愛すべきベートーベン

@mashia

第1話

 明日死んだらどうしようかと思う。約束を果たしていないのに。でも死んでしまえたらいい。

 最後のデーの音をちょうどいい付点八分音符で切って余韻に浸っていると静かで心地よい空間をあなたの拍手が邪魔をした。拍手がなければ私はこのままあなたの存在を忘れられたのに。気配が鬱陶しいわ、早く出ていってちょうだい。

 明日死んだらどうしようか。死んでもいいかもしれない。

 ため息をついていると次郎が扉を開けて入ってきた。

「ちゃんと閉めて」

 と私は言う。次郎は椅子にかけた私の横に立つ。

「千代子さん、熱情を弾いてよ」

「無理よ、もうソナタは弾いてしまったわ」

「千代子さんはいつも僕のためにピアノを弾いてくれない」

「何を拗ねてるのよ坊っちゃん」

 私が次郎の乾いた唇にキスをすると、

「ああ喉が渇いた」

 と、さらにキスをせがむ。

「千代ちゃん」

 その気になって次郎は私の髪を撫でる。

「やめなさい」

 明日死んだらどうしようか。次郎は私のために泣くだろう。自分も同じ海に身を投じるかもしれない。可愛い子だと、ふっと笑った。

「僕と一緒に弾きましょう」

 次郎はもう一脚椅子を持ってきて私を右にどかした。

 パッヘルベルのカノンを弾いているとあなたは旋律を口ずさんだ。ああ、やめて。あなたにはもう嫉妬する資格もない。充分愛したでしょう。

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