【人間界3】
少女はまだそこにいた。ここを出る前と、どこも何も変わっていない。
複雑な気分である。
案じていた事態が起こらず、大事に至っていない姿にほっと安堵はするが、その一方で、自分の作業を進められる兆しがさっぱり見えないことは、やっぱり喜ばしくない。
「誰、そのおじさん?」
連れ立って浴室に入ってきた見ず知らずの男を見て、少女は若干怯えたように眉をひそめた。
それはそうだろう。正体不明である上に、歩いていることを除けば、見た目にはきちんと(この言い方はこれで合っているのだろうか)死体なのだ。
「すみません、ご自宅に勝手にお連れして。これには事情がありまして」
この家には今、少女以外の人の気配は感じられない。
平日の真っ昼間。まさかこのマンションに、中学生が一人で暮らしているわけではないだろうし、この時間であれば、家族は仕事やら学校やらで不在であることが一般的だ。少女が自死の決行に今日、この時間を選んだ理由は、家族に見つかって失敗することを恐れたからだろう。
つまり、この家に今、少女以外の人間はいない。
うら若き少女がたった一人でいる家の中に、赤の他人がずけずけと入ってくるのは、すでに亡くなっているとはいえ、気持ちのいいものではないに違いない。
家族の留守を狙って自死を決行した。それは、少女の怪しい行動を見つければ即、家族が止めた可能性が高かったということでもある。そのことを、少女自身もわかっているのだ。
ボタンの掛け違いで早まったのでなければいいと、ふとそんなふうに願う。
しかし、それだけだ。魂を回収することだけが任務である自分に、できることなど多くない。
さて、この複雑な事情をどうやって端的に説明したらいいかと悩んでいると、少女は目を見開いて、男のほうを指さした。
「うわ! 足! 足、超ケガしてる! 大丈夫なの?」
なぜか、先程からむっつりと機嫌の悪い男の代わりに答える。
「ええ。大丈夫です。実は先程、この近所で交通事故が発生しまして」
「あ、そういえばすごい音が。さっき、救急車のサイレンも聞こえたよ」
「それです。彼は、その事故でお亡くなりになられた
「え。お亡くなりにって……ピンピンしてるじゃん」
「ええ、不本意ながら、ピンピンしていやがるのですよ。ですので、怪我のご心配にはおよびません」
少女はじっと男を見たあと、こちらを上目遣いで見た。
「それってつまり」
「そうです。亡くなっているのに意識があり、動き、会話ができる。あなたと同じ状態です」
少女は再び、浴室の入り口に立つ男をじっと見上げた。二人の視線が交差する。
二人とも、理由は異なれど、転生を受け入れられないでいる。おそらくそれが、まさしく「死に切れない」状態の原因である可能性は高い。
そこから解決の糸口が見つかるかもしれない期待はあるが、原因の結論付けには、まだ材料が少ない気がした。
「わたしと同じって、その人、立ってるよ?」
「しかも、歩けます。その点、あなたより上級者と言えるかもしれません」
こうなると、半分ヤケクソである。
「何で花なんか持ってるの?」
「それは……詳しいことは、わたくしにもわかりません」
背後に立つ男をチラッと窺ってみるが、説明してくれる気はなさそうだ。
「ふーん」
少女にも男の素っ気なさが伝わったのか、そもそも花になど興味がないのか、その返事は軽い。
「それより、奇妙なイキモノが訪ねてきませんでしたか?」
辺りを用心深く見回しながら、問いかけた。
「ネコちゃん以上の?」
「ネコちゃん……」
死神よりはマシ、と喜ぶべきなのだろうか。
「誰もきてないけど」
「そうですか」
一安心する。
もっとも、アレが訪ねてきていたとしたら、彼女と再会することは叶わなかっただろう。
「……おい、そいつ」
ようやく男が声を出した。
「自分で、手首を……?」
後ろを振り返れば、頬を引きつらせている。
「ええ、そうです。彼女は自ら命を絶ちました。まぁ、この通りお喋りですが」
喋らなければ、少女はどこから見ても立派に自死死体であるわけで、初めて目の当たりにすれば、大抵の人間はおののくはずだ。彼が怖がったり気分を悪くしたりしても、おかしなことではない。
とは言っても、そういう彼だって死体なのだけども。そう考えると、なんともシュールな場面である。
もしかして、彼は口やかましいだけで、意外にもナイーブなのだろうか。そう思ったのだが、どうやら、そういうことではないようだ。
「何を……やっているんだよ。バカか、お前は!」
突然、前に歩み出てきた男が、少女を殴り飛ばしかねない形相だったため、慌てて腰にしがみついて止めた。それでもなお、男は踏み出して、少女に掴みかかろうとする。
「お前、まだ中学生だろ! そんな若いうちから人生投げてどうするんだ!」
「落ち着いてください。骨が飛び出すどころか、膝から下がもげますよ」
「うるせえ!」
「嫌だ、怖い!」
男の唐突な豹変に、少女が浴槽に身をよじる。
「どうしたのです。今の今まで落ち着いていらしたのに」
「死にたくなくても死ぬしかないやつだっているっていうのに、自分で死を選んだ? しかも、こんなガキが! 落ち着いていられるかっての!」
「お気持ちはわかります。しかし、ここはどうぞ冷静に」
「ちくしょう、ふざけんな!」
男の気持ちは理解できた。
早すぎる突然の死は、やはり受け入れがたいのだ。納得なんて、到底できない。そして、それは決して恥ずかしいことではなかった。
仕事を定刻より早めに切り上げて、赤いバラの花束を購入した男は、愛する人のもとへ向かう途中だったのかもしれない。誕生日なのか、二人だけしか知らない、特別な記念日なのか。何にせよ、自分はまだ生きていたい。でも、それはもう叶わない。
自分と違い、これから先も難なく生きられるはずだったのに、それを自ら終わらせてしまった少女の行為を、男が腹立たしく思っても不思議ではない。
「若いからって……何なの」
震える声で少女が反論を始めた。
「若いと、傷ついたらいけないの? 死にたいって思ったらいけないの?」
「はぁ?」
「わたしがどんな思いで毎日を生きていたか、おじさんにはわからないでしょ?」
「わからねぇよ。わかるわけねぇだろが」
「なら、教えてあげるよ!」
少女は金切り声を出した。初対面の男に頭ごなしに怒鳴られて、未熟な感情の針が振り切れてしまったのだろう。
「お二人とも、どうか落ち着いてください。あなたがたは、どちらも死体なのですよ」
この時間、他の部屋の住人も留守が多いだろうと言えども、まったく無人になっているわけではない。あまりに騒げば誰かに聞きつけられる。しかし、その声は興奮した耳に届かない。
「わたし、中学に入学してから一年間、ずっといじめられてた。きっかけは些細なこと。すぐに疑いは晴れるって思ってたのに、誰もわたしのことを信じてくれなかった」
気持ちが昂ぶっているせいか、少女の話は抽象的で、明確な理由がわかりにくい。
それでも、教室内で何か小さな事件が起こり、例えば、文房具の盗難であるとか、体操服の紛失であるとかで、少女がその犯人に仕立て上げられたのだろう、と推測できた。
「だから、何だ。中学時代が永遠に続くとでも思っているのか?」
男にも、おぼろげながら事情を察することができたようだ。
「人生の中の三年間なんて、ほんの一瞬だぞ」
「大人はすぐそうやって言うから、相談なんてできないんだよ!」
その言葉には、男も怯む表情を浮かべた。
「わたしだって、卒業するまでの辛抱だって、何度も自分に言い聞かせたよ。それでも、一日がものすごく長いんだ。これが明日も続くと思っただけで吐きそうになるのに、あと二年も耐えられないよ!」
少女はぎゅうっと目をつむり、思いの丈を吐き出した声はかすれた。
少女には、もう涙を流す機能がない。
人間の涙には、浄化の作用があると聞く。どんなに大きな悲しみも、泣くことで癒やされるのだと。つまり、もう肉体が機能していない少女の場合、悲しみはただ、その小さな器の中に積もっていくだけでしかない、ということなのだろうか。
それでは、このまま魂が留まり続ければ、いつしか彼女は窒息してしまう。
「ただの、ワガママだ」
男が吐き捨てた。
「身勝手な子供の言い分だ」
「何それ」
「もう少し言葉を選んでいただけませんか。年下の相手に、大人げないですよ」
賛同できる部分は正直ある。だが、今は少女をこれ以上刺激しないほうがいい。
「身体も頭もおかしくなるまで、耐え続けろって言うの?」
「そうじゃねぇよ。それがわからないから、お前はまだ子供だって言うんだ」
「子供だって人間だよ。傷つく心を持ってる。自分だって昔は子供だったくせに、大人になるとそれを忘れちゃうんだね」
「おい、あんた!」
急に矛先がこちらに向けられたものだから、驚いて書籍を落としそうになってしまった。
「こいつ……俺と同じで、死んでも減らず口をきくってことは」
「減らず口の自覚があったとは驚きです」
「ひょっとして、生まれ変わりを拒否しているのか?」
嘘をついたところで、メリットはない。
「はい」
「心残りがあるってことか?」
「心残りと言うより、彼女は、生まれ変わった先の未来に希望を見出せないそうです」
「はぁ?」
男は素っ頓狂な声を上げた。
「生まれ変わっても人生は辛いなら、生まれ変わりたくないと」
「生まれ変わったら、もう別人だろ。何をすっとこどっこいなこと言っているんだよ、このガキは」
「すっとこどっこいって何よ!」
「おい、ちょっと待ってくれ」
こちらを見下ろした男の表情は、自分にとって都合の悪い事実に気づき、絶望にゆがんでいる。
「保留にしてる仕事を完了させてからってことは……このガキがきちんと成仏しないと、俺はこれを届けに行けないってことか?」
腕を持ち上げて、花束をかかげ上げてみせた。
「そういうことになりますね」
「なりますねって、冗談じゃねぇよ」
「でも、そういう条件ですよ」
男は髪の毛を掻きむしる。
「なんとか無理やりにでも、魂ってやつを引っ張り出せないのか?」
「そうしたいのはやまやまですが」
それができたら、これほど苦労しないのだ。
「くっそ、マジかよ。なんとかしてくれよ」
「そう言われましても」
「それなら、俺がその役目を買って出てやるぜ」
浴室内に、愉快げに言う少年の声が響いた。
ハッとして、男の腰にしがみついたまま、目線を上げる。
いつのまにやってきていたのか、明かり取りの窓の桟に腰かけて、全身黒ずくめの少年がこちらの様子を楽しげに窺っていた。
人間で言うところ、十歳前後の年の頃。口角は片方だけが吊り上がり、鋭い犬歯が覗いている。背中には、太いベルトでもって大きな
「よう。『死神書店』の従業員。久しぶりだな」
「カロン……! やはり現れましたか」
まるで舞台の幕がばさりと下りたかのように、浴室内の空気が一変した。
あれほどまぶしい光を取り入れていた窓には今、青紫色の煙が漂っている。人間界の浴室は、身体の汚れを取り除く場所。スピリチュアルな意味合いでも、清らかであるというのが、我々の認識だ。ところが、今は息苦しいほどの邪気に満たされていた。重く、暗い。広さの感覚さえわからなくなってしまっている。
「何……今度は何なの?」
自分のすぐ頭上に足をぶら下げた少年を、少女は首を曲げて見上げた。その顔いっぱいに戸惑いが貼りついている。
「用心してください。彼の言葉に、決して耳を傾けてはなりません」
「何なんだ、あれは……子供?」
異様な空気を引き連れて唐突に現れた少年に、男もいぶかしんだ声音だ。
「庇護欲を刺激するか弱そうな姿は、見てくれだけです。本質は、とても恐ろしい魔物です」
「ずいぶんな言い方だな。手間取っているようだから、助けてやろうとしているのに」
カロンはどこまでも余裕綽々だ。
軽やかに窓から飛び、少女の頭を追い越して、こちらとの間に立ちふさがるようにして、片膝をついて着地した。自身の背丈ほどもある金属製のハサミが、床のタイルに当たり、高い音を反響させた。
その背後で口を開けたままの少女はもとより、男も茫然として、少女への憤りなどさっぱり忘れてしまったかのようだ。休戦状態が思いがけず訪れたことだけが、幸いだ。男から手を放して、カロンに向き合った。
「『死神書店』ではありません。魂管理局記録保管庫です。訂正してください」
立ち上がりながら、けっ、とカロンは吐き捨てる。
「死神の呼び名がふさわしいのは、むしろあなたでしょう。冥界の使者、カロン」
「カロン様、と呼べよ。それとも、気軽に呼び合う仲になりたくなったか? 同じ魂の番人だしな」
「同じではありません。一緒にしないでください」
「冥界の……使者だって?」
その意味するところに気がついたのは、男のほうが早かった。
「耳にしたことがおありですか? 冥界の王・ハデスの名を」
「冥界って……死者の国だよな。ハデスは……悪魔だっけ?」
「近からずも遠からずです。ハデスは死者の国を治める神様。人間が悪魔と呼ぶものも、元々は神様である場合がほとんどですからね。彼は、カロンは、ハデスの飼い犬です」
「言ってくれるじゃねぇか」
カロンは曲げた口の片方から犬歯を見せつける。そうやってすぐに歯をむくところなんて、まさしく番犬のようなのに、その呼び名がお気に召さないらしい。
「ハデス様は俺の飼い主なんかじゃねえ。親代わりだ」
「野垂れ死にしそうなところを拾われて、面倒を見てもらい、そのご恩に死者の管理のお手伝いですか。まんま忠犬ではないですか」
ぎりっと奥歯を噛みしめる音に、エコーがかかる。そうかと思うと一転、カロンは含んだ笑みを浮かべた。
「お前は一度、俺に負けているからな。皮肉でも口にしていないと、悔しくて気が狂いそうなんだろうよ」
「負けてる……?」
引っかかりを覚えたのか、カロンの後ろで少女がささめいた。
「……魂の回収は、勝負事ではありません。そのような言い方はいかがかと」
苦い想い出は棘を持つ。
身体の奥に押し込めてあったそれは、強引に引っ張り出される際に、あちこちにぶつかり傷を作った。引っかき傷によどんだ空気が染みて、痛みに思わず顔をしかめる。
「そんな優等生なことばかり言っているから、俺に負けるんだ」
カロンはせせら笑うと、少女のほうを振り返った。
「お嬢ちゃん」
芝居がかった声を出す。
「生まれ変わりたくない気持ちはわかるが、いつまでもここに留まってはいられないんだぜ」
少女は上半身をびくつかせた。話しかけられるとは思わなかったのだろう。
「かわいい顔をしているのに残念だが、お嬢ちゃんはもう死んだんだ」
「……そんなこと、わかってるし」
少女は睫毛をふせる。
「だめです! 彼の話に耳を貸してはいけません」
「うるさい外野は放っておけ。どうせあいつにお嬢ちゃんは救えない」
「え……? あなたは、救えるの?」
しばたたいた瞳に、期待を込めた驚きが瞬く。
「もちろんさ。俺は、お嬢ちゃんを悲しみから解放するためにやってきたんだ」
「いけません!」
駆け寄ろうと足を踏み出したのとほぼ同時に、カロンが背中に腕を伸ばす。両手で持ったハサミをこちらに向けて振り下ろすと、刃先から突風が起こり、吹き飛ばされた。
限りある室内のはずなのに、十数メートルも後方で腰から床に叩きつけられた。一瞬、息が止まる。
「ネコちゃん……!」
カロンがにやりと笑う。
「術を使える冥界の使者と、天使の小間使いでしかない書店員の差が出たな」
「く……カロン!」
「おい、大丈夫か」
飛ばされた際に、うっかり書籍を手放してしまったらしい。男が拾い、抱え起こしてくれながら、胸元に差し出してきた。
はっと目を見開いたあとで、「お手数をおかけします」と受け取る。
「正直、何が何やらだ。まるきりアニメの世界じゃねぇか。こんなことあるんだな」
そうひそひそと耳打ちしてくる男の声は、決して茶化してはいない。どちらかと言うと、真剣さが滲んでいた。
「けどよ。あいつが悪役だってことは、俺にもわかるぜ」
「ええ。とんでもない悪役です」
「助けるとか、悲しみから解放するとか、適当なデマカセなんだな? あいつは何がしたいんだ。何のために現れたんだ?」
「彼は……」
カロンはハサミを元通りに背負い、再び少女に向き合っている。少女は依然怯えながらも、彼を映すその目に、わずかに希望の光を宿しているように見えた。
恐れていた事態がやってきてしまった。彼が現れる前に、すべてを済ませたかったのに。歯を食いしばる。
「カロン……冥界の使者の仕事は、魂を転生の輪廻から外すことなのです」
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