第10話 鎌倉長谷のふたり

なかなか梅雨明けしない今年はモヤモヤした私の気持ちそのままだった。


そんな気持ちを払拭できるかも知れない新しい鎌倉での暮らしを私の方が待ち望んでいたのかも知れない。


引っ越しは梅雨明けまじかの夏空が広がる暑い日に始まった。


「やっぱ私は晴れ女よね、おばあちゃん~いいよもう荷物入れたらまた汚れるから~」


引っ越し業者がくる予定の2時間前おばあちゃんは朝から雑巾がけをしてくれていた。


「そぉ?窓も拭かないととね~」


そう言っておばあちゃんは雑巾を絞った。


「あっ薫子」


バイクのエンジン音がして真っ赤なヘルメットが見えた。


「おばあちゃん~今日からお世話になります~」


ヘルメットを脱いでいつものように首を大きく振った。


「あっつぅ~」


薫子はジャケットのファスナーを一番下まで下した。


「だから~薫子ってば~引っ越し業者さん来るんだからね~」


「だってぇジャケット暑いんだもん、着替えてくんね」


白いTシャツにグリーンのショートパンツ姿になった薫子は女の私が見ても惚れ惚れする様なスタイルで長くまっすぐに伸びた白い脚が眩しいほどだった。


そんな薫子が畏まっておばあちゃんと私の前に正座して真剣な眼差しでこちらを見上げた。


「おばあちゃん、久美子、私のわがまま聞いてくれてありがとう、これからお世話になります」


そう言って手をついて頭を下げた。


「なによ~薫子~改まって~」


「これからいろいろお世話になるんだから、一応礼儀としてね」


そう言って大きな声で笑った。


薫子は私より4歳年下だけど、時折大人じみていてドキッとする。


「あっそうだ!これ、引っ越しの…なんていうか」


そう言ってバックから保冷バックに入った箱を取り出した。


「かば田?なんで明太子?」


「ここうちの近くだったから、ここの明太子めっちゃ美味しいよ~」


「おいしそうね~明太子なんて久しぶりだわ~引っ越し片付いたらいただこうかしらね~かおちゃんありがとう、遠慮なく」


おばあちゃんはそう言って台所に戻っていった。


程なくして引っ越し業者のトラックが入ってきて、私の家財道具が新しい住いに運ばれていく。


時間差で薫子の荷物も運ばれてきた。


「これだけ?」


「うん、だって冷蔵庫とか洗濯機、電子レンジとかは久美子の使ってもいいんでしょ?だから後輩にあげてきちゃった!」


「そっそっか…」


おそらく油絵を描くためのキャンパス?それを固定する三脚?絵具とか筆が入ってる木製のケースが奥の洋間に運び込まれた。


「これで全部ですね~ありがとうございました」


「ありがと~お疲れ様でした、良かったらこれ飲んで!」


薫子は大粒の汗が首筋に流れている引っ越し業者にポカリスエッを手渡した。


(いつの間に?ほらっこういうとこ大人じみてる)


「どしたの?」


「ぅううん何でもない」


「終わったの~そろそろお昼にしない?」


隣の台所からおばあちゃんの声が聞こえた。


「ぅう~んお腹すいたぁ」


薫子は背伸びをして大きな身体を反り返らせた。


お米が炊けるいい香りが漂ってくる、3人で食べる週末のお昼ご飯なんて何年振りだろう。


「うわぁ~おばあちゃん!めっちゃ美味しそう」


薫子が大げさに言った。


「かおちゃんが持ってきてくれた明太子だし巻き卵にしたのよ~」


ピンクいろの明太子と黄色いだし巻き卵、大根と人参のツナフレーク炒め煮と大根菜のお味噌汁、そして明太子が一口大に切って出てきた。


「いただきま~す」


「どうぞ~疲れたでしょ」


「なに?この明太子めっちゃ美味しい!」


「でしょ~ここのは昆布で漬けてあるから他とはちょっと違うんだ~」


薫子は得意そうに言った。


「このだし巻き卵も美味しい~」


3人で囲む食事がこんなにも美味しく、癒されることなんだと私はしみじみ思っていた。


家族を失ってひとりで踏ん張ってきたけど、私はもう限界が近づいていたことに気づき始めていた。


「薫子、ありがとね」


「ん?明太子?食べて食べて」


私は真っ白なご飯の上に真っ赤な明太子をのせて味わった。


「うん、ホント美味しいよこの明太子」




8月に入って今までの梅雨空が嘘だったかの様な夏空が鎌倉の空に広がっていた。


「おばあちゃん、おはよぉ~」


「おはよう、かおちゃんは?」


「まだ寝てるぅ昨日も遅かったみたいだし、芸大生も大変なのね~」


台所からおばあちゃんの包丁の音が聞こえてくる。


「おばばちゃん、ごめんねお弁当まで」


食卓には梅ご飯、焼き鮭、味噌入り炒り卵、きゅうりの一夜漬けと根菜たっぷりのお味噌汁が並んでいた。


「久美ちゃんは小学生の頃は好き嫌い多かったけど、バランスよくちゃんと食べないとね」


「いただきます~ ぅう~美味しいぃ」


「良かった、好き嫌いもなくなっておばばちゃんも嬉し」


そう言っておばあちゃんは優しく笑った、おばあちゃんは私のお母さんでもあるんだ。


「行ってきます~」


私は引っ越しして新しく買った真っ赤な自転車で鎌倉駅に向かう。


「まだ8時なのに~なにぃこの日差し」


ジリジリする日差しが容赦なく照りつける中、自転車は軽快に坂道を下っていく。


(今日も平和でありますように…)


六地蔵の交差点を過ぎて左折すると御成町商店街を一気に通り過ぎて8時20分鎌倉駅に着いた。




「おはようございます」


なるべく目立たない様に更衣室に入って制服に着替える。


「おはよう~久美子」


同期の岡田亜希子が話しかけてくる。


「引っ越したってホント?」


「えっうん、おばあちゃんのね」


「そうなんだ…ところで再来週の金曜日なんだけど」


(また?合コン?)


「先輩~この前はどうしたんですかぁふたりでいなくなっちゃって」


後輩の梶野美樹が話に割って入ってきた。


(なんであんたが…ウザイ)


目が合った瞬間、梶野美樹の声が聴こえた。


「私、再来週はちょっと」


「なんですか~予定でも入ってるんですか?もしかして男?」


「ちょっとやめなよ!」


更衣室に入ってきた奏子が制止した。


「冗談ですよぉ」


そう言って梶野美樹は更衣室を出て行った。




職場がエアコンの効いたところで本当に良かったとつくづく思う猛暑日が連日続いて、おばあちゃんが夏風邪を引いてしばらくお弁当も我慢しなければならなかった。


「おばばちゃん、無理しないでねご飯は私たちが作るから」


「ごめんねぇ心配掛けちゃって」


「昼は私がみてるから大丈夫」


「仕事、がんばって!」


「薫子、ありがと、助かる」


昼に冷やしうどんを食べてると薫子からメールが入る。


(おばばちゃんだいぶ良くなったよ、私夕方学校行くから夕食は久美子と食べてきてって)


(わかった、夜7時には終わるからまたメールするね)

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