異世界と魔女

名枕 寂介

第1話

 最期に見たのは眩く光る二つのヘッドライト。けたたましく響くスキール音や体の軋む感覚を俺は他人事のように感じていた。初めて見た走馬灯はどれも他愛のない日常の一ページだった。懐かしい日々を追体験していると突如暗転する意識。こうして、この俺、佐藤裕太さとうゆうたの一生は幕を閉じた。



 目が覚めると、眼前には一面の青天井が広がっていた。雲一つない青空が眩しく、俺は目を細めた。轢かれたはずであったのに、身体は少しも痛むことなく自由に動かせる。俺は上半身を起こして辺りを眺めた。


「ここは……?」


 俺が居たのはだたっ広い草原だった。眩しい日差しに照らされて暖かく、吹き抜ける風が心地良い。辺りには若草の匂いが漂っている。俺の以前の記憶を参照すると、小春日和の土手なんかが一番近いロケーションだった。


 状況確認のため記憶を遡っているうちに、俺の脳裏に事故の映像が浮かぶ。あまりに穏やかな状況に忘れかけていたが、直前の記憶は車とぶち当たるという大事故の映像であった。普通なら病院のベッドの上で目覚めるものではないだろうか。それなのに今の俺は草原に一人ぽつんと座っている。身体を確かめても、頭の先から足の先まで、それどころか服にさえ目立った外傷はなかった。一体、どういう状況なのだろうか。


「もしかして、天国?」


 俺の頭に嫌な想像が浮かぶ。考えたくはないが、自身の記憶と現在の状況を鑑みると、ここがあの世だという説が最も濃厚に思えてならない。こんなことになるなら、もっと家族や友人の顔を見ておけば良かった。日常の終わりとはこうも突然やって来るものなのか。


 しばしの間感傷に浸っていると、不意に腹の虫が鳴った。どうやら、あの世でも空腹は襲ってくるようだ。


 ――座っていても埒が明かないか。


 俺は立ち上がって伸びをした。凝り固まった筋肉がほぐされて気持ちがいい。身体の感覚はそう変わりないみたいだ。辺りを見渡すと遠くの方に草の生えていない道が通っているのが見える。ひとまずはあの道を辿って行くのが良いかもしれない。


 そう思い立って歩いたのも束の間、俺はある違和感に立ち止まった。空には雲一つなかったはずなのに、目の前にぽつんと影が落ちているのが見える。その影は次第に大きさを増し、形も変わっていった。俺は嫌な予感がしながらも、おもむろに空を見上げた。


「なぁっ?!」


 影の持ち主を見た俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。


 そこに飛んでいたのは典型的なドラゴンであった。全身を赤い鱗で覆われたそいつは長くのびる尻尾、大きく広げられた翼を持ち、鎌首をもたげて俺のことを見下ろしている。


 伝説上の生き物を目前にして俺はただ固まることしかできなかった。まず、威圧感が尋常ではない。あまりにもでか過ぎる。もしかしたら天国からの使いなのではないかとも考えたが、どう見てもそんな歓迎ムードではない。それどころか今にも取って食われそうな予感がして俺は身震いをした。まさに蛇に睨まれた蛙といった状況である。


 ドラゴンは動かない俺を見ると口を大きく広げる。そのまま勢いよく息を吸い込んだかと思うと、口内からとてつもない熱気が漏れ出しているのを感じた。何というか、やっぱり吐くのか、火。


 俺は死を覚悟した。今から逃げ出したとしても、多分そのまま焼き切られて終わりだろう。というより、足がすくんでしまって動くこともままならない。俺の脳裏ではつい最近流れたはずの走馬灯の上映準備が始まっていた。


「――っ?!」


 突如、虚空に一条の光が閃く。その光線がドラゴンの横っ面を捉えたかと思うと爆発的な衝撃が空気を揺らした。ビームを食らったドラゴンはそのまま倒れると、死んだのか気絶したのか分からないが、起き上がることもなく地に伏した。俺はあまりにも突然の出来事に驚いて声さえ出せなかった。


「hmiadeakiar?」


 突然、頭上から声をかけられて俺はその方向を見上げた。


 そこには一人の少女が空中にさも当たり前かのように座っていた。自分と同年代くらいだろうか。あどけなさの残る顔をしてはいるものの、ぱっちりとした大きい目に筋の通った鼻とかなり整った容姿をしている。目に映える白い髪を腰のあたりまで伸ばしており、それと対照的に身にまとった衣服は真っ黒な丈の長いローブのようなものであった。


「えっと、助けてくれてありがとう。君は?」


 今しがた聞こえた言語は日本語ではなかったが、おそらく喋りかけられているのに反応しないわけにもいかない。俺はまだ混乱の残る中、たどたどしく少女に話しかけた。


 それを聞いた少女は一人納得したような顔をすると、俺の目の前まで降りてきた。それでもなお、空中に浮いたままの少女はいきなり人差し指で俺の額を突いた。


「saheruber」


 少女がそう呟いたかと思うと、にわかに彼女の指先が光だした。


「なっ?!」


 俺は驚いて後ろに飛び退いたが、どうやら体に変化はない。


「別に変なことはしてないぞ」


 俺は急に聞こえた日本語に目を丸くした。その言葉はどうやら目の前の少女から発せられたもののようだ。


「君は一体……」


 呆然とした俺は独り言のように呟いた。その呟きに答えるように少女は堂々と自己紹介を始める。


「私はカトレア、偉大なる魔女だよ」

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