エピソード44 旧約婚

 もう死臭は気にならなくなっていた。

 後はもう、運しだい。これだけの準備は整えたのだもの、きっと無実に違いない。

 思えばひと月以上かけて、彼を完全な状態に仕上げたことになる。これもひとえに残された者の義務、というやつだろう。

 それでも今だけは打ち上げ気分で白ワインを飲む。

 こういうとき、赤ワインの方が雰囲気出るのだろうけど、流石に血液ばかり見続けたせいで、もうそっち系統の色味をしたものは口にできない。


 真理の女神マアトの羽根、すなわち『真実の羽根』と彼の心臓がそれぞれ秤に乗って、魂が罪で重いと傾く。

 その秤の目盛りを見つめるのは冥界神アヌービスで、彼が真実を語れば、オシリスの治める死後の楽園アアルに。

 嘘偽りであれば魂を喰らう幻獣アメミットに喰われ二度と転生できなくなる。


 これが『死者の書』の代表的な内容。

 でも大丈夫、彼は嘘をくるような人じゃない。私が選んだ最高の愛する男性ひと


「『オシリスよ、私は彼を連れて参りました。彼の心臓は良く、秤にかけましたが、神あるいは女神に対する罪は見あたりませんでした。文字と知識の神トートが神々の定めに従い心臓の計量を行ったところ、それは誠実で正しいことがわかりました。どうか彼に食べ物と飲み物を授け、オシリス神の御前に姿を現すことを許可し、永遠の余生をホルスの従者のひとりに加えてください。』」


 包帯越しに彼の身体を撫でる。

 私にできることはもうこれくらい。一生を添い遂げるのは困難な業。離婚率は年々上昇しているし、天変地異とは言わずとも、この頃、不吉な出来事や事件が頻繁に起きている。

 でもそれは現世に固執するからであって、こうして黄泉の国での永久不変の愛を得るのを目的とするなら、途中の停留場とも言うべき現世が荒れているのも文句は言えないよね。


「もうすぐそっちにいくから」

 慈悲を施せば、そのお返しに神の国の扉を叩く資格をお与えになる。

 彼だけを愛するのは簡単なこと。

 事実、彼を奪おうとした女子の顔もまだ鮮明に覚えている。あんな奴らでも人を愛することは簡単にできる。

 でも、本当の愛は、死後の安寧の保護する者なの。それは神の務めであり、私の使命でもある。


「だからもう、苦しまなくていいんだよ」

 二人用の棺に入る。私たちにとっての初夜だ。身体を重ね、魂を結びつける。

 彼があの世を案内してくれるのだから、何も怖れることはない―――――

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