つぼみの口実

露草 ほとり

「これ、置いてこっかな。」


 引き出しを開けては言った。 中身をのぞき込むには足りていない背で、そろりと引き出しに折り畳み傘を差し込む。


 この前、進級祝いに買い物に行った折、ついでに見つけたお気に入りの赤いやつ。


「まだ畳むのは下手だけれど、軽いからいつでもカバンに入れておけるし、置き忘れたりしないでしょう。手先も器用になっていいかもしれない、そう思って買ってやったのよ」と先日の春雨の日、弾むような声に教わった。目の前で少しずつ開かれた傘は、小さな白い模様が散っていて、ぱっと目の前が明るく瑞々しくなる。いかにも彼女が気に入ることがわかる。


 このアトリエをこの春、彼女は出ていく。お別れ会もした。 通っている子たちの一人一人に引き出しがある。引き出しには、自由に描いた絵を貼ってもらっている。 春が近づくと去ってゆく子がはがして、再び真っ白になる引き出しの場所もあった。

 つぼみはお別れ会の日、新しい傘をアトリエの子たちに自慢して、ついに空にした引き出しに入れて帰った。だから、「忘れてるよ」と先日電話をかけて呼んでやったのだ。


 既に真っ白になっている引き出しに、彼女は焦れたように何度か傘を入れて出して見せ結局差し込んだ。

 アトリエでじっくり絵をかいた帰りがけ、ざあっと外に幾重にも水の糸が引かれていることもあるから貸出用の傘を入口に置いている。色違いのドット模様の透明傘。 いつしかそれがあるから自分のを持ってこない子も増えたけれど。毎週ここへ通う彼らが、また返してくれるから問題ない。引き出しが一つ一つあるみたいに、お気に入りの貸出用傘ができている常連の子もいる。それはそれでいい、とアトリエを開いている私は思う。小さな絵描きたちが、描こうとやって来ることが一番素敵なことだと思うからだ。それだけを素敵なことだとずっと思っていたはずだった。


「せっかく買ってもらったのに?」


 春霞にぼんやりした私が尋ねると。迷うような目がこちらを向く。大きな零れそうな瞳。まだしっかりしていないふわりふわりと宙を舞う手。子供の挙動は、なんて生きている感じがするんだろう。写し取って一枚描いてみたい。そう思ったのは、まだ春になり切らない鈍い光がゆるやかに木の床に差してくるアンニュイな色味が彼女を照らしたからかもしれない。


「貸出用の傘は足りてるよ。心配かけちゃったかな。」


 それでは買ってあげた人のアテが外れてしまうではないか。私は流し台に水をまんべんなくかけながら、少女の声を聞けるくらいの水音にするよう気を配っていた。キュッと蛇口を捻って、水の音が止んで辺りが静けさに満たされたから、声は凛と響いた。


「だってね、忘れたら、また来れるんでしょ。」


 彼女は光をいっぱい溜めた目で、こちらを見上げてくる。 若々しい黒い艶やかな髪。産毛を光に透かす頬。小さな口に紅がのったような血色の良い唇。 木やカンバスや画材の色だけが占めている空間は美しい。この季節はとびきり美しい。だからこそ、描きたいとは言えない。じっと見つめたりしない。いつだって通りすぎていくことを、もう何度も知っている。この子の初めての春の別れを、私は何度だって知っているけれど。 本当は私のほうが特別に覚えているものなんだ、って言ってもわからないだろうから。


「それは持っておく大事なものだろう。」


 私が笑うと、彼女は、すっと目を伏せて、だらんと垂らした手を、勢いをつけて再び引き出しに伸ばす。 これだけ動く一挙一動を、きっと次に彼女が来ることがあっても、見ることはないのだろう。 そんな一挙一動をしていたことは、彼女にとっては一瞬なのだ。私にとっては写し取りたいくらいに永遠の対象でも。


「じゃあ、こっちにする。」


 彼女は先日引き出しから剥がした紙を、習い事バッグから引っぱり出す。先日まで確かに彼女のものだった引き出しの中へ吸い込まれるように紙は手を離れた。彼女の今の背では、引き出しの底の薄い紙一枚の取り出しには苦労することを私はよく知っていた。


 踏み台?抱っこ?


 今は、そう聞いてはいけない気がした。彼女はつぼみになってしまった。咲くことを知っている蕾に。


 私は言わない。彼女がまだ手の届かない最上段の引き出しだけ、いつの春も真っ新なままであることを。通う子たちには決して届かぬ位置にある引き出しは、ある春には、今の彼女の引き出しと同じ段にあったことを。何度アトリエの庭の桜の蕾が開いて、春を染めても、あれより美しい春は決して来なくて私は春を待っていないことを。


「あの時入れた絵。また来る口実って言ったでしょ。」と聴こえた気がした。あの時は「口実」とはっきり難しい言葉を知って悪戯っぽく微笑んだのだ。咲きかけの蕾みたいに。


 彼女が口実をまだ覚えていて、そうして平然とやって来るときが、来ても良いし、来なくても良い。

 並べていよう、あの時からまっしろな引き出しと、今、するりと絵が入ったまっしろな引き出しを、最上段へ。


 その時は、もう二度と春を待たない、本当に美しい春になるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つぼみの口実 露草 ほとり @fluoric

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ