第19話 ドキドキと。
6月9日。
「さ、行きましょう? 未白」
莉音はそう言って、いつものように綺麗な金髪をなびかせる。
「ああ、そうだな。行くか」
俺はそんな莉音に努めていつも通りの笑みを返して、ゆっくりと歩き出す。
莉音が唐突にうちを訪ねて来た、翌日の放課後。約束通り、2人でデートすることになった。だから今日は紗耶ちゃんとの会話の練習を休みにして、莉音と2人並んで歩く。
「それで? 莉音。どこか行きたい所はあるか?」
「未白と一緒なら、どこでも構わないわ」
「そういうのが、1番困るんだけどな」
「そう? じゃあ、あんまり遠くに行く時間もないし、近くの自然公園に行かない? あそこによく来る移動販売のクレープ。凄く美味しいのよ?」
莉音は、笑う。昨日はあんなに悲痛な表情で泣いていたのに、今は見る影もない。
「…………」
俺はそれが、少しだけ不安だった。
「あれ? どうしたのよ、黙り込んで。もしかしてクレープ、嫌いだった?」
「いや、好きだよ。じゃなくて……久しぶりだな、と思って。こうやってお前と2人で、歩くの」
「……そうね。今はずっと、紗耶が一緒だしね。……いや、よく考えたらあんた、昔もあんまり遊んでくれなかったじゃない」
「あの頃は、必死だったんだよ」
「あたしは今でも、必死よ」
そう言われると、返す言葉がない。
「……それより紗耶には、悪いことしたわね」
莉音は軽く息を吐いて、空を見上げる。空はまだまだ、青い。
「別に、悪くはないだろ? ちゃんと今日は行けないって、事前に伝えてあるんだから」
「バカね。そういう意味じゃないわ」
「じゃあ、どういう意味だよ」
「……内緒」
莉音はまた、笑う。その笑みはどこまで行っても晴れやかで、見ているだけでドキドキと心臓が高鳴る。
「まあいいよ。それより、自然公園に着いたぜ? クレープって、どこで売ってるんだ?」
「そんなに急がなくても、いいじゃない。もっと、ゆっくり歩きましょ?」
莉音はそう言って、俺の腕を抱きしめる。
「…………」
そんなことをされると、莉音の大きな胸が俺の腕に押しつけられて、昨日のことを……思い出してしまう。
「あ、未白。ちょっと顔、赤くなってる。……なに? あんた、こうやってちょっと胸を押しつけられたくらいで、赤くなっちゃうくらい初心なの?」
「違うよ。お前だから、ドキドキするんだよ」
「はぁ⁉︎ あ、あんたなに言ってるのよ! そ、そんなこと言ったって、別にクレープ奢ってあげないわよ? 精々、ジュースくらい!」
「ま、冗談だけどな」
「……! このあたしをからかうなんて、いい度胸してるわね、未白!」
莉音は顔を真っ赤にして、俺の頬を引っ張る。……そんなことをされると、やっぱり可愛いなって思ってしまう。
「痛い痛い。悪かったって、許してくれ。クレープ、好きなだけ奢ってやるからさ」
「……ほんと?」
「ああ、ほんとだよ」
軽く笑って、莉音の頭を撫でてやる。すると莉音はもっと顔を赤くして、恥ずかしがるようにうつむいてしまう。
「……ううん。やっぱり、奢らなくてもいいわ」
「どうしてだよ? 金ならたくさん持って来てるぜ?」
「そうじゃないわ。……そうじゃなくて、他に頼みたいことがあるのよ」
莉音は小さくはにかんで、俺の手をぎゅっと強く握りしめる。
「今日はずっと、こうやってあたしの手を握ってなさい。それがあたしからの、命令よ」
「頼みじゃなくて、命令になってるな。……でも、それくらいなら構わないよ」
俺も莉音の手を、ぎゅっと握る。莉音の手は思っていたよりずっと小さくて、温かい。
「……あはっ。あんたの手、温かくて気持ちいい」
「なら、よかったよ」
そうやって、2人で手を繋いで歩く。
平日の午後だからか、自然公園にはあまり多くの人影はなく、風が木々を揺らす音が静かに響く。夏を前にした日差しも今日は少し柔らかで、自然と頬が緩む。
「あ、今日もクレープ屋さん、ちゃんと来てる。……あんた、何にするの? あたしは苺」
「俺は……チョコバナナかな」
「分かった。じゃあ、あたしが買ってきてあげるから、あんたは飲み物でも買って、そこのベンチで待ってなさい」
「いいのか?」
「それくらい、構わないわ。……あ、でも、あとでお金は返してもらうからね」
「分かってるよ」
そうして一度別れて、近くの自販機でアイスティーを買う。そして早足に、約束したベンチに戻る。
「こっちこっち!」
するともうクレープを買い終えた莉音が、子供みたいな笑顔で俺の方に手を振ってくれる。
「…………」
そんな莉音の姿を見ると、またドキドキと心臓が跳ねる。
「なにぼーっとしてるのよ、未白。早く座りなさい。クレープ冷えちゃうわよ?」
「クレープに、冷えるとかないだろ? ……ほら、アイスティー。前にこれ、好きだって言ってただろ?」
莉音の側にアイスティーを置いて、クレープを受け取る。
「……ありがと。その……覚えてて、くれたのね?」
「それくらいはな」
隣に座って、クレープを食べる。
「うん。美味い。クレープなんて久しぶりに食べたけど、やっぱり美味いな」
「でしょ? ここのクレープ、凄く美味しいのよ」
そう言って、莉音もクレープを食べる。
「美味いか?」
「うん。美味しい。……そうだ。そっちのチョコバナナも、一口ちょうだいよ」
「……いいけど、食べかけだぞ?」
「別にそんなの、気にしないわ」
……まあ確かに、昨日あれだけキスしたのだから、それくらいは今更だろう。
「じゃほら、あーん」
「……あんたって偶に、そういうこと平気でやるから、ずるいのよ」
「なんだよ、ずるいって」
「なんでもないわ」
莉音は顔を赤くして、俺が差し出したクレープを食べる。
「ふふっ。美味しい。……ほら、今度はあんたの番よ? あーん」
「……確かにちょっと照れくさいな」
そうこぼしてから、莉音が差し出したクレープにかぶりつく。……それは予想以上にずっと甘くて、思わず頬が熱くなる。
そんな風にまるで恋人のように、2人でただクレープを食べる。そんな時間は本当に幸せで、いつまで経っても心臓の高鳴りが収まらない。
「ねぇ、未白。もう少し、近くに行ってもいい?」
クレープを食べ終えたあと、莉音は遠くを見つめながらそう言う。
「……いいよ」
「ありがと」
俺の言葉を聞いて、莉音は恥ずかしがるようにゆっくりと、俺の肩に頭を乗せる。
「……昨日は、ごめんね」
莉音は消え入るような声で、言った。
「いいよ。……俺の方こそ、今までごめんな。お前の気持ちに気がつかず、何度も無神経なことして」
「あんたが謝る必要なんて、ないわ。……だってあたし、嬉しかったのよ。どういう形であれ、あんたがあたしを頼ってくれて、凄く……嬉しかった」
莉音が俺の手を握る。俺も莉音の手を握る。
「ねぇ、未白。昨日言ったこと、覚えてる?」
「……ああ、覚えてるよ」
抱いてくれと言われたことも、今日想いを伝えると約束したことも、簡単に忘れられるようなことじゃない。
「覚えててくれて、嬉しいわ。でもね、未白。あれはもう、忘れてくれて構わないわ」
「……どういう意味だよ、それ」
「そのままよ。……昨日のあたしは、どうかしてた。あんたが変な女と同居してると知って、頭に血が上ってたのよ。でももう、大丈夫。こうやってあんたとデートして、自分の気持ちを……理解できたから」
言葉の意味が、分からなかった。けれど莉音は、当然のように言葉を続ける。
「あたしは、あんたが好き。今すぐに抱いて欲しいって思うくらい、あんたのこと愛してる」
「じゃあ、何で……」
「……幸せなのよ。今こうしてあんたとデートできて、あたし凄く幸せなの。この思い出があれば、一生頑張れる。だからもう、抱いてくれなくても大丈夫」
莉音は唐突に、立ち上がる。俺は何も、言えない。
「頑張りなさい、未白。あんたは紗耶のことが、好きなんでしょ? だったらちゃんと、あの子を幸せにしてあげて。あたし……あたしはずっと、応援……してるから」
莉音は震える声でそう言って、俺に背を向けて歩き出す。
「…………」
俺はその背を、ただ見つめる。夕焼けに向かって歩く儚い後ろ姿を、ただ黙って見つめ続ける。
俺は紗耶ちゃんのことが好きなのだから、それが正しい選択の筈だ。
……なのに気づけば俺は、走り出していた。
「待ってくれ、莉音! まだ俺の気持ちを、伝えてないだろ!」
自分勝手にそう言って、莉音の手を握る。
そうしてまた、運命は違う方へと流れていく。
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