1965年(3)
「話か…何かあったようだな」
カシヤノフはそう言うと私の隣へと歩み寄る。アメリカ人らしいアメリカ人、顔はアジア系の要素が若干見える中肉中背の男。
研究所の屋上、バルコニーのような作りの場所で私達は建物際のフェンスのそばにいた。
「あなたの正体がKGBにバレました。ここに来るのもおそらく時間の問題です」
「…外にいる奴らか?何そろそろかなとは思っていたさ」
「ここから逃げてください。私がなんとか…」
「君にまで危険に晒すわけにはいかない。君は何歳だ?」
「35です」
「俺はもう45だ。あとは死にゆく人生しかない。国の為にここまでよくやってきたものだと思っているよ」
「あなたには死んでほしくない。あなたは良い人だ」
「そうか。君のそういうところを俺は評価しているよ…家族がいないんだ。君には話していたか?」
「母親は急性白血病、父親は第二次世界大戦でなくなったと」
「母が18、父が25の時にはもうここにはいなかった。悲しかったよ……君には両親がいるだろ。まだ死ぬべきじゃない」
「いつも死とは常に隣り合わせです」
「そうだ。その一因が俺だ。ナワリヌフ…いやブライアンは俺と一緒にいるべきじゃない。俺一人で逃げてみせるさ」
「…ご武運を」
私はそうは言ったものの彼が無謀なことを行うということは分かっている。
身元がバレ、本国に逃げ切った諜報員はいない。生きてるのかも分からないという状態がほとんどだ。
広いソ連国内を彼は逃げ回る、あるいは殺されるか…そのどちらかだ。
やがてカシヤノフは何か浸るように話し始める。
「…覚えているか?3年前を」
「忘れられるはずがありません。第三次世界大戦勃発の危機でしたから」
「ははっ、そうだよな。あれは我々のミスだ。あそこまで情報を掴めていれば…キューバに核兵器か…」
3年前のキューバ危機。1962年10月14日、U2偵察機がハバナ南方サンクリストバル一帯の偵察の際、ソ連の核ミサイル基地が発見された。
その後アメリカは事態を重く見てカリブ海を封鎖。一触即発の危機に陥るが同年10月28日にソ連がミサイル基地を撤去、アメリカはトルコのミサイル基地を撤去することで和解、同年アメリカが11月21日にカリブ海封鎖を解除したことで幕を閉じた。
カシヤノフは当時「なんとかなったな。キューバが有名な国になる日も近い」と言っていた。
「あの時は本当に焦ったよ。と言っても我々にその情報がきたのは10月22日だったけどな。情報統制が敷かれていたから遅れたんだっけか?」
「えぇ、民衆が知ったら混乱は間違いなく起こりますから。アメリカ人はメキシコやカナダに逃げる難民となるし、ソ連としても東欧諸国にロシア人の難民が増える」
「そういうものか?俺はそういう考える事はあまり得意じゃないんだ」
「今も波乱の時代に変わりはありません」
「冷戦が終わる日はくるか?お前の観点からして」
「始まりがあれば終わりもあります」
「なるほどな。いい答えだ」
カシヤノフはそう言うと歩みを再び始める。どうやら研究室に戻るらしい。
「そろそろ話を切ろう。ここで二人話していると君まで何か言われるからな。大丈夫だ。俺はなんとかしてみせる」
「後は私が…」
「頼りにしている」
カシヤノフ…マルチネスはそう言うと屋上から立ち去って行った。
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午後。帰宅時間となった。いつも通りの日課をこなした。
カシヤノフとは研究所内で今日再び出会うことはなかった。もしかしたらもう逃げたのかもしれない。
私は研究所の外に出ると…すっかり記憶の外にいた人物と出会った。
「おお、誰かと思えばあの研究員ではないか!」
男は嬉しそうにそう言うと私に話しかける。
「カシヤノフは見つかったか?」
「いやいなかった」
「何ほんとか?じゃあ報酬は無しだな」
もともと報酬など期待していない。こいつは今まで何をやっていたのかと疑問を持つ。
「しかしだな。その研究員という名前も呼びにくいな。よし、遅いが自己紹介といこう」
男は唐突にそう言うと
「私はミハイル ジョーヒン。神に似たる子だ、そっちは?」
「私は…セルゲイ ナワリヌフ」
「そうかナワリヌフか、ところでほんとにカシヤノフは見つけられなかったのか?」
「そうだが何かあるのかね?そこまで言うなら自分で捜せばいいだろう」
「ふむ。一理あるが私は他人に自分のやり方をどうこう言われるのは嫌い…」
「おいジョーヒン、見つかったぞ早くこっちに」
突然どこから現れたのかも分からない男に話しかけられたジョーヒンは話すのを一時中断して
「おっとすまない。君の手を借りる必要はなくなったようだ」
「それはつまり…」
「行くぞ!」
ジョーヒンは現れた男に連れられ走り去って行く。
手を借りる必要がなくなった。つまり…
カシヤノフは見つかったのだ。私は急いで彼らの跡を追った。
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