Hollow Sky
宍戸 亜零
Batch.1
誰もいないカウンターにぽつんとパイントグラスが置かれている。
なみなみと注がれていたその液体はブラインド越しに入ってくる僅かな光さえも透過させない位に濁っている。
その濁りを見つめていると形容しがたい不安の様なものにかられるのだが、僕はその曇りに魅入ってしまう。
まるで今日の空の様な色で捉えどころの無い……。
いや元々捉えられる様な中身なんて無かったのかもしれない。
※※
「ああ、虚しい……。」
そういってベッドに飛び込んだ記憶は有る。
昨晩の記憶の詳細を辿りたいがアルコールに由来する頭痛がそれを邪魔している。
重くだるい痛みを掻き分けながらモヤがかっ
た記憶の断片を集める。
勉強会という名の強制飲み会に参加して、教科書に載ってる通りのモラハラ、パワハラ上司の何千回と聞いた擦り切れてしまえば良いような説法を聞いて、有り難い有り難いとヘラヘラ媚びへつらってたな。
辿ってみればいつもと変わらない記憶だ。
ギリギリで終電に間に合ったので駅から自転車を押して帰った。
色々と思う事が無い訳では無いのだが思ってしまえば自分が苦しくなるので自転車のライトの点滅をただぼうっと眺めて帰宅した。
在り来りな夜の記憶のモヤは晴れ、少しクリアになった思考が今の状況を分析する。
出勤時間まではまだ時間が有る。昨晩の穢れを引きずりながら支度をしてもまだ充分間に合うだろう。
正規の出勤時間ならば。
と云うのも、僕は出勤時間の遅くとも1時間前には出勤する事を「自主的に」上司に宣言させられている。
昨晩の消化しきれなかった毒を吐き出しながらシャワーを浴びる。ユニットバスもこういう時は便利だ。
胃薬と頭痛薬をサプリメントの様に飲み込むと急いで家を出た。
自転車に跨り外に出ると空は曇っていた。
自転車を漕ぎながら間に合わなかった場合の言い訳を考えていた。
ただ、どう取り繕おうと上司の説教は免れ無いだろう。正しく出勤していたって毎日何かしらの理由で叱責されるのだから。
幸いに道は空いていてどうにか間に合いそうだと安堵した。
と同時に何かに違和感を感じた。気圧のせいだろうか、信号で自転車を止める。
空を見上げると灰色に水色を混ぜた様な、今まで見た事の無い色をしていた。
空全体が塗りつぶした様にワントーンで雲ひとつも無いのに暗く濁っていた。
見ているだけで胸が詰まる様な不安や焦燥を煽る様な目を背けたくなる様な空だった。
台風か、黄砂か、それとも花粉だろうか。
何にせよ気味が悪い。
違和感を覚えたのは空だけでは無い。
朝の喧騒とでも言うのか色々な生活音、は話し声、自動車の音、街の息遣いの様な音にもならない音がしない。
それもそうだ。僕は気付いた。
誰もいないのだ。
車道には車もバイクもバスも自転車も1台たりとも走っていない。
この時間で有れば通勤や通学時間だ。
自転車や駅までの道のりを急ぐ人、いつもこの時間にプランターに水をやっている老人、黄色の目立つ自転車に乗っている女性、信号待ちをしている妙に姿勢の良いスーツ姿の男性。
いつもの朝の風景を構成するピースが誰一人としていないのだ。
僕が知らない間に何か災害等が有ったのだろうか、と思いスマートフォンのブラウザアプリを立ち上げるがこれといったニュースも無い。
目の前の現実とスマートフォンの画面のキャッシュレス決済サービスのコミカルな広告のギャップが逆に不安を煽る。
言い知れぬざわつきを感じつつも出勤しない、という思考は僕には無かった。とりあえず会社に行かなくては。会社に行けば何とか、と。
僕は駅へ自転車を漕ぎ出した。
誰にも会う事は無く、茅ヶ崎駅に着いた。
北口のバスターミナルやタクシープールももぬけの殻だったが、コンビニや駅の入口のおにぎり屋には電気が点いており、エスカレーターも誰を乗せるわけでも無く動いていた。今の今まで営まれていたのだろう日常がプツンと切られてしまった様な光景、生活の温もりが感じられる様に不気味さを感じた。
無人で有る事以外はいつも通りの駅構内にエスカレーターの足元注意のアナウンスが虚しく響いていた。
駅の電光掲示板には電車の到着予定が灯っており、運行情報掲示板には平常運転の4文字がグリーンで表示されている。
自動改札はゲートが閉まったまま待機しており、事務所にも駅員の姿は見当たらない。
電光掲示板の最上段の示す時間がもうすぐ迫ろうとしていた。
僕はICカードを取り出すと改札にかざす。
ピとカードを認識するとガタっと勢い良くゲートが開く。僕は少し躊躇したが恐る恐る改札内へと歩き出した。
改札内に入ると同時に列車到着のアナウンスとホームに侵入する電車の重い金属音が響く。
無人の構内では階下のホームの到着音ですら五月蝿い程に階上の改札口まで届く。
空想上の怪物の金切り声の様な車輪の音の後ドアの開く音、少し間を置いて発車メロディが流れる。
いつも通り変わらぬポップなメロディとこの異常な状況に驚きや恐怖、困惑と言う様な感情が僕の体内を駆け巡り足が動かない。
メロディが止むと重い車体を引きずる様に電車は発車した様だった。
どういう理屈かは分からないが電車は動いている様だった。電光掲示板に目を向けると次発だった電車が繰り上がり1番上に表示されている。二日酔いの頭では到底状況を整理し飲み込めず、僕は深く考える事を放棄して社畜の本能に身を委ねてホームへ降りる事にした。
4、5番線ホームでも誰の姿も見つける事が出来なかった。いつものルーティン通り僕はエレベーター前の乗車口の印の前に立つと電車を待った。
5番線から見える南口のロータリーにも動くモノは何も無く、利用者のいない信号機だけが規則的に赤から青に、青から赤に灯っている。
次の電車はすぐに来る様だ。
銀色のボディに橙と緑のラインの見慣れた電車は、寸分の狂いも無く僕の前の停車位置に停まり少し間を置いてドアが開く。
乗る事には抵抗が有ったが、発車メロディはポップな曲調とは裏腹に僕の躊躇を脅迫する。
僕は発車メロディが終わると同時に電車に乗り込むと、ドアが電子音を3回奏でて閉まる。
そして電車は鈍い悲鳴の様な音をたてながら発車した。
誰も乗りも降りもしない駅で、律儀に停まってはドアを開き閉じてを繰り返し電車は目的の駅に到着した。
もしかして隣りの駅ではいつも通りの日常が、とも思ったがどの駅も、車窓から見える街並みにも、誰の姿も無かった。
これは夢かも知れない、そんな事も考えたがこのリアルな二日酔いの気だるさが夢で有るならこんなに残酷な夢も無いだろう。
駅から近い事も有り会社まではすんなりと到着した。
オフィスには誰もいなかったが、この風景には既視感が有った。
僕は慣れたいつものルーティンでオフィスの電気と空調のスイッチを入れる。パソコンにも電源を入れると立ち上がるまでの時間で給湯室でインスタントコーヒーを淹れた。
泥水みたいなインスタントコーヒーをすすりながら、思考を整理する。
皆出社できるのだろうか。
この期に及んでも真っ先にそんな事を考えてしまった。
まずはこの状況を理解しよう。
そうだ、スマートフォンだ。誰かから連絡が来ているかも知れない。
メッセージアプリを立ち上げると、そこには昨晩の帰りに上司から送られたメッセージが1通。既読を付けたく無かったから読まなかったものが有るだけだ。
これ以外には誰からも連絡は無い。
試しに上司にメッセージを返信してみる。
「おはようございます。」
紙飛行機ボタンを押してもメッセージは送信されない。
スマートフォンのアンテナマークはしっかりと立っており、外界とは繋がっている様だがメッセージは入力窓から消えるだけだ。
結局、何人かにメッセージ送信を試みたが誰にも連絡は取れなかった。
さて、どうしたものか……。
パソコンは立ち上がったもののメールも電話も繋がらず、会議の資料等を纏めてみたが1時間足らずで終わってしまった。
普段の喧騒が嘘の様に静まり返ったオフィスで1人、椅子の背もたれに体を預けながら次は何をしようか考える。
皮肉なものであんなに酷い上司でも指示をくれる人間がいないと僕には出来る事が無いらしい。
思えばここ何年か上司の指示や他人からの頼まれ事をこなしているだけで自発的に何もしていなかったかも知れない。
何処かでこのままではいけないと思いながらも、それを仕事の充実として錯覚させて日々をこなしていた節は大いに有る。
いや違うな。
僕は自分で考える事を放棄していた。
充分に何も出来無い自分を客観視する事が怖かったのだ。
実に虚しい自己防衛だ。
すっかり冷えて酸っぱくなったインスタントコーヒーを一口飲み込む。
しばらく休みという休みも無かったな、どうせ誰もいないのだから、今まで出来なかったやりたい事でもしようか。
こんな所にいてもしょうがない。
少しだけわくわくしながら誰もいないこの1人の時間をどう過ごそうか考える。
あれ?
何もやりたい事が思い浮かばない……。
ああ、そうか。
与えられた事のみをやり続け、それを充実と錯覚し、自律からの逃避という快楽に溺れていた僕には、自由を与えられても楽しみ1つも思い浮かばなかった。
人を見下し、媚びへつらい必死でしがみついたこの生活で得たのは、人よりも少し多いだけの使う道の無い給料か。
僕は求められる僕を僕に積み込み、元々積んで有った僕を少しづつ捨ててしまった様だ。
思えば最後に……。
食事を美味しいと思ったのはいつだろう。
美味しいお酒を飲んだのはいつだろう。
思っきり笑ったのはいつだろう。
何かに感動したのはいつだろう。
明日が楽しみだったのはいつだろう。
昨日の思い出に浸ったのはいつだろう。
今日を生きたと言えたのはいつだろう。
僕は僕だと思えたのはいつだろう。
満たされてる。
と錯覚していた。
実際の僕は空っぽだ。
虚しい。
虚しい。
虚しい。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
ここに来た時よりは幾分か辺りは暗くなった気がする。
行く宛も無いがここから出よう。
会社から外に出ると空が低くなっていた。
灰色に水色を混ぜた濁った空に少しジャンプすれば手の届きそうだ。
この空に押し潰されそうに息が詰まる。
空っぽの僕の体はもうはや他者の認識無しでは僕という形を保てない様だ。
かろうじて僕の形をとどめている体を駅へと運ぶ。
宛も無いくせに結局は馴染みの有る場所に向かう精神が滑稽だ。
駅に着いた時だった。
死ぬ間際の動物の様にスマートフォンが痙攣する。
その微かな振動音が事切れる前の呟きの様だった。
メッセージが1通。
「久しぶり。元気か。また美味しいビールを飲みに連れて行ってくれ。」
そうか。
そうだ。
そうだったな。
茅ヶ崎駅に向かう為、僕はもう一度無人の電車に乗り込んだ。
エメロード通りを歩く。
国道1号線にぶつかる少し手前のビルの2階。
階段を上がりドアを開ける。
僕は入口から真っ直ぐ、目の前の誰もいないカウンターに腰をかけた。
※※
パイントグラスの中の液体を飲み干すと、ふうと息をついた。
まだつく息は有るみたいだ。
濁った空は地表に到達し、辺りは霧に包まれ数メートル先も見えない。
先程のビールの様に僅かな光も透過しない濁りの中を歩いてみよう。
もう少しだけ歩いてみよう。
この空に潰されるまで。
Name: Hollow Sky
Brewery: Expsure to the suffering Beer
Beerstyle: New england IPA
ABV: 6.5%
IBU:---
Hollow Sky 宍戸 亜零 @aray
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