死気を喰らう

柴咲 遥

第1話 死気を纏った女

「僕はだれと戦って負けたんだ?」

枕が涙で濡れていた…僕はウイルスという敵と戦った感覚のないまま、リストラで呆気なく会社を追われた。

そして一緒に住んでいた彼女も先週ここを去っていった。

もう僕を必要とする人も会社もなくて…行く場所なんてないのに、同じ時間に目が覚めて、顔を洗って、シェーバーで髭を剃って、歯を磨き、髪にワックスを塗ってネクタイを締めて…スーツに袖を通して部屋を出た。 

こんなことがもう1週間も続いていた…

「どこ行くの?君はもう必要ないんだよ!」

聴こえてくるそんな声を無視して今朝も自転車に跨った。

スギ花粉が飛び始めているせいで、3回クシャミを繰り返しながら駅に向かう。

ボールを打ち返すラケットの音が聴こえてくる公園のテニスコートを横目に、商店街を抜けるといつも停めている駐輪場が見えてくる。

いつものように29番のラックに自転車の前輪をはめ込んで、鍵を抜き取った。

まるで、プログラミングされたアンドロイドの様にルーティンが止められない。

「誰か、止めて!誰か…助けて」

金町駅に向かう人波の中で溺れそうになりながら僕の瞳から涙がこぼれ落ちていた。

東京メトロ千代田線 直通代々木上原行きの電車に乗って、空いていた車両の真ん中の席に座った。

電車はどんどんスピードを上げてドアが開きまた閉じる…それを何度か繰り返した時、僕の前に座っていた女性がベージュのトートバックの中からスマートフォンを取り出すのが見えた。

「あっ」

僕は思わず声を出し、隣に座っていた女性が怪訝そうな顔をして振り返った。

「すみません…」

彼女のスマートフォンのケースが僕と同じだったから…たったそれだけのことなのに…けどそのケースはポルトガルのタイル柄で特注じゃないと手に入らないものだった。

「何で…彼女が同じケースを?ただの偶然?」

僕は、ポケットからスマートフォンを取り出す…

「間違いない…やっぱり同じ」

彼女はスマートフォンを強く握ったまま物憂げに、車窓を通り抜く何か別な世界を見ているようだった。

地下鉄は夜の世界に入って車輪の擦り合う音と規則正しい揺れが眠気を誘う。

「あれ?僕はどこで降りるんだ?あっそっか…僕はもう必要ないのか…」

彼女は大手町駅に近づくとスッと立ち上がってドアの近くまで歩きだした。

ベージュのトレンチコートの裾が僕の膝に当たって彼女が会釈をした時、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちているのに気づいた。

僕はそれを見て、何かに導かれるように席を立って彼女の後について地下鉄を降りていた。

彼女は複雑な地下鉄の通路を慣れた足取りで進んで行ってC13a三井住友銀行本店ビルから地上に出ると内堀通りに向かって歩きだした。

突然吹いた春風で彼女の長い髪が炎のようになびいて僕は一瞬たじろいだ。

内堀通りに出て左折すると皇居のお堀が春の光できらめいて、彼女は一瞬止まって眩しそうに眼を閉じた。

「どこ行くんだ?僕はなぜ彼女を追ってるんだ?」

彼女はパレスホテルの前を通って和田倉噴水公園に入って行った。

噴水の水が勢いよく上がったのにも目もくれず、和田倉橋を超えたところで、纏わりついた何かを振り解く様に…急に後ろを振り返った。

僕に気づくこともなく、やっと目的地が見つかったかの様に、皇居を背にして、東京駅丸の内口の方へ歩いて行った。

僕は彼女の目的のわからない行動に戸惑いながらも微妙な距離を保ちながらついて行く。

駅前広場に入ると広場の真ん中で立ち止まって、バッグからスマートフォンを取り出して、東京駅をバックにカメラを自分に向けた。

一瞬彼女の顔が見えて、スマートフォンを見た彼女は悲しく笑っていた。

そして、南口から改札へ入って行く彼女を見失わないように5メートルの間隔をあけてついて行く。

なぜこんなストーカーのようなことをしているのか?もうそんなことはどうでもよくなって、僕は…こみ上げてくる思いのまま彼女を追いかけていた。

通勤する波に逆行していく彼女をなぜか人の波が割れていく…その割れた波を悠々と歩く彼女の後姿を見失わないように…ただ彼女の炎の様な髪だけを見つめていた。

不思議なことに僕には東京駅の雑踏の音など聴こえず無音の世界にいた。

東京駅9番ホームの階段下に来て彼女は上を見上げて少し微笑んだように見えた。

「また電車に?」

彼女は9番線ホームの一番後方に移動して、ホーム端で立ち止まった。

上野東京ライン小田原行の電車がホームに入る瞬間、彼女は線路に向かって一歩踏み出した。

その時、僕は彼女を強く抱きしめていた。

「なんで?死なせてくれないの?」

僕を振り解こうとした彼女を僕はもっと強く抱きしめた。

「なんて冷たいんだ…」

彼女の瞳からは涙がとめどなく溢れていた。


その時、彼女の悲しみと死気が僕に吸収されたような気がした。

冷たかった彼女の身体に体温が戻ってきて、僕を見て恋しているかのような笑顔で気を失った。

「お客様?大丈夫ですか?」

気を失った彼女を駅員が担架に載せて運んでいくのが見えた。

僕は…寒くて震えが止まらず自動販売機の脇で蹲っていた。

「なんなんだ…なんなんだよこれは?」

そんな僕のことなど目に映っていないように、また電車がホームに入ってきて、大勢の乗客が降りて無言で改札へ向かって行く。

「何したんだ?僕は…」

彼女の笑顔とその時確かに聞こえた「ありがとう」の声が僕の中に残っていた。

僕は少しふらつきながら気づくと…東京駅丸の内口から広場に出ていた。

「今の…何だったんだ?僕は…なんであんなこと」

独り言をつぶやきながら、さっき来た大手町の方へゆっくりと歩きだした。

「そこの方…死気を喰ってきたね…」

一瞬ゾクッとする声が耳の近くで聴こえた気がした。

フッと振り向くとビル風が吹き抜けていく隙間に占いと書かれた小さな小屋があるのが見えた。

「こんなところに…占い?こんな時間に…」

僕を避けて会社に急ぐサラリーマンやOLはそんな小屋など見えてない様に早足で通り過ぎて行った。

「あのぉ〜今…死気って?」

僕は吸い寄せられる様に、その小屋に近づいて行った。

そこには、白髪を後ろで束ねた老婆…いや…髪は白いが肌の艶はまるで少女の様な…不思議な老婆のような少女が座ってじっと僕を見つめていた。

「君…今、死のうとしていた人を助けたんじゃな

い?違う?」

透き通ったキレイな声で訊いてきた。

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