四月の話
camel
四月の話
持ち物に油性ペンで名前を書き込む。
新品の上靴に黒いインクが染みていく。
そういえば、同じクラスの浜内くんの上靴はくたびれていた。名前が書かれているから間違えはしない。けれど、浜内くんの上靴はまっさらな白ではなくて、灰色がかっていた。ゆるく伸びた正面のゴムは足を固定する役割をすでに終えていた。少し大きな上着と細かな傷の入ったランドセルとくたびれた上靴。浜内くんの周りはお古が多かった。
影で浜内くんは話題になっていたけれど、誰も浜内くんに声をかけようとはしなかった。いつのまにか、それが当たり前になっていて、浜内くんもこちら側に寄り付かなかった。同じ班になって、給食を囲むことになっても、浜内くんはいないみたいだった。向かいの浜内くんはパン、ソテー、牛乳、謎の煮物を順番に口に運び、給食の皿はすぐに空になっていく。隣の子に話しかけられて目を離せば、一足先に浜内くんは机の上を片付け始めていた。
半年ほど経つと、私の上靴も汚れていく。
浜内くんの上靴はやっとサイズが合いだしたように見えた。あと半年あれば、新しいものに変わるのか、そうでもないのか。浜内くんの兄弟がいたら、またお古なのかもしれない。
班が変わって、私は浜内くんをもっと見なくなった。話しかける用もない。ただ、今の黒ずんだ上靴で浜内くんを連想した自分が嫌だった。
「新しい上靴がいいな」
「まだ履けるでしょう?」
靴を洗うたわしで、靴用の洗剤を馴染ませてお母さんは言う。明るい色に戻るけれど、最初の白さではない。浜内くんの話はしなかった。口にしたら、私自体も黒ずんでいることがバレてしまうような気がした。
お日様で乾いた上靴を上靴袋に入れて学校まで運ぶ。あんなに好きだったキャラクターなのに、今流行りのアニメのキャラクターがよかったと思う。これも声にはしない。
いい子ですこと。今の私はもっとひねくれて、過去の私を誉めている。
午前中の体育の授業で浜内くんが倒れた。
大きなボールが浜内くんの頭を揺らした。私が見ようとしなかっただけで、浜内くんに向けられた悪意は凶暴なものになっていた。先生が駆け寄り、浜内くんは起き上がる。よろよろと立ち上がらせ、先生は浜内くんを支えながら保健室に行ってしまった。
「顔面セーフ」
ボールを投げた子の声が震えていた。
午後の授業には先生が戻っていた。ランドセルを持って慌ただしく消えた他の先生がいたので、早退したのだと思う。
私は机の下、行儀よく足に嵌まった上靴を見ていた。二日前に洗った上靴は綺麗なものだ。しかし、机の影より黒く汚れて見えた。
その翌日、浜内くんは学校に来なかった。
一階の下駄箱には浜内くんの上靴が雑に入っていた。何年も使われた下駄箱に似合う、くたびれた上靴たちを目にする。自分の上靴もお似合いだ。
上靴を脱いで、下靴を取り出した。心の中がざわざわと居心地悪く騒いでいる。
下靴に履き替え、自分の上靴を持って、外の手洗い場に走っていた。持って帰る絵の具セットのジッパーを開けて、赤い絵の具のチューブを上靴にかけた。べっとりと赤くなる。血よりも明るい、おもちゃのような赤色。全部捻り出して、上靴に塗りこんだ。アリスに出てくるトランプ兵はこんなかんじだろうか。刷毛を持っていないのに、童話のシーンが頭をよぎっていた。思う存分塗って、最後に水で流した。上靴はピンク色に染まった。
少しだけ気持ちが晴れて、明日も授業があることを思い出した。今から乾くのか不安を覚えながら、下駄箱に上靴をしまった。
「これからずっとピンクの上靴なんだと思ってた」
翌週に上靴を持ち帰ると、お母さんにひどく叱られた。上靴はすぐにごしごしとたわしで磨かれ、ピンク色は簡単に薄くなった。一時期だけピンク色で過ごしたけれど、すぐに足は大きくなってしまい、次の学年で上靴はまた新品になったのだ。
「浜内くんはどうなったの?」
話を聞いていた娘は不安そうにこちらを見ていた。
「覚えてないわ。それに、お母さんがしたことに意味なんてなかった」
「そっか」
「そんなものよ」
「みんなの上靴もピンクにしたらよかったのに」
「それもありかな」
苦い思い出を引き出しに仕舞いなおして、また手を動かす。つんとしたにおいに顔をしかめる。
一年生になったら。
今度は浜内くんと話せるだろうか。
(了)
四月の話 camel @rkdkwz
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