【G①-4】絶不調

 大学の講義が終わり猛虎が外に出ると、もう夕方過ぎの茜空だった。

 自然と足は自分の家ではなく、巨人の家へと向かう。白い息を吐きながら雪を踏みしめるその歩みは、普段より遅い。それは雪のせいだけではなかった。


 ネットでは動画更新詐欺とか、再生数の新作出す出す稼ぎ、とか言われている。最初は『虎徹ブログ』にも、理解のあるコメントが多かった。「応援してます」とか「面白い動画ありがとうございます」とか「無理しないで二人のペースでやってください」とか。

 今ではそれが「いつまで待たせるんだ」とか「500万再生で天狗になってる」とか「新作はよ」とか、ひどい時は「嘘つき」「詐欺師」呼ばわりなんかされて、耐えられず猛虎はコメント欄を閉鎖してしまった。最近流行りのツイッターなるものを始めてみたが、ブログと同じように心ないリプライ、つまり自分のつぶやきに対するコメントが数えきれないほど返ってくる。反論したって謝ったって、何をしたって、そいつらは二人を許してくれない。


 アパートに着いて、コツンコツンと音を立てながら猛虎は階段をあがる。かじかんだ手で呼び鈴を鳴らしても反応がない。ドアにはカギがかかっていなかった。コートを脱ぎながら、猛虎は畳の部屋へとゆっくりと歩みを進める。


 正直、こんな状況に猛虎は辟易していた。しかし……

 しかし、巨人のせいだとは猛虎は思いたくない。なぜなら、


「キヨちゃん、今日も講義に行かなかったの?このままじゃ……、留年しちゃうよ?」


「……………………」


 夏休み明けから毎日のように、こんな巨人の姿を見ているからだ。

 小さなコタツに正座して、無精ヒゲを生やしたヨレヨレの上下灰色スエット姿の巨人が、虚ろな視線を一瞬だけ猛虎に送る。すぐにテーブルの大学ノートにその一瞥いちべつは落とされた。


 今日も絶不調だ。猛虎は心の中で頭を抱えた。


 ノートを覗けば、まるでいたずら書きのような文字や絵が並んでいる。そのいたるところに、大きくバッテンが殴り書かれている。それはホラー映画にでも出てきそうな、おぞましい絵にも見えた。


「ね……ねえ、キヨちゃん?」


「ごめん。今日も動画、撮れそうにないわー」


 こちらを見ることもせず、巨人が呟く。なんだか全身が怠くなったような気がして、立ち尽くしていた畳に猛虎はへたりこんだ。


「いいよ、動画なんて。あ、明日はさ、二人で気分転換に、どっかお出掛けしようよ。……動画のことなんて忘れてさ」


「…………は?」


 血走った双眸が猛虎を睨んでくる。幼馴染のそんな瞳を、猛虎は今まで見たことがなかった。肩が震えるほど怖くて、思わず声をあげそうになるくらいだった。


「そういうわけにいかねーべ?みんな俺たちの新しい動画を待ってんだからさぁ」


 これだ。これなのだ。巨人を追いつめているモノは。

 実際に『新選組』の新作動画を待望する声は止むことを知らない。『虎徹』のブログが炎上するくらいに。

 猛虎にはその理由が、実のところ一つも分からないのだが、二人の動画を求める声はあまりに多く、あまりに強く、あまりに大きくてあまりに鋭利過ぎるのだ。動画を監督しているとも言える巨人が、抱えきれないほどのプレッシャーで傷ついてしまうほどに。


 それは、この夏に出演した『スマフェス』のせいでもあった。東京まで遠出してゲームブースに声だけで参加したのだが、観客の熱狂ぶりや笑い声の大きさに猛虎は圧倒されそうになった。こちらは小さい頃からやっているように、いつもと同じ感じで話しながら楽しく笑い合ってゲームしているだけだというのに、それはまるで大きなうねりのように、会場を歓喜で包んでいた。


 猛虎には楽しかった思い出なのに、巨人にはそれが違って見えたに違いない。目の前の血走った彼の瞳は、あれをどう捉えたというのだろう。今はすでにそれが、まるで遠い昔の出来事のように感じる。


「悪いけど、今日はもう帰ってくれる?動画の流れが見えたら、こっちから連絡するからさぁ」


 突き放すような巨人の言葉に、猛虎は冷たい熱のこもった感情がこみ上がる。


 ゲーム実況なんて始めたから、こうなってしまった。動画配信が、自分の大切な幼馴染を、密かに思い続けていた彼を変えてしまった。こんなことになるのなら、動画配信なんてするんじゃなかった。二人で楽しむゲームの時間は、他人に見せるためのものじゃなくて、猛虎が巨人を独り占めできる、二人だけの時間だったのだ。それを軽い気持ちで他人になんか見せるから、こんな取り返しのつかないことになってしまった。


「モコ。ほんと、わざわざ来てもらって悪いんだけど……」


 動こうとしない猛虎に、巨人はこちらに目もくれずに呟く。


 帰ろう。もうやめよう、こんなこと。巨人から連絡が来たとしても、動画を撮るのは金輪際やめよう。きっと、二人でゲームをしても面白くない。楽しくない。どんどん彼のことが嫌いになってしまうだけ。


 もう、二人で会わない。ここにはもう来ない。そう伝えよう。終わりにしよう。『新選組』も。二人の関係も。この淡くて長い、あまりに長い時間、心の奥にしまっていた、恋心も。


「キヨちゃん。あのね…………」


  そう、猛虎が口を開いた時だった。猛虎が肩から降ろしたポーチから、携帯電話の着信音が響いた。言葉を続けようとした猛虎だが、


「出たら?」


 と巨人に促される。ポーチを開けて携帯電話を手に取ると、そこには『アスさん』の文字。


 『スマフェス』の最後にみんなで写真を撮ったあと、同世代の女の子、同じ北海道在住ということもあって彼女とは連絡先を交換していた。掛け直してもらうつもりで、猛虎は通話ボタンを押して携帯を耳にあて「はい」と応じる。


「あ、ホントに出た。やっほー久しぶり。『アス』でーす!『虎徹』さん?いま動画撮ってたりしてない?」


 人気配信者というのはすごい。素直に猛虎はそう思った。彼女の声を聞くだけで、猛虎は少し身体に元気が戻った気がした。


「ううん。動画は、最近ちょっと……」


 電話だというのに思わず猛虎は首を横に振ってしまう。


「そっか。あのさ。アタシ、雪が降ってきて思いついちゃったんだけどさ。みんなで遊ばない?雪合戦しようよっ。かまくらも作ろうっ!『きたぐに』と『新選組』でさぁ!あ、東京から『ムンク』のおじさんとか呼んでも面白いかもね。そのあとみんなでゲーム大会しよ?んで、メンバー一人ずつが、シリーズ物でその動画をアップすんの!コラボ動画ってやつ?これ絶対ウケるよ!?」


 電話を切るつもりだったのに、まくし立てられてしまった。


「ちょ、ちょっと待って『アス』さん……。あの……」


 巨人にまず伝えたいので配信を引退することにしたとも言い出せないし、要件を聞いてしまったので掛け直すとも言い出しにくかった。猛虎は一度、電話を耳から離す。


「キヨちゃん。『きたぐに』の『アス』さんが、コラボ動画をつくらないかって……」


 ノートにガリガリとなにか書き殴っていた巨人の手が止まった。一瞬の逡巡。巨人の目玉が虚空を見て、それが次には猛虎の瞳をとらえた。


「……オッケーって言って」


 さきほどの血走っていた目に、どこか生気が戻っている。


 なんで、と猛虎は思った。


 いや、本当は思いたくなかったが、思ってしまった。どうして彼を動かせるのは、私ではなかったのだろう。私ではなくて、別の女の子なのだろう。


 そんな心に刺さった棘を、猛虎は無視する。電話を耳に戻した。


「……ッパンだよね?絶対ウケると思うわけ。すごくないアタシ?こういうのを天才っていうんじゃないかな?『虎徹』さんもそう思うでしょ?ねー、聞いてる?」


「あ、ごめんなさい。ちょっと聞いてなかった。『近藤さん』にやるかどうか聞いてたの」


「え、マジ?隣にいんの?え?やっぱ一緒に住んでたりしてんの?二人って、付き合ってんの?」


 デリカシーがない、と口に出しそうになったのを猛虎は寸でのところで止めた。『アス』さんじゃない時は清楚系美人だ、と『スマフェス』で同じ『きたぐに』の『kunちゃん』さんに聞いたが、ちょっと信じられない。


「ううん。付き合ってない」


 そして、もうきっとそんなことにはならないだろうと猛虎はあらためて思う。いけない、と猛虎は心が緩みそうになるのをこらえた。涙が目に浮かびそうになる。


「ふーん。そりゃいいことを聞いた。『近藤さん』やるって言ってくれた?」


「うん……。オッケーだって」


 返事をしながら、なにがいいことなのか考えようとするが、泣きそうになっているからあまり余裕がない。


「じゃあ決まりっ!日時はあとでメールするね。じゃ!」


 いつもと変わらない電話が切れる音でさえ、なんだかいつもより元気に聞こえるぐらいの『アス』の勢いだった。視線を戻すと、巨人はすでに興味をなくしたかのようにこちらも見ずにノートと向き合っている。


「遊ぶ日はあとでメールするって」


「……うん」


 気のない返事。

 猛虎は静かに目をつぶり、零れそうになったそれを擦った。


「じゃあ私、帰るね」


 立ち上がって踵を返す。巨人に背を向けると、涙が溢れて、止まらなくなった。


 それでも、巨人はついぞそれに気が付くことはなかったし、猛虎は立ち止まることはなかった。

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