に、恋をしている。そう言われた瞬間から、奈恵の心臓はずっとドキドキと高鳴っていた。……けれど奈恵は、自分でもその高鳴りの意味が分からなかった。


「ボクはただ、未白くんに意識してもらいたいだけ。それが敵意でも殺意でも、ボクにとっては何も変わらない。なんせボクは、彼のあの赤い瞳で見つめられるだけで……幸せなんだから」


 だから、未白に殺されたいというあの願い。それは別に、嘘をついたわけではなかった。……いや寧ろ、未白に殺されることこそが、今の奈恵にとって1番望ましい結末だった。


「この世界はもう、長くない。未白くんもあさひも、クロ様やシロ様でさえ、そのことに気づいていない。現存する唯一の神である、クロ様とシロ様。その2人が弱っているということが、何を意味するのか。誰もそれに、気づいていない」


 だからこの世界は、もうすぐ終わる。そしてどうせ消えるなら、未白の手で終わらせて欲しい。奈恵は本心から、そう思っている。


「……でも、未白くんに恋してるだけ、か」


 けれど、クロのその言葉。その言葉を聞いた瞬間、奈恵はまるで本心を言い当てられたように、何も言うことができなくなった。


「ボクのこの想いは、そんなに単純じゃない筈なんだけどなぁ」


 でもどうしてか、この胸の高鳴りはとても心地いい。だから奈恵は、クロのあの言葉を否定することができなかった。



「──随分と楽しそうだね、奈恵さん。まるで、恋する女の子みたい」



 唐突に響いた声に、奈恵は慌てて顔を上げる。



「こんにちは、奈恵さん。楽しそうなところ悪いんだけど、そろそろあの約束を……果たしてもらいたいの。……構わないわよね? 奈恵さん」



 そんなあさひの言葉を聞いて、奈恵は静かに覚悟を決める。



「ああ、無論だとも。だってボクはその為に、ここにいるのだから」



 翌日。今までにない形で、1人の少女が死ぬことになる。けれど未白とクロは、まだそのことに気がついていない。


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