届けブルーモスクへ
柴咲 遥
第1話 ブルーモスク
「なんなやつ・・・死んじゃえばいいのに」
「死ね・・・」
「あいつホント・・・ウザイ」
「あぁ・・・会社、嫌だな~また課長に嫌味言われちゃいそうだし」
「いい体してんな~」
私は、目線を逸らして目の周りの筋肉を思い切り収縮させて、そしてゆっくりと目を開いて自分の足元に視線を落とした。
「はぁ~ぁ」
今朝も自然と溜息が漏れる朝の通勤ラッシュで混み合う西武池袋線の各駅停車は練馬駅で副都心線の急行中華街行きの電車を待ってゆっくりと池袋駅に向けて動き出した。
「いつからだろう?声、聴こえる様になったの・・・」
私は自分のつま先を見つめながらそう自問自答していた。
あれは、私が小学校5年生の春休みの時だった。
父は私が生まれた頃からプラント建設の仕事で、世界の国々を転々としていて、あまり遊んでもらった記憶がなかった。
小学校の入学式には何とか間に合うように、赴任先のクウェートから帰国して、校門の前で家族3人揃って写真を撮った。
その写真はリビングのフォトフレームに飾られていて、父の少し緊張して、でもどこか嬉しそうな・・・真っ黒に日焼けした顔が、いつも私たち家族を見守ってくれている様だった。
母とふたりっきりのお正月、そんな父からメールが届いた。
<ここでの仕事も4月には終わるから、久美子の春休みにこっちに来ないか?>
そして春休み、私は父の赴任先のマレーシア クアラルンプールに母とふたりで行くことになった。
私は家族3人でファミレスすら行った思い出もなくて、週末になると家族揃ってファミレスに行く友達が羨ましくてしかたなかった。
「お母さん、これ買ってもいい?」
週末に母と行ったショッピングモールの本屋で、私はマレーシアのガイドブックを買った。
その夜ベッドに横になって、買ったばかりのガイドブックのページをめくり、家族3人の初めての家族旅行のプランを考えては、それをノートに書き込んだ。
パスポートも申請して、初めて自分のパスポートを貰って、少し興奮したりして・・・
そしてスーツケースに荷物を詰め込んだ出発2日前の深夜、私は原因不明の高熱にうなされた。
「えっ・・・こんなに?」
体温計を見る母の険しい顔を見て私は嫌な予感がしていた。
「久美ちゃん・・・病院、行きましょう、今からじゃあ救急病院探さないと」
母はそう言ってリビングへと降りて行った。
タクシーで救急病院に着くと私はそのまま入院することになった。
「お母さん、ゴメンね・・・私」
「バカねぇ、何で久美ちゃんが謝ってんの?」
「だって・・・私」
私はそれ以上言葉に出来なくて、枕に顔を埋めた。
「私は、私は大丈夫だから、お母さんひとりでマレーシア行って・・・」
「何言ってるのよ、久美ちゃんだけおいて行ける訳ないじゃない」
母は少し怒った口調でそう言った。
「おばあちゃんに来てもらえばいいじゃない、私は大丈夫、だから、ね、 お願い」
私はこの旅行自体がなくなってしまうことだけはどうしても避けたかった、お母さんがお父さんに逢えるのを楽しみにしていたのが、子供ながらに解っていたから。
「ダメよ、ダメ、久美ちゃんおいてなんてやっぱり行けないわよ」
母は小さな声でそう呟いて病室を出て行った。
私は真っ暗になった病室の真っ白な天井の一点を見つめていた。
入院して3日目、検査をしても結局原因は解らず、熱も下がったので自宅療養をすることになった。
「久美ちゃん、大変だったねぇ」
家に戻るとおばあちゃんが来て、お昼の支度をしていた。
「おばあちゃん、来てくれてたんだ、ありがとう」
こうして今回のマレーシア行きは私だけ留守番となった。
私はベッドに横たわり、自前で作ったガイドブックをめくっていた。
「あぁブルーモスク行きたかったなぁ」
私はスケッチしたブルーモスクを眺めて呟いた。
4月1日、明日お母さんが帰ってくる。
「お土産、なんだろう?」
食卓に包丁の音と、お味噌汁のいい香りが私を包んでいた。
「いただきます」
「うん、美味しいこのお漬物、おばあちゃんが作ったの?」
「そぉ、良かった、久美ちゃんの口に合って」
おばあちゃんはそう言って優しく微笑んだ。
その時、リビングの電話の音が鳴り響く。
「誰だろね?こんな朝早くに・・・」
そう言って、おばあちゃんはリビングに向かった。
「は?はい・・・麻生ですけど・・・は?え?なに?」
おばあちゃんはそう言ったまま微動だにせず受話器を握ったまま震えていた。
「お、おばあちゃん?どうしたの?」
私は恐る恐る、おばあちゃんに近づいていったその時、おばあちゃんは私を強く抱きしめていた。
「なんて・・・こと」
それからのことは正直あまり記憶にない。
ただ、私は6年生の新学期になってすぐ、おばあちゃんの住む鎌倉の家に引っ越すことになった。
引越しの荷物と、お父さんとお母さんの遺品を整理していた時、マレーシアで買った私へのお土産を見つけた。
水色の箱の中にはスケッチブックに描いたブルーモスクの屋根のように真っ青なブレスレットが入っていた。
「お父さん、お母さん・・・どうして?どうして?逢いたいよぉ」
思い出の中でしか逢うことの出来ない両親のことを考えると、私は生きていくことの意味さえもわからなくなっていた。
私はそのブレスレットを握り締めて泣きじゃくっていると、窓からは優しい春の海風がレースのカーテンを揺らしていた。
「あっ」
私は一瞬気が遠くなりそうになって、右手のブレスレットを握った。
電車が池袋駅に着くと、乗客は一斉にドアから吸い出されていった。
「はぁ・・・」
私もゆっくり椅子から立ち上がりその最後尾から改札口に向かって歩き出した。
丸の内線に乗り換えて空いている席に座る、そしてまたいつもの様に視線を足元に落とす。
そぉ、声が初めて聴こえたのは転校した鎌倉の小学校で突然起こった。
鎌倉に移り住んで、私は人と接することが怖くなって、自然と人を避けるようになっていた。
ある日の放課後、ひとり校庭を歩いていると突然サッカーボールが私の後頭部を直撃した。
気づくと私は保健室のベッドの上で横になっていて、目を開けると心配そうな潤んだ瞳が私を見守っていた。
「ゴメン・・・ゴメンな・・・俺が、俺が守んなくちゃいけないのに」
「守る?私を?」
「え?」
その男の子は私の顔を見てびっくりして保健室を飛び出していった。
しばらくして保険室の先生が戻ってきて、その後ろに隠れるようにさっきの男の子が立っていた。
「ほら、橘君」
先生がその男の子を私の前に立たせてそう言うと、その男の子は俯きながら、今にも消えそうな声で私に向かって呟いた。
「ゴメンな、麻生、俺の蹴ったボールで・・・本当に、ゴメン」
どうやら私は、彼の蹴ったサッカーボールに当たって保健室に運ばれたらしかった。
「大丈夫、ただ少しびっくりしただけ・・・だから」
私はそう言ってベッドから起き上がった。
そして彼の少し潤んだ瞳と目が合った瞬間、また声が聴こえた。
「あぁ良かった、怪我してなくて、本当に良かった・・・俺が、これからは俺が守っていかなくちゃ」
「え?」
私は驚いて先生の顔を見ると。
「どうしたの?麻生さん大丈夫?」
と先生は心配そうに私の顔を覗きこんだ。
「はい・・・大丈夫です」
「橘君の家、たしか麻生さんの家の方よね?」
「・・・はい」
「じゃあ今日は一緒に帰ってあげて」
「えっ・・・はい」
「さようなら~お家の方には連絡しておいたから」
「はい・・・先生ありがとうございました、さようなら」
日が暮れて、少し薄暗くなった校庭をふたりは微妙な距離をおいて、でも並んでゆっくりと歩き始めた。
「持つよ、ランドセル」
校門を出たところで、橘君は私のランドセルを左肩に背負った。
「ありがとう・・・」
日が暮れて少し涼しい海風がふたりの間を通り過ぎていった。
海の向こうが未だ少し夕暮れ色に光っている。
(あの時の声は?いったい何?気のせい?頭にボールが当って私おかしくなっちゃったのかな・・・)
少し上り坂を上がって赤い屋根が見えてきた。
「ここ・・・だから、私の家」
「え?あっぅうん」
「じゃあこれ・・・」
そう言って橘君はランドセルを手渡した。
「ありがとう・・・送ってくれて」
「ゴメンな・・・麻生」
彼はそう言うと今来た道を全力で駆けていった。
「何だったんだろう?あの声」
「ただいまぁ」
「お帰りぃ、久美ちゃん頭、平気なの?」
「うん、平気」
「先生から電話あって、おばあちゃん驚いちゃった」
「サッカーボール当たっただけだから・・・ねぇ、おばあちゃん」
「ん?」
「私、私って何だか変?」
「どうしたの?やっぱりどこかおかしいの?」
おばあちゃんは私の目を見て心配そうにそう言った。
「ぅうん、何でもない、ごめんね、心配させちゃって、あぁお腹空いちゃった」
「すぐにご飯にするわね」
私は洗面所で鏡に向かって自分に問い掛ける。
「気のせいよね・・・そうよ気のせい」
そう呟いて、冷たい水で顔を洗った。
食卓にはおばあちゃんの愛情のこもったメニューが並んでいた。
鯖の味噌煮、ひじきの煮物に冷奴、春キャベツのお味噌汁、私はおばあちゃんの作る手料理が大好きだった。
「いただきまぁす」
「ぅん、美味しい」
おばあちゃんはそんな私を見ていつものように微笑んでいた。
週末、おばあちゃんと一緒にお墓参りに出掛けた。
お父さんとお母さんの眠るお墓は鎌倉の海の見える丘にあった、買ってきたお花を供えて手を合わせる。
週末、私は浜辺を散歩したり、図書館に行ったりして、ひとりで過ごす時間が多かった。
週明け朝教室に入ると、橘君が他の男の子と喧嘩をしているのが目に入ってきた。
ふたりとも取っ組み合い、橘君の唇から血が出ていて私は驚いて廊下に出た。
しばらくして、職員室から先生が来て二人を引き離しそのまま職員室へ引っ張っていくのが見えた。
廊下で橘君が私の方をチラッと見て、何かを言い掛けてそのまま職員室へ連れて行かれた。
騒然となった教室で皆黙って机を片付け始めて席についた時、ひとりの女の子が私の机の前に立った。
私は顔を上げてその子と目を合わせた時だった。
「あなたが悪いのよ、あなたなんて転校して来なきゃよかったのに」
「え?」
その子はただ黙って私を見ているだけなのに、私にはその子の声がハッキリと聴こえていた。
「えっ何で?」
私がそう言うと、彼女は少し驚いた様子で自分の席に走っていった。
「私、今・・・また聴こえたの?」
「あの時の、橘君の声も・・・やっぱり」
しばらくすると先生に連れられて、橘君たちが戻ってきて何もなかったかのように算数の授業が始まった。
その喧嘩の原因が私と橘君が一緒に帰ったことを他の男子が見ていて、橘君をからかったことだって知ったのはだいぶ後になってからのことだった。
その時、私は算数の授業に集中出来ずにいた。
「なんで?聴こえるの?なんなの?」
丸の内線が大手町駅に着くと、大勢の乗客がホームに押し出されて行った。
「次・・・か」
私は誰とも目を合わさないように、目を閉じて俯いていた。
「次は東京、東京です、出口は右側に変わります」
社内のアナウンスが流れてメトロは東京駅のホームに滑り込む。
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