第7話 赤と青の奇跡

僕は彼女を失いたくなくて…失うのが怖くて…もうこの声も聞けなくなるんだって思うと悲しくて。

「陸くん?泣いてるの?もしかして 私のために?」

僕は思わず彼女の手を強く握り締めていた。

「陸くん…痛いよ…」

「ご…ごめん…」

ホットラテのカップを包んで暖かいはずの彼女の手は氷のように冷たくて、僕の手から伝わる体温は彼女の冷たい手を通して吸い取られていく様だった。

「冷たい…」

僕の胸の奥には今までとは違う痛みが走って、右手で胸を抑えていないとその場で気を失いそうだった。

心臓の鼓動が早くなって、またあの記憶が蘇る…「間違いない…」

僕は彼女に死気が纏わりついているのを感じ取っていた。

「私…もう少ししたらホスピスに入ろうと思うの…もう抗がん剤とか使っても延命は望めないみたい…」

僕はなにも言えずに彼女の声を俯いたまま聞いていた。

「陸くん?聞いてる?」

「うん…」

僕は顔を上げて彼女の冷たい手を優しく握った。

「苦しかったね…痛かったね…辛かったね」

「陸くん…私…私もっと…もっと生きたいよ、陸くんとまだ一緒にいたいよ」

握った僕の手の甲に彼女の冷たくて悲しい涙が、いく粒もいく粒も…零れ落ちてきた。

「僕は…僕はまだ上原さんになにも伝えていないし…まだなにも始まってもいない…」

そう呟いて上原さんを見つめた時、あの老婆のような少女の声が聴こえたような気がした。

「わっかってるの?4度目を使うと君は消えてしまうんだよ」

「わかってる…わかってるよ…でも僕じゃなきゃ…僕しか出来ないことって何だ!僕が…僕が喰らうんだ…上原さんの死気を…それしか」

僕はくちびるを噛んで、泣き出しそうになるのを必死に堪えていた。

「陸くん?大丈夫?どうしたの?」

彼女が心配そうに僕の顔を覗き込んた。

「うん…ごめん…大丈夫」

「陸くんにもらってほしいのあるんだ…」

そう言って彼女は、細くなった右手の薬指につけていた指輪を外した。

「これ…私がここで働き出して初めて自分のために買った指輪なんだ…」

「そんな大切なもの…」

「うん…だから陸くんに持っていてほしい…私を忘れないでほしいから」

「…ありがとう」

「僕は…なにもあげるものがない…」

「ホントは陸くんに新しい指輪プレゼントして欲しかったんだけどなぁ…うっそぉ〜」

彼女はいたずらっぽく笑ってそう言った。

「陸くんには…いっぱいもらってるよ…」

悲しげな笑顔でそう言ったあと、シルバーに小さな青いサファイアが2つあしらわれた指輪を僕に手渡した。

僕はその指輪をなくさない様に、収まる指を探していると…赤いリングのある左手の小指にピタリと塡った。

「うん…似合ってるかも」

僕は赤いリングの上に填まったその指輪を見つめていると、背中がどんどんゾクゾクしていくのを感じていた。

「そろそろ行くね…お母さん心配するから」

「送って行くよ」

「いいの…陸くんには伝えたいこと全部伝えられたし…指輪も渡せた…」

それは、まるでもうこの世に思い残すことがないような返事だった。

「上原さん…また逢えるよね?」

「なに?もしかして本気で私に惚れちゃった?じゃあね…陸くん…」

そう言って彼女は店を出て行った。

「彼女…に…死気が…」

僕は左手の小指を強く握って彼女の後を追いかけるように店を出た。

うす暗い闇に駅から漏れる光に照らされた彼女の黒いワンピースが映し出されて、僕は急いで横断歩道を渡った。

「どこに行く気なんだ…」

彼女は金町駅の券売機の前で立ち止まって切符を買っていた。

僕は大きな柱の陰に隠れて彼女が改札を通ったのを確認して後を追う。

ホームに立っている彼女が電車に飛び込むんじゃないかという不安をよそに、東京メトロ千代田線直通の電車がホームに入ってくると、彼女はその電車にゆっくりと乗り込んで一番端の席に座ったのが見えた。

僕は彼女が座ってる対角線上のドア横に立って一挙一動に集中する。

彼女は席に座ったまま微動だにせず、ずっと自分の足元に視線を落としていた。

東京メトロ千代田線は営みが消えた真っ暗な街を走り抜けて行く…車窓にはマンションの窓灯りが月の灯りと交錯して煌めいていた。

千駄木駅に近づくと彼女はゆっくり立ち上がってドアの前に近づいて行った。

「千駄木って?まさか?僕たちの…」

彼女は地下鉄の改札を抜けるとまっすぐ前を見て通い慣れた団子坂を上がって行く…彼女は僕と通った高校に向かっている…その時そう確信した。

時折通る車のヘッドライトが彼女の横顔を照らす…彼女は何かに導かれるようにゆっくり坂を上って行く。

この坂を歩くの何年振りだろう…3年間何百回と上った想い出の詰まった団子坂を…僕は少し息を切らしながら、彼女との距離を保ちながらついて行く。

坂の頂上に近づくと3年間通った懐かしい校舎が見えてきて、彼女は躊躇することなく正門から高校棟へと入って行った。

冷たい北風が僕の身体の体温を奪っていく…その時僕のスマートフォンにLINEが届いているのに気づく。

「陸くん…さようなら」

彼女が非常階段をどんどん上がっていくのが見えて…僕は離れないように階段を駆け上がって行く。

気づくと彼女は北風が吹き抜ける非常階段の踊り場で夜空に浮かぶ青い月を見上げていた。

彼女のワンピースが風に煽られ真っ黒な波の中に漂っているようだった。

「待って!」

漆黒の闇の中に…彼女の真っ黒な身体が飲み込まれていく瞬間、僕は咄嗟に叫んでいた。

「なんで?陸くん…さよならしたはずなのに…」

「逝かないで!」

「もうムリなの…早く逝きたいの!」

彼女が背中を向けた瞬間…僕は彼女の氷の様な身体を強く抱き締めた。

「離して!」

「ダメだ…僕と一緒に逝こう」

「えっ?一緒に?」

「光のいない世界なんて…僕には意味がないんだってわかったんだ!」

「うれしい…ひかるって…初めて呼んでくれた」

彼女は何かを掴む様に指を広げて手を差し伸べる。

僕は5本の指で優しく彼女を受け入れる…左手の小指には2つの青いサファイアが輝いていた。

「さよなら…」

僕はそう言って彼女を抱きしめて、ふたりは真っ暗な闇の中へ溶けていった。


「陸…起きてよ…バイト遅れちゃうよ!」

僕はベッドから飛び起きた。

「どうして?僕たち…」

僕は左手の小指を顔に近づけた…そこにはシルバーの青いサファイアが2つ輝く指輪が填めてあった。

「…夢じゃなかったんだ」

そしてその指輪を外してみると小指にあった赤いリングは消えていた。

「消えなかったんだ…僕は」

「ほらっ急いで!陸っ」

そう言って光は右手を差し出した。

「あっ!」

光の右手の小指には赤いリング跡が残っていた。

僕は光の温かい右手を握ってベッドから起き上がった。

「死気が消えた人間は、また新しい幸せが舞い込むチャンスに恵まれる…」

少女の声が聴こえたような気がした。


           〜おわり〜

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死気を喰らう 柴咲 遥 @haruka1029

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