1-8 部屋にひとり

 一人暮らしであるケイトは、特に「ただいま」と声をかける必要はない。しかし、現在部屋にはダンがいる。『いる』という定義が不安だが、ケイトにはそう感じられた。自分の部屋に帰るだけなのに、帰りたくないくらい緊張している。


 冷蔵庫をなるべく視界に入れないようにしながら、着替え、軽い食事、明日の準備を済ませる。


 シャワーを浴びる頃になって、ようやくケイトは冷蔵庫に目をやった。不衛生なものを確認するには、シャワーの前か後か、天秤にかけた結果、いまとなったのだ。

 取っ手に手をかける。ぞわりと鳥肌が立つ腕。


「……っ」


 一気に開け放ち距離をとった、

ドンッ、

 勢いのついた扉が跳ね返り、

バツッ、

 また閉じる。

 一瞬見えた中身は、昨日と相違ない。


「はぁ……はぁ……」


 今度は、きちんと取っ手を掴み、ゆっくりと開ける。ダンの死体。一日経っただけでは変色もしないらしい。口呼吸していたのを、鼻呼吸に切り替える。無臭の、冷たい空気。昨日洗った際にホースを用いて内臓もきれいにした、だから異臭は特に無い。腕が垂れてくる素振りもないので、死後硬直は済んだようだ。それでも腐敗は進むだろう。遺棄が終わったとしても、この冷蔵庫を使い続ける気は毛頭ない。


「死んどけよ?」


 特に意識せずに、ダンの太ももをつついた。張りのない肉。爪痕を付けてみる。反応はない。

 ほお……、と息を吐き、冷蔵庫が鳴きだす前に扉を閉じた。


 横の食洗器に置いておいたダンのスマホのライトが点滅している。通知が溜まっているようだ。ダイレクトメールも所々みえるが、ほとんどが『ミノル』からの着歴で埋め尽くされている。ケイトの脳裏に、髪型が派手な遊び人の男が浮かんだ。

 GPSはとっくに切ってはいるが、


「ここにあったら……まずいか……」


 そこでケイトは、レオに電話をかけた。


「落ち合おう。ダンの部屋にスマホをおいてきてほしい」


 えっ、と向こうで聞こえた。


『なんで、俺が』


 おどおどした様子が気に入らない。黙って言うことを聞け! と叫びたいのをケイトは抑えた。


「俺はあんたと違って明日も仕事だ」

『俺だって、バイトありますもん!』

「たかがバイトじゃないか。シフトずらせよ」

『でも、今彼はケイトさんじゃないスか、あなたが行ってくださいよ……』


 ケイトは言葉に詰まった。ダンのマンションの場所はわからないこともない。が、


「……だいたい俺の部屋だった。だから覚えてないんだ」


 ダンがケイトのマンションへ来ることはあっても、逆はなかった。ダンはケイトの障害を知っていたからだ。


 きっかけはケイトがバスで寝過ごしてしまったことだ。前日の夜に親と長電話をしたため寝不足だったのだ。このきっかけは、ケイトがダンを付き合い始めたきっかけでもある。終点に下りたケイトが、夜道を壁伝いに歩いているところを、ランニング中だったダンに見つけられた。その時だけ一度彼のマンションにお世話になったことがある。


 手を引かれて歩いた。屈辱だった。


 翌日は休みだったので、彼の部屋でお世話になることにした。彼がレシピを横に何かを作っている間に、彼をもっと知れるものがないか探した。机にも本棚にもまじめなものしか置いてない。

 ベッドのダッシュボードには家族写真が立ててある。父、母、兄、弟のダン。家族構成は一緒だ、とケイトは写真立てを戻す。エロ本でも隠しているんじゃないかと、マットレスをめくると、予想を超える物があった。


 おたまにスープをすくい、器に移している小さな背中。肩を叩いて振り向いた彼にそれを突きつけると、一瞬フリーズし血の気が引いたかと思えば、急激に顔を赤らめた。


「こういうのに興味があるわけ?」

「……」口をパクパクしている。

「どうなんだよ?」

「……そうです。興味、ある。俺変態だから」


 自嘲気味にヒッヒッヒッと笑う。目じりに涙が見えるから、しゃくりあげているようにも見える。酷く傷ついているのだ。自虐することによって、少しでも周りからの反応を軽いものにしたい。そういう魂胆だ。

 彼の欠陥はこれだ、彼の弱みを握った。ケイトはそう直感した。


「黙っててやるからさ、使ってみろよ」

「え、それは……」


 またフリーズしかけた彼は「で、でもスープ冷めますよ」ととんちんかん言い訳をして時間稼ぎをしたが、結局は言うとおりにした。


 その勢いで、ケイトは彼を支配した。ケイト自身に『興味』はなかったが、とてつもない征服感に溺れていくのがわかった。

 軍隊では同性愛者でなくてもこういうことが起きると聞いたことがあるが、このように権力を示すための一つの手段として用いられるのだろう。


 初めてだと彼は言っていたが本当だろうか。そうであろうとなかろうと、ケイトは興奮で痺れた。


『そうなんスか?』


 現実に戻る。レオは疑っているようだ。今起こっている様々な問題を思い出して、ぎりっと奥歯を噛みしめた。


「……そうだ。だから、あんたが適任だ」

『そんな……』

「今からバイト先にでも電話しろよ」

『だからそういうのは……』


 やいのやいの言い合ったが、結局はレオが押し切られる形となった。

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