第55話 伯母の邸宅にて
婚約は契約書にまとめられ、式は私の卒業を待ってすぐと決められた。
母の所有する使っていない別邸を侯爵家の費用で改装し、新居に使うことなど、細かい取り決めも行われた。
女性からの告白案件の増加により、私の事例が問題視されることがほとんどなくなったため、学園でイチャイチャする必要はもうなかった。むしろ、禁止された。
「残念だ」
ケネスはうなったが、風紀監督のブラウン女史はとにかく、あろうことか彼女の尻馬に乗ったアーノルドまでが禁止してきた。
「越権行為だ!」
ケネスは抗議したが、ブラウン女史はうっかり笑い出し、アーノルドは真剣に言った。
「そんな真似は、自邸かデート先でやれ」
さらに、なぜか真剣に付け加えた。
「目の毒だ」
アーノルドが真剣になった理由がわかったのは、だいぶん後のことになる。
そこで、私はケネスをグレンフェル侯爵家へ誘った。
母が今晩は晩餐会に招かれていて遅くなるので、グレンフェル侯爵夫妻のところへ行っていいと許可をもらえたのだ。
正門は厳めしい鋳鉄製だったが、中に入った途端、ケネスは言った。
「懐かしい。あの庭だ!」
客間に通されると、ニコニコしている伯母が出てきて言った。
「そうね、13歳の時以来、入れませんでしたものね」
伯母はケネスがうずうずしているのを見ると、笑って許した。
「シュザンナを連れて庭に出てきてもいいわ。なつかしいでしょう。ここで夕餐を食べてらっしゃい。あなたのお母さまは、バルゾー卿の晩餐会に行って遅くなるはずよ。気にしなくていいわ」
勝手知ったる他人の家。ケネスは子供の頃と同じように、私の手を握ってフランス窓から庭に出て行こうとしていた。
後ろで伯父の咳払いが聞こえた。
「大丈夫かな?」
「庭師のエディとジョーが巡回しているのよ。大丈夫よ」
伯母のおだやかな笑い声が聞こえた。
私はケネスに引きずられるようにして、庭に出ていった。
でも、もう、子どもの頃のように、手を握ってぐいぐい引っ張っていくケネスじゃない。
私の様子を見ながら歩調を合わせてゆっくり歩いてくれる。舗道の敷石がゆがんでいたりすると、手を取って歩みを緩めてくれた。
伯母の家の庭を久しぶりにケネスと歩くと、彼の変わりようにちょっと衝撃を受けた。
もう立派な大人だった。体の大きい、昔も力ではとても敵わなかったが、今はそれ以上に差は歴然としているだろう。
だけど、ケネスの昔からの、私に向けられた特別な感情はそのままだった。
とても気になるらしく、かまって欲しそうな感じ。視線を感じる。
今は顔に向けられるケネスの視線が熱い。
婚約が正式に決まってから、カリカリした焦燥感はなくなったけれど、代わりに熱っぽさを感じるようになった。
目が合うとにっこりする。
よだれでも垂らしそうな、嬉しそうな顔だ。
こっちまで赤くなってしまいそうで目線のやり場に困った。
この庭でケネスと一緒は本当に久しぶりだ。
両親が帰国して以来、会えなかった。
今日は母が晩餐会に行っていて遅いのだから、遅くなってもきっと怒られない。母は、私が自邸にいないと気にするのだ。
「ねえ、覚えてる? あそこに庭師の小屋があったの」
「覚えているわ」
庭はぐるりを塀で囲われていて、隣はオズボーン家だった。
私は庭を越えて、オズボーン家へ侵入したことがなかったので知らなかったが、実は侵入ポイントがあって、子どもの悪戯心をそそっていたらしい。
「ここから出入りしてた」
庭師の小屋の奥に小さな通用門があった。通用門と言うより、塀が崩れた後を木の板を立てかけて修繕しただけように見えた。庭師の物入れ小屋のちょうど裏に当たり、冒険好きの子どもには堪えられない秘密の出入り口だ。
「使用人も庭師以外知らないんじゃないかな」
それでしょっちゅう出入り出来ていたのか。
「子どもの頃の記念の出入り口だよ。君にぜひ知って欲しかったんだ」
彼が笑顔で手招きするので、こんな狭いところを出入りするのはどうかなと思ったが、今日は軽いドレスを着ていたし行ってみることにした。
ドキドキしながら、くぐり抜けると、オズボーン家の庭だった。
「ようこそ」
ケネスが笑っている。
オズボーン家はこの屋敷が本邸なので、庭も広い。
ここは隣家との境界に近く、見通しがきかないように林のままになっていた。
「まあ……まるで森の中にいるようだわ」
大昔に邸宅が建てられた頃、もう何十年も前だろう、その頃に余った石材が積み上げられて小山になっていて、ちょうど頃合いに座れるような高さだった。
「ちょっと、神秘的な感じさえあるのね。町の真ん中なのに」
この場所は、石材と塀に挟まれ、誰からも見えない。背の高い木々が見下ろしているだけだ。
オズボーン家の人たちはこんなところに息子がいるとは夢にも思っていないだろうし、グレンフェル家の人たちは噴水のそばで語らっているか、庭を散歩していると思っているだろう。
「ここに座ろう」
灰色の目の魅力は抗いがたい。
手を取って、座らさせられた。
近すぎる。近すぎるけど、突き放せない。
背中に手を回されて、体ごと引き寄せられた。
彼の手が、私の指を捉え、手を捉えた。
「学園の食堂では何もできなかった」
(そんなことはありません。恥ずかしかったです)
背中の手はまるで鋼鉄のようだった。逃げられない。近いままだ。
「あの……恥ずかしいわ。放して?」
ケネスは返事をしなかった。ますます強く抱きしめられただけだ。
絡ませた指を外そうとしても、手首をつかみ直されると、自分の手なのに動かせなかった。
彼は自分の頬に、いかにも愛おしそうに私の手を持っていって当てた。
「もう一度言って欲しい……好きだって」
「……好きよ」
ケネスは私の手にゆっくりとキスした。
それから目を上げて私の目を見つめた。
何と言う威力!
だが、同時に、彼は私の指を自分の口元に持っていくと、唇で吸い込み舌で指をなめ始めた。
「あ、あの……てを、指を返して……」
声が震えた。
手は放してもらえなかった。
彼はぐっと身を寄せて、顔を近づけた。私の指をくわえたまま。
「指を放して欲しいんだね?」
ようやく指をなめるのをやめると、顔から数センチのところで彼は聞いてきた。
うんうんとうなずくと、彼はほんの少し口を開くと、その唇が、次は指ではないものをむさぼり始めた。
ずいぶん時間がたった気がしてから、やっと彼は唇を離した。
「婚約者同志がキスするのは当たり前なんだ」
その説明っぽいセリフはいったい……なんなんだ。言い訳?
ケネスは昔からかっこよかった。
すてきな人だった。
だけど、いつも何かおしりのどこかがこそばゆくなるような危険を感じる人物だった。
特に私を見る時の目がどこかおかしい時がある。
もしかして指フェチの変態だから?
おそるおそる口に出して確認すると、彼は言った。
「なに言っているんだ。全然わかってない。まるごとフェチだよ! 今は指だけで我慢してるのに!」
*********
「君の彼女だけど……」
ある時、オスカーがもったいぶって学園でケネスに話しかけた。
「婚約に持ち込む方策として、既成事実化も一応提案してみたんだが……」
ケネスは半目になった。
サービスとして行き届きすぎている。
大体、提案内容が不穏当だ。
「ケネスはそんな人じゃないって怒られてしまったよ」
オスカーはため息をついて見せた。
「僕がケネスも想像してるって教えてあげたのに、これだよ」
「なんだと? 余計な……」
「君を信じてる。ちょっと間違っているような気もするけど。可愛すぎる。だけど先は長いね」
「俺の婚約者だ。余計なお世話だ。お前こそ、考えるな」
「うん。ごめん」
ものすごくめずらしいことにオスカーが謝った。
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