【人間界1】
「――――どぅっふぁわぁあああ!! ししし死神ぃ!?」
新刊は、すこぶる元気に、驚きと恐怖と拒絶の反応を示した。
学校指定のものであろうセーラー服。紺色のハイソックスは、爪先がぐっしょりと濡れている。両方の耳の上で結んだ長い髪。お湯を張った浴槽に左の二の腕までを突っ込んで、少女は顔を引きつらせてそこにへたり込んでいた。
中学生だ。通達にあった享年通り。
「嘘……信じらんない……黒猫だ。でっか……二本足、二本足で立ってる……マント羽織ってる……なんか本持ってるし……てか、でっか」
「言語崩壊にうろたえが顕著ですね」
思わず感想を漏らすと、少女はのけぞるようにした。
「喋った! しかも、なんか難しいこと言ってるし、ノー感情だし!」
「しかし、元気な新刊だ」
本来なら、そんなことはあってはならない。あるわけがないのだ。
我々が人間界に派遣されるのは、魂の回収のため。知らせが入ってから出向するのだから、現場に到着した時には、魂は身体から離れて、回収される状態にあるのが通常。
つまり、すでに亡くなっていることが当たり前。言うまでもないが、死体は喋らない。はずだ。
「何かの手違いでしょうか?」
首をひねる。
「亡くなっていないとは」
手違いとは言い切れないことは、すでにわかっていた。我々、記録保管庫のスタッフの姿は、生きている人間には見えないはずだからだ。
人間界に存在しうるものではない我々は、生きている人間に認識されてしまうと、いろいろと不都合が多い。任務の遂行の妨げになる恐れがあることはもちろん、彼らの死生観を変えかねない。だから、下界に降りる際は、いつも特殊なフィルターをかけられることになっている。
少女が座り込む足元には、刃が飛び出たままのカッターナイフが転がっている。刃先に付着した血液は、色がくすみ始めている。手首を起点に流れ出た血液が、らせん状にたゆたい、浴槽のお湯を赤く染めていた。
少女の顔色は真っ白で、生気がない。人間界には存在しないモノを目の当たりしたせい、ではないだろう。紫色の唇も、すでに体温を失っている証拠だ。
「ふむ」
やはり、本部が情報を誤ったわけではなさそうだ。
通達の通り、彼女はしっかり亡くなっている。だが、意識があり、言葉を話せる。
「いったい、どういうことなのやら?」
首をひねってひねって、ついには一回転してしまうのではないかと思うくらいの、悩ましさである。
とりあえず、死んでもなお意識がある者(何だそれ)には、我々のフィルターは意味がないということだけは、わかった。
しかし、またもやこのような厄介な魂を受け持つことになるとは。我ながら、なんて引きの強さだ。
魂の回収に手こずった話など、他のスタッフからは聞いたことがない。どうして自分ばかり、このような事案を引き当ててしまうのか。
何が二分の一の確率だ。言い換えれば、フィフティ・フィフティ。かなりの高い確率で負け戦になるということではないか。
とはいえ、嘆いてばかりいられない。
抱いていた嫌な予感は、現場に訪れたことで確信に変わった。気持ちを切り替えて、なんとか早く魂を回収できるように努めなければ。
子供の新刊は、病気や突発的な事故が原因の場合も、もちろんある。しかし、とても悲しいことではあるが、自ら命を絶ってしまうケースも、一定数あるのだ。
そして、我々にとってのゆゆしき問題は、その行為そのものよりも、そのあとにあるのだった。
――――同じ魂の番人だろう。仲良くしようぜ。
鋭い犬歯を覗かせたままで喋る軽薄な声が、ふいに頭の奥で蘇る。かぶりを振った。
周りを注意深く見渡す。
マンションの一室。ファミリー向けの浴室は広さがあるが、閉め切られているために、室内中に白い湿気がこもっている。窓はぴちっと隙間がなく、換気扇も押し黙ったままだ。磨りガラスから射し込むまぶしい日差しだけが、どこか健全な雰囲気で、太陽が高い位置にあることを教えていた。
「……今のところ、気配はありませんね」
とはいえ、やはりもたもたしている時間はないだろう。
通常、身体から離れた魂はその場に留まる。しかし、何らかの理由でさまよい出して、捜し出すのに時間がかかってしまうことは、稀にある。魂が迷子になる、という事例だ。
そうならずに済んだ点はよかったが、顔をしかめずにはいられない。今回は、それをはるかに超えた、最強レベルの厄介なことになりかねないからだ。
新刊が子供である以上、その不安要素については、同僚だって察してはいただろうが、いかんせん彼には楽観的なところがある。事故や病死以外の死因はそうそうないだろうと、高をくくっていたに違いない。確かに希少なことであるのは確かなのだが、今回は別だ。
なんと言ったって、担当者がこの自分だからだ。
まったく自慢ではないし、自慢したくもないが、予期せぬアクシデントやトラブルを引き当てる確率の高さだったら、右に出る者はいないのだ。
案の定、この状況である。
無事に魂を回収するためには、早く原因を解き明かし、どうにかして魂を身体から引き離さねばならない。そうは言っても前例がない。さて、どうしたものか。
また、ひとを小馬鹿にしたあの声が聞こえる。
――――嫌そうな顔をするなよ。
「……死神って、本当にいるんだ」
瞳と声を震わせて、少女がつぶやいた。
「し、知らなかった。死神って黒猫なんだ。しかも、何そのでかさ……幼稚園児くらいあるじゃん……」
そう言えば、先程もそんなことを口走っていた。聞き捨てならない。
「わたくしは死神などではありません」
古来から害獣退治を担うものとして、人間に寄り添ってきた、小さな愛らしいケモノに似た姿であることについては、その印象含めて異論がないが。
「え?」
「あなたは誤解しています」
我々、天界に生きるものだって、人間たちがそう呼ぶモノの役割くらい知っている。命が尽きた場に突然、真っ黒なマントに全身をすっぽりと包まれた、二足歩行する大きな黒い猫が現れれば、そう解釈されても致し方ないところはある。
しかし、正しくは違う。
「わたくしは、書店のスタッフです。正確には、天界にある魂管理局、その中の記録保管庫で働く社員の一人ですが」
「あ?」
少女は戸惑いが上乗せされたからか、怖がっているわりに間抜けな声を出した。
やれやれ、といったため息を吐き出したあとで、その顔を指さす。
「ご存知ないでしょうが、あなたがた人間は亡くなったら、一冊の本になるのです」
「ほ、ほん?」
少女は、無意識だろうが一瞬、この小脇に挟まれた書籍に視線を移した。
「我々の仕事は、本の管理と販売。スタッフである我々が、こうしてこちらに降りてくる目的は、言ってしまえば、商品の仕入れにすぎません」
新刊に正体や目的を明かしたところで、支障はないだろう。今回は少々イレギュラーではあるが、魂を無事に身体から離すことができさえすれば、記憶はすべてリセットされる。
「子供も、老人も、学生も、サラリーマンも、大金持ちも、難民も、スーパースターも、総理大臣も、殺人犯も、みんな同じです。お亡くなりになられたら、みんなそれぞれ一冊の本になり、記録保管庫に並びます」
少女は目をせわしなく開閉している。理解が追いついていないのだ。無理もない。
スタッフが回収に訪れる時には、当人は亡くなっている。派遣されたあとで息を吹き返す魂もなければ、生きている第三者が我々の姿を目にすることもない。
我々の存在も、その役割も、記録保管庫という名称なんてなおさら、誰も知らない。都市伝説とやらで、短い期間で語り継がれたことさえないだろう。
「つまり、これからあなたが向かう先は、天界にある書店です」
あとから尋ねられても面倒なので、最初に告げておく。
「ただし、人間の寿命の決定に、我々は一切関わっていません」
手を下ろす。
「我々は、人間の死を情報として得ることは可能です。それがないと仕事になりませんから。しかし、死そのものの決定権は持っていないのです」
それは事実だ。
天界に存在することは間違いないだろうが、その機関がどこにあって、どういう基準で人間の死を決めているのか、記録保管庫のスタッフはおろか、魂管理局の本部すら知らないはずだ。
いや、知っているのかもしれないが、取り立てて興味もなかった。同僚の言葉を借りれば、そんなことを知らずとも仕事はできる。この件に関しては、まったくもって同意見だ。
「死をつかさどり、運ぶモノを、あなたがたが死神と呼ぶことはけっこうです。そういうやからは実際に存在しますし」
「存在するの……!」
「ただ」
小脇に挟んだ書籍の背表紙を、ぽん、と叩いた。
「そんな不吉ななりわいと、我々の崇高な任務を、一緒にしないでいただきたいのです」
どちらかと言うと、我々は、生命を生み出す側なのだ。
人間たちはそれを実際に見たことがあるというわけではなく、死に対する恐怖や畏怖を、魂を迎えにやってくるモノがいるとして、それに置き換えてそう呼ぶのだろう。そんなことは我々も、もちろん天使たちだって知っている。
そういった天使たちのごく一部は、我々の回収作業について、ひいては記録保管庫という部署を、影でこう揶揄していることも知っていた。
「死神書店」と。
それは我々、記録保管庫のスタッフにとって侮辱以外のなにものでもなかった。
気にしない同僚もいるが、表向きだ。みんな自分たちの仕事に誇りを持っている。心の底では、腹立たしさを感じているはずだ。
そうだ。だから、一緒にされてはたまったものではない。
――――俺も、お前も、人間の魂を導く役目に変わりはないだろう。
いいえ、まったく違う。
「……ほ、本になるって」
少女が弱々しく声を発した。
「販売って……え、いったい誰が、買うの……?」
話を信じたのだろうか。嘘偽りは語っていないわけで、信じてもらえるにこしたことはないが、信じてもらえないとしても、別に困らなかった。それはそうだろう。
書籍を手のひら、もとい、肉球の上で広げて、目を落とした。
「あなたには関係ありません」
「ふわ! 冷たい!」
「あなたはもう亡くなっています。そんなことを気にしたところで、意味がありません」
限りある時間を無駄にしたくない。さっさと仕事を進めたい。ただでさえ面倒なことになっているのだ。
「冷たい上にすごい事務的……スマートスピーカーのほうがまだ温もりある……て、え? な、亡くなっているって」
戸惑う声に応えるべく、手元から目線を上げるが、正直それすらわずらわしい。
「ご自分がどのようなおこないに出たのか、忘れてしまったわけではないでしょう?」
「どのようなおこないって」
まさか本当に覚えていない?
いや、単に混乱しているだけだろう。意識がある以上、自分がどこにいて、どういう状態にあるかは認識できているはずだ。そこについて疑問を抱かないのだから。
「あなたは、自ら身体を傷つけたのではないですか。その結果、無事、という言い方はいかがなものですが、お亡くなりになられたのです」
「え?」
「え?」
二人の声が重なる。まさか自死ではない?
「わたし」
少女は傷を負っていないほうの手をかかげ上げてみせた。
「動けるし、喋れてるんだけど」
「あぁ、そこですか」
だから、困っているのです。とは言えない。
「死んでないじゃん」
その口ぶりは、さながら美容室の鏡の中の自分を見つめながら、思い描いていた仕上がりと違うじゃん、と美容師にクレームをつけるようだった。
そっくりそのまま、こちらが返したい気分である。
しかし、そんなことをして問題が解決しないことなどわかっているし、ちゃんと切り札もある。
「いいえ、ご安心ください。亡くなっています」
「だから」
「ならば、足は動かせますか?」
「足?」
少女は眉をひそめながらも、口元に薄笑いを浮かべた。当たり前じゃないの、と腰を上げようとして、すぐさま顔を強張らせる。
「え……動けない。ぜんぜん」
「ですよね」
「ずっとしゃがんでて、足がしびれてるとか……?」
「痛みは感じますか?」
その問いかけに、少女は浴槽の中に視線を落とす。少しの間が空いた。
「……やっぱり動かないし、痛みも、ない。しびれてるんじゃないんなら……」
「死斑です」
「しはん?」
「亡くなってから三十分もすると、循環されなくなった血液が重力の作用で下部に溜まり、その色がまだら状に現れるのですが……まぁ、難しいことはさておき、要は死体特有の現象です」
「死体? 死体って死体?」
「死体って死体です」
「誰が?」
「あなたですよ。スカートの裾と靴下の間に、わずかにですが死斑が確認できます」
つまるところ、間違いなく肉体はしっかりと機能を終えている、ということだ。
「基本的に死体は動きません。もちろん、痛みなんて感じません」
そもそも喋らないし。
「わたし、死んでるの?」
「ええ、理論上はですが」
「わたし、死んだの?」
「ええ、ええ、亡くなりましたとも。おそらく、魂が身体のどこかに引っかかっているのでしょう。なので、さっさと外に追い出しちゃっていただけませんか」
面倒臭くなってそう答えると、少女はのけぞった。
「なんか投げやり! そんでもって他人任せ!」
「しかたありません。このようなケースが、そうそう起こるものではありません。こちらとしても手に余っているのです」
とうとうそれを口にしてしまった。プロフェッショナルとしてあるまじきだ。
ため息をつきつつ、再び書籍に目をやる。こちらの準備はとうに整っているのだが、魂が身体から頭を出す気配すらない。さて、本当にどうしたものか。
さらに文句を浴びせてくるかと思いきや、少女は急に声のトーンを落とした。
「そっか……わたし、本当に死んじゃったんだ」
しおらしい声に顔を上げる。
お湯の中に揺らぐ赤色を眺めているのか、やや下を向いたその横顔には、寂しさが漂っている。
「ご愁傷様です」
「これで、よかったんだよね。生きていたって、辛いだけだし」
「素晴らしい。その意気です。えいっと魂を押し出しましょう」
「なんだろう。いちいち気にさわる」
少女はこちらを睨んできた。
「わたくしは、きちんと職務をまっとうしたいだけです」
「ねぇ」
「なんでしょう」
「わたし、死んでるんでしょ?」
「その通りです」
「なんで喋れるの?」
「わかりません」
そう答えるほかなかった。
身体には命が尽きた反応が現れているのに、なぜわずかにでも動けて、喋れるのか。それがどれくらい持続するのか、永遠にこのままなのか。何もわからないというのが、正直なところだ。
わからないうちは、その場その場でできる対応をするしかないだろう。
「たぶんさ」
少女は急に目を輝かせる。
「わたしの無念? 未練? そういうのを伝えるためなんじゃない?」
「はぁ」
「わたしが人生に絶望して自ら死を選んだってことは、もうわかってるよね?」
「そうですね。状況証拠があからさまなので」
「で、あなたは死神じゃない」
「ええ、そうです。ご理解いただけましたか」
「それってつまり、わたしは心残りを話して、それを聞いてくれるためにあなたが」
「違いますね」
「はやっ」
「わたくしは本の仕入れにやってきただけ、とさっき言いました」
「その本って、わたしがなるんでしょ? それはつまり、わたしのことが書いてある本ってことでしょ?」
「そうですが、そうではありません」
「どういうこと?」
「第一何ですか、心残りとは」
本日何度目になるかわからないため息をついた。
すぐには作業に入れなさそうだ。こんなことをしている場合ではないのだが、しかたなく書籍を閉じる。
「だから、わたしがこういうことをするに至った理由とか、それまでに、どれだけ辛くて悲しい目に遭ったかとか」
「ミジンコほども興味ありません」
「おいこら、ネッコ」
「わたくしは、辛いことから逃げるためだけに死を選ぶという考え方が、大嫌いです」
少女が、切りつけられたかのような表情をした。
「亡くなってしまってから、辛かった思いを訴えてどうするのです。その辛さは、誰かに伝えるなら、生きているうちでなければ意味がありません。違いますか」
それは持論だが、自身の哲学でもある。
少女は瞳を揺らしたあとで、そっぽを向いた。歯を食いしばる。
「……何も、知らないくせに」
「ええ、知りません」
我々は、新刊の人生について何も知らされない。知ろうともしない。
我々がここですることは、基本的には魂の回収だけ。同情もお説教も範疇外だし、そもそも通常であれば、そんなことをおこなうことはまずあり得ないのだ。
しかし、今回はいつもと違うので、少しばかり気負う必要がある。残業みたいなものだ。
「やり直しましょう」
「は?」
少女が怪訝な目を向ける。
「本になるとは、新しく生まれ変わるための前準備のようなものなのです。生まれ変わって、人生をやり直しましょう」
「やり直す……?」
「今回の人生に、後悔があるのでしょう? 未練とはそういうことではないのですか」
書籍となる際、今の人生の記憶はリセットされる。だから、厳密に言えば、それはやり直すということにはならないだろう。だが、潜在的な魂の記憶は受け継がれる。広い意味では、また人生をやり直せることになる。
「後悔……」
「難しいことはありませんよ。怖いこともありません。我々に魂をゆだねればいいだけのことです。気持ちを楽にして。さぁ、押し出せ魂!」
「――――いや! 生まれ変わりたくない!」
目をしばたたいてしまう。
「何をおっしゃっているのです」
「生まれ変わりたくなんかない」
少女は顔をゆがめた。感情的になったところで、すでに血が通っていないその顔色は真っ白なままだ。涙も出ない。
「命あるものがまた次の新しい命に転生することは、この世界のことわりなのですよ」
「そんなの、知らない」
「知らなくても、そうなのです」
「だって、せっかく辛いことから解放されたのに……」
もしかしたら、とひらめいた。
それが、こういった不可解なケースの原因なのではなかろうか。
それならば、と暗闇に粒のような光を捕まえにいく思いで、説得にかかる。
「ですから、これからは新しい人生がスタートするのです。生まれ変われば、次の人生こそは、きっと明るく素晴らしい生涯が送れます」
「次の人生が明るく素晴らしいって、なんで言い切れるの?」
「それは」
しまった。体裁の良い言葉は逆効果だったか。
「生まれ変わったって、次の人生もまた辛いことが待ってるかも。今度は大丈夫だって、幸せに生きられるって保証なんかない」
それは確かに一理あるが。
「逆もまたしかりでしょう。第一、生まれ変わった次の命に、あなたの記憶は残りません。引き継がれるのは魂そのものだけで、あなたの現在の辛さは持ち越されないのですし」
来世の魂が辛いことに見舞われたとしても、当然のことながら、今ここにいる少女にはまったく関係がないのだ。
「なら、なおさらだよ」
「なんですって?」
「人生は辛いことのほうが多いって、わたしは知ってる。新しく生まれ変わった人が、わたしとは無関係でも、こんな思いをさせるくらいなら、バトンは繋がない」
湿度の高い浴室に、軽快な電子音が響いた。
慌てて書籍を脇に抱え直して、マントのポケットを探る。スマートフォンを引っ張り出した。職務に必要と職場から支給されているものなので、しかたがないが、こういった新しい電子機器は扱いが難しい。
「申し訳ありません」
手間取りつつも三角耳にかざすと、開口一番、謝罪した。
向こう側で、同僚は「いいって。どうせまたトラブってるんだろ?」と理解あるとも皮肉っているとも取れる声を出した。
「おい、声が遠いぞ」
「しかたがないではありませんか。耳に当てないと聞こえませんし、そうなると口元までが遠いので」
スピーカーにしろよ、と言われたが、操作がわからないのでガン無視した。
回収に時間がかかり、案じた、と言うよりしびれを切らした同僚が、連絡をよこしてくることは毎度のことだった。
「早く解決できるように、尽力致します」
「深刻なのか?」
「深刻と言えば、深刻です」
そう言うだけに留める。あなたが楽観視していた事柄がまさに起きたのだ、と文句をぶつけたところで、事態は好転しない。
「そっか。でもまぁ、なんだかんだ言っても、お前はきちんとやり遂げるからな」
「褒めてくださるなんて気色悪いですね。何か企んでいますか」
舌打ちが聞こえたかと思うと、「実は」と切り出してきた。案の定だ。
「そこのすぐ近くで、新刊が出た。お前、そっちも行ってきてくれないか」
「そっちも、って」
「回収にまだ手間取りそうなんだろ?」
「それはそうですが……白紙の書はどうするんです。余分には持ってきていませんよ」
「とりあえず、手持ちの分で間に合わせておいてくれ。あとの分はどうにかするからさ」
「どうにかって」
なんてアバウトな。
「頼むよ、76番。こっちが急に混み合っちゃって、すぐに出向できそうなスタッフがいないんだ。魂が迷子になったら困る」
深く息を吐いた。
「高くつきますよ」
「あぁ、悪いな。帰ってきたら埋め合わせに、上等な鰹のたたきを奢るぜ」
「芋焼酎もつけていただけますか」
また舌打ちが聞こえた。
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