第4話 恭子の物語 恭子の章その1

 はて。ここはどこかね。

 それまでぼんやりと歩いていた恭子は、ふいに我に返った。

 気が付くと辺りは薄暗く、そして、見知った家や商店もないその道を、恭子はきょろきょろと見回した。

 嫌だよ。一体ここはどこなんだい。私は何をしようとしていたんだっけ。

 

 見知らぬ道に迷いこんでしまった不安と、自分が何をしようとしていたのか思い出せない焦りから、恭子は何とも言えない苛立ちを感じた。


 とにかく、家に帰ろう。

 そう思ったのはいいが、果たしてここがどこなのかも分からず、また、道を尋ねようにも誰一人として歩いていない。


 どうしたらいいのか、と途方に暮れつつあったとき、恭子は前方にぼんやりと小さなオレンジ色の灯りが点ったことに気が付いた。


 あれは・・・・・・誰かの家かね。

 よかった。灯りが点くってことは、あそこに誰かいるってことだ。

 ここがどこなのか。どうやったら自分の家に帰れるのか。

 あそこまで行って尋ねてみよう。


 恭子は最近めっきり痛くなった右膝に顔をしかめながら、少しずつ足を前に進めた。


 「あなただけの本を取り扱っています。世界に一つだけの本を、どうぞ」

 近くに見えたそのオレンジ色の灯りは、老いた恭子にとって意外と遠かった。かれこれ10分は歩いただろうか。ようやくたどり着いた頃にはすっかり夜の帳が下りていた。

 それでも、少しずつ近付いてくるオレンジ色の光を頼りに足を前に進めると、ようやくその灯火は正体を明らかにした。

 白い木枠に縁取られた藍色の三角の屋根と壁。水色の扉。一軒の家屋というより小屋といった方がふさわしい大きさのその建物は、扉の上方にあるオレンジ色の灯りを中心として、暗闇の中、ぼんやりと浮かぶかのように立っていた。

 そして、水色の扉に吊るされた木製のプレートに、先程の言葉が白い文字で刻まれていた。

 なるほど、ここは本屋だったのか。それにしてもやれやれ。大きく書いていてくれて助かったよ。もう少し小さかったら読めないところだった。

 恭子は心の中でそう呟きながら、扉のノブを掴み、手前に引いた。


 カランカラン。

 扉に付いたベルが軽やかな音を立てる。


 なんとまあ。

 本、本、本、本の山。

 四方の壁一面に作り付けられた棚いっぱいに並べられた、何百という本が恭子の目に飛び込んできた。

 すごいね。これは立派なもんだ。

 感嘆した恭子だったが、しかし、すぐに違和感を覚えた。

 普通の本屋であれば、本棚に並べられた本には統一性がない。本の厚さ、高さ、背表紙の色の違いなどで、色とりどり、高さや厚さがバラバラで並べられているはずだ。

 だが、恭子の目の前にある本棚には、厚さも高さも色も、全て同じだった。どれも同じ緋色の本。

 同じシリーズの本なのかね。それにしても、ここまで全部一緒ってこと、あるのかい?

 不思議に思って本棚を眺めていると、背後から、

「いらっしゃいませ、お客様」

 という声が聞こえた。

 おや、と思い振り返った恭子の目の前に、その男は立っていた。


 鮮やかな濃い赤色の、肩まである長さの巻き毛。

 トランプのキングのような、くるんとはねあがった口ひげ。

 真ん丸で黒い太縁の眼鏡。

 緑色のダブルボタンのジャケットに揃いのズボン。

 薄いピンク色のシャツに濃いピンク色の蝶ネクタイ。

 そして、日本人かどうか一見して分からない、彫りの深い顔立ち。


 言っちゃ悪いが、変な格好だね。客商売でこれじゃ、お客がびっくりしちまうじゃないか。

 恭子はそう思いながらも、勝手に立ち入ったことを詫びるべきかと思い、

「すみませんね、客じゃないんですよ。道に迷ったもんでね、ここがどこか教えてもらいたいと思って――」

 そう言いかけた恭子の言葉を遮るように、奇妙な格好をした男は、まるで格調高いホテルの支配人のように深々とお辞儀をしながら、

「あなたの本をお探しで?」

と言った。

「いや、あのね、道を教えてほしくて――」

 訂正しようとした恭子をまるで意に介さない様子で、男はダンスを踊るかのように両手を広げながら本棚の前をくるくる回っていた。


 やれやれ。大丈夫かい、この人。もしかして日本語がよく分からないのかい。まいったね。


 恭子はため息をつきながら男を眺めていたが、やがて男はぴたり、とその動きを止めて本棚から一冊の本を取り出した。

 そして再び、恭子に向かってお辞儀をしながら、

「お客様。こちらがお客様の本でございます」

 そう言いながら本を恭子に差し出した。

「あのね。あんた、私の言うこと分かるかい――」

 言いかけた恭子の目には、「澁谷恭子」と本の表紙に綴られた銀色の文字が飛び込んできた。

 なんだこりゃ? 私の名前と同じじゃないか。不思議に思った恭子は思わず差し出された本を受け取り、表紙を開いた。


 恭子の章


 そこにはそう書いてあった。


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