3-4 笑顔
ガラス越しにレオの背中を見て、ミノルは立ち去った。お昼時が近づいていて、女性の影が多くなった。おそらく、先ほどまでいたカフェに入るのだろう。女性の中に、レオのような大男が混じっている様子を想像して笑いそうになる。
それにしても、レオはあまり元気がなかった。最初のほうはそうでもないように思えたが、途中から明らかに落ち込んでいた。ダンの話をしたからだろう。それとも戦地帰りのPTSDかもしれない。話かけた時、おどおどしていたから精神面が危ない可能性がある。
カフェから離れるにつれ、熱せられた空気と触れ合った肌が熱くなる。ミノルの額に汗の粒ができ始めていた。
ダンとレオは、明らかな凸凹コンビ、いや、カップルだと当時は思っていた。しかし、ダンから馴れ初めを聞いた時は、なんてロマンティックなのだろうと感動したほどだ。ダンのまじめさと、レオの積極さが、互いを補って美味しくなっていくのだろうと思っていた。
それが、自分とのかかわりがきっかけで破局することになろうとは。ミノルの脳の奥がぱさぱさに乾いた。弟の気持ちを考えてみると、やはり自分のことのように悲しく、ぽっかりと思考に穴が開いて、涙が滲まないほどカラカラになる。
冷たいため息を、熱い外気にそっとなじませる。
「さて、問題は今の彼氏くんだ」
人の弟に暴力をふるうとは言語道断だ。ダンもダンで、なぜ生真面目に反省点を考えてしまうのか。男なら、殴り返せばいいのに。ケイトくん、と言ったか、会ったら一発殴ってやりたい。弟の言い返せない性格を知って、サンドバッグとして殴っているのではないか。卑劣だ。
自分の笑みが崩れていくのを、ミノルは感じた。憎悪が顔に出てしまう、それは避けたい。路地裏に入り込む。建物の間で陰になっているため、そこそこ涼めるかもしれない。足元に、干からびたミミズがいた。それを、嗅ぎつけたアリたちがついばみ始めている。
ミノルは目蓋と口角を緩め、その光景を眺めていた。虫の前では、笑顔を取り繕う必要もない。
子どもの頃、ミノルは思ったことがすぐ顔に出る質だった。信仰心の高い両親はそのことで困っていた。ダンも、兄の顔をうかがって、一つ一つ気遣って行動するようになった。それを見たミノルは、幼いながらに良くない状況であることに勘付き始めていた。
ある時本を読んで、笑顔が大事だということを知り、鏡の前で練習し始めた。最初は具合がわからなかったが、形だけでも作っていると、自然と心も晴れやかに澄んでいくように思えた。それに、笑顔でいると周りの態度も変わっていくのだ。以前より、格段にスムーズな人間関係を築けていった。
『ミノル、おこった時は、おこってよ?』
ある日、ダンにそう言われた。彼がマグカップを落として、ジュースを床にぶちまけた時だ。ミノルは笑顔を深め、床と彼の足に付いた飛沫を拭っていた。そうすると、怒りの気持ちを忘れていけると思ったのだ。
弟の言葉に、ミノルは眼を見開く、一緒に笑顔が崩れ、呆けた顔になる。顔中がジンジンと痛かった。ずっと筋肉を使っていたのだろう。弟の瞳に、自分の顔が映っていた。まん丸い自分の瞳を、久しぶりに見た。ダンは、兄の変化に目を丸くし、ジッとミノルの顔を見ていた。どういう気持ちなのか、読み取るつもりなのだろう。
ミノルは、彼の柔らかい頬っぺたを摘まんで引っ張った。「いひゃぃ」と頬を押さえるダン。ギュッと目蓋を閉じている様子が、笑っているように見えなくもない。実際、ジュースで濡れている指で摘まんでいるから、強く引っ張らずに、近くで揺らすだけだ。「やわいな、取れちゃうぞ」とからかいながら、ミノルは声を出して笑った。
どうして彼がミノルの心に気付いたのだろうか。笑顔を定着させる前から様子を見ていたから。弟だから。年が近いから。同じ境遇で育っているから。優しい子だから。いろいろ理由は思いついたが、とにかく、ミノルは嬉しかった。
とはいえミノルは、やはり笑顔を保つことに決めた。習慣付いてしまったのと、ええかっこしいだったことが理由だ。感情をまき散らしていたかつての自分は、他人を見て行動できるダンより明らかに幼かった。だから、成長して感情を制御できる自分を見せつけたかったのだ。
ミノルはダンと違って、親の道徳教育に反抗心を抱いていた。しかし、ダンにまた気を遣わせることがないように、笑顔で自分を律し、上辺を繕っていた。ある意味、ダンのおかげで正しくいれる、と言っても過言ではない。ダンは、決断を迫られた時、耳元で囁いてくれる天使なのだ。疲れた時は、弟と動物の前でだけ素の顔に戻った。
さらに、大人になってから知ったのだが、笑顔は『威圧』にもなる。軍学校の教師に就職した時には、それが役立った。生徒たちは必要以上に怯えてくれて、正直気分が良かった。こちらの機嫌を取ろうと、勝手に動いてくれるのだから。
ダンとの噂が立ち始めてから始めた変装は、これまたハマってしまった。何せ、笑顔である必要が無いからだ。最近は塾に通う時以外は変装して過ごすようになった。さすがの弟も、「ちょっと顔が読みにくくなったなぁ」とうなっていた。
思い出に浸ったミノルは、また笑顔になる。ミミズを踏みにじってから蹴飛ばすと、表参道に戻った。これから弟を探さなければならない。彼を失ったら、いったい誰の前で笑顔を崩せばいいのか。誰が自分のことを見ていてくれるのか。
目標は博物館――――彼の職場だ。
きちんと目星をつけて、潰していくことにする。いきなりケイトに突撃してもいい成果があるとは限らない。まずは職場を訪ねて、弟の失踪を周知してもらうのだ。さすれば情報が集まりやすくなるかもしれない。間が良ければ、ケイトにも会えるだろう。
ミノルは早足になり、コンビニへ駆け込んだ。トイレでまた変装すると、消灯してある街灯を蹴り付けながら、博物館へスキップした。
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