夜咲睡蓮


 睡蓮の花が咲いている。

 セルビシスは抱えていた弦楽器を長椅子に置いて、窓際へ歩み寄った。

 眼下の中庭では白い睡蓮がぽつぽつと花を開いている。遠く離れた大広間からは、時折人々の声や楽器の調べがさざなみのように届いた。疾うに真夜中を過ぎた時刻だというのに、宴はまだまだ終わらないらしい。

 振り返ると、手元の明かりだけを灯した室内は洞穴のように暗かった。小卓に歩み寄り、グラスを手に取る。しばらく前に注いだばかりの酒はぬるくなっていた。

 この頃は気温が高い。この国では、まだまだ序の口といった高さだが、あまり本邸に居つかぬセルビシスにとっては、少々不愉快な気候であった。

「……はやく終わってほしいものだな」

 彼の”正式な”名はセルビシス・シーシャ・サーシアス・ハリーファ。

 そして今いるこの屋敷は、サーシアス本家の本邸である。

 実家の、自分のために用意された部屋で、セルビシスは居心地の悪さを味わっていた。生家だからといって無条件で心地よいわけではない。特にこの、名門サーシアス家においては。

 今代で二百を数える当主をかしらに据える魔術の大家サーシアス。この家において、セルビシスの立場は幼い頃より微妙なものであった。

 生母は第三夫人。本人の才能は高く、また夫たる当主からの寵愛も深かったものの、後ろ盾はぱっとしなかった。セルビシスは現当主の第三子、二番目の男子として生まれ、母親譲りの魔術の才で次期当主候補として有力視されていた。一番目の男子は第五夫人が生んだ子で、魔術の才は欠片もなかったからだ。

 しかし数年後。サーシアス家ほどではないもののそこそこの名家の出身である第二夫人が、男子を出産した。魔術の才のある子を。

 人々の予想と手のひらはひっくり返り、第二夫人とその息子は家内にて大きな権力を握るに至った。そして二番手に下ったセルビシスを邪魔者扱いしはじめたのだ。

 生まれてこのかた下にも置かない扱いを受けてきたセルビシスは、ここで初めて自分への敵意というものに晒された。

 ……それだけなら、まだよかったのかもしれない。

 第二夫人親子は自分たちの地位を確かなものにするため、セルビシスの殺害を目論むことすらしはじめたのだ。生母である第三夫人の死を以て、彼の安息の地は、この屋敷からは消え去った。

 溜め息をついたセルビシスは、なにをするともなくただぼうっと窓の外を眺めた。やるべきことがないのなら寝てしまうのが一番いいとわかっているのだが、耳に障る喧騒のせいか、眠気は一向にやって来ない。

 仕方なく長椅子に戻り、もたせかけてあった弦楽器を抱え直す。なにか曲を弾くわけでもなく、ただ手すさびに弦をはじいた。

 今日の宴は、第二夫人の息子、ヨナキオスの生誕を祝うものだ。

 母親が異なるとはいえ、家系上では弟にあたる人物の誕生祝い。セルビシスも当主から出席を命じられ、久方ぶりに故郷の土を踏んだ。もちろん敵地に等しい場所での宴など楽しめるはずもなく、序盤の挨拶回りだけをこなしたあとはさっさと自室へ引き上げたのだが。

 静かな部屋の中に、弦を弾く音だけが響く。

 思いつくままに手を動かしながら、セルビシスは数か月前に会った少女のことを思いだした。

 ゆはず 梨沙りさ

 数年前に婚約を交わした、将来の結婚相手である。

 名家に生まれついた者のさがとして、彼女とは政略的に知り合い、婚約した仲である。しかし幸いにも、二つ年下のこの婚約者とは、なかなかうまくやれている、とセルビシスは思っていた。顔を合わせた回数はそう多くはないが、定期的に手紙をやりとりし、彼女の明るく遠慮のない言葉に好感を抱いていた。梨沙が二十歳を迎える年に、ふたりは婚礼を行う予定である。

 そうなれば、この面倒な実家から物理的に離れることができる、とセルビシスはそのときを待ち遠しく思った。この婚約は、梨沙がサーシアス家に嫁入りするものではなく、セルビシスが弭家へ婿入りするものなのだ。もうあと数年で、セルビシスは他家の人間になれる。

 婚約者である彼女には、この家の暗いところを味わわせたくはない、というのがセルビシスの本音だ。

 それは自身の生家についてよいところだけを見せておきたいという男のプライド的な側面もいくらかは含んでいたが、大半は年下の少女に精神的な負担をかけたくないという気遣いであった。

 今までに数度訪れた彼女の生家は、居心地のよいところであったから。

 大陸を越えた東の果て。

 極東の島国である彼女の故郷は、どの季節であっても滴るような緑の気配に満ちていた。砂ばかりのセルビシスの故郷とは真逆の、湿った風と色濃い山々に恵まれた土地だ。

 楽器に飽いたセルビシスはもう一度窓辺に身を寄せた。

 乾いた風が伸ばした髪を揺らす。中庭の池はかすかに波打って、きらきらと月光を反射した。

 この家は今夜の池のようだな、とセルビシスは思った。

 きらびやかなのは表面だけ。ほんの少し奥へと覗き込めば、そこにあるのは真黒い泥のような欲と悪意だ。暗く冷たく、粘つくような人間の情が渦巻いている。

 セルビシスは気分を悪くして池から視線を逸らしかけ、けれども途中でふとやめた。底の見えない人工池の上には、夜に咲く睡蓮が白い花弁を開いている。

 宴の騒ぎはまだやまず、この部屋へと押し寄せてくる。

 好ましく思う婚約者を彼らに会わせるのは、やはり気が進まないな、とセルビシスは改めて思った。儀礼上、いつかは婚前の挨拶をしに来なければならないとしても、だ。

 けれどこの、白く美しい睡蓮の花は。

 彼女も気に入ってくれるかもしれない、とセルビシスはわずかに頬をゆるめた。

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